その3
鑑賞室の扉を開けたのは予想通りの人物だった。
ホームルームが延びていたのだろう。一言おざなりな詫びの言葉を口にし、吉良醒時も楽譜整理に参戦。二人きりだ。正確には悪魔憑き一人と人間一人と悪魔一挺だが、とにかく余計な者がいない今は絶好のチャンスと言えるだろう。
煉はアンドゥスキアスに目配せした。
(さあ突撃だ)
(え、今……ですか?)
(今じゃなかったら、いつやるつもりなんだ。二日連続で接触できる好機なんで滅多にないぞ。これはもう天が吉良醒時の〈音色〉を奪えと定めているに違いない)
(悪魔を応援する天なんて聞いたことないですよ!)
文句だけは一丁前だ。煉は目を眇めた。普段は意識して抑えている威圧をほんの少し表に出す。
(アンドゥスキアス)
名を呼ぶ。それだけで十分だった。アンドゥスキアスの背筋がぴんと張り詰める。
(わか、りました。行きます! 全力でやらせていただきます!)
『あ、あのー……』
蚊の鳴くような声。意を決した割にアンドゥスキアスは弱気だった。
『お久しぶり、です、ね』
昨日会ったばかりだろ。内心でツッコミを入れつつ、煉は弦楽器のパート譜をまとめてクリップでとめた。
『覚えてますよね、吉良醒時さん。僕ですよ』
完全無視。作業をする醒時の手は止まるどころか遅まりもしない。
『……聞こえてますよね? 返事くらいしてくださいよー』
早くも暗礁に乗り上げたかと思っていたら、醒時が動いた。
「おい」
さあ誘惑続行だ。頑張れアンドゥスキアス。
心の中でエールを送っていたら肩を叩かれた。
「貴様のヴァイオリンか?」
「え?」
醒時が指差した先にはケースに収められているアンドゥスキアス。
「ああ、オレのだ」素知らぬ顔で聞き返す「それがどうかしたのか?」
醒時は歯切れ悪く「いや……」と口ごもった。よしよし興味を示し始めている。いい傾向だ。
「良かったら触ってみるか? あんまり大した楽器じゃないが」
醒時は何も言わなかった。煉がケースを開けてヴァイオリンを取り出しても無言を貫いていた。拒否しないので、嫌ではないのだろう。前向きに考えて煉はヴァイオリン(アンドゥスキアス)を醒時に手渡した。
『対面するのは初めてですね、吉良醒時さん』
「ヘフナーか」
長く筋張った指が杢目をなぞる。普段弾き慣れているヴァイオリンが小さく見えた。
「よくわかったな。弦楽器専攻でもないのに」
正式名称は『カール=ヘフナー』。ドイツ最大の老舗楽器メーカーだ。弦楽器と言えばヘフナー。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスはもちろん、ギターやベースに至るまで様々な弦楽器を製造している。
質はいいが、明確な特徴のないヴァイオリン。ピアノとは違って、ヴァイオリンは楽器一つ一つに刻印がされているわけでもない。ヘフナーも例にもれず、初心者用の安物よりもワンランク上のヴァイオリンを量産している。
醒時はことさら丁寧にヴァイオリンを裏返した。
「だが、このアンティーク仕立て。一枚板の杢目を引き立たせる独特の光沢……間違いなく職人技だ」
煉は目を輝かせた。
「わかるか? カール=ヘフナーの四五〇番」
「限定版だな」
大きく頷く。まさか音楽科でもない醒時がヴァイオリンにここまで精通しているとは夢にも思わなかった。ただの背の高い高慢ちきピアノ弾きだと思っていたのに、嬉しい誤算だった。
「アルコールニスがいいんだよな。見ろよ、このブラウン。艶やかで匂いも色も上品というか、落ち着いている感じで」
『あ、あのー』
「実に美しい。工芸品と呼ばれるのも頷ける」
『それはどうも――じゃなくて、昨日の続きを』
「音もいいんだぜ。音鳴りもいいし、透き通るような音色で、自分で弾いてて時々うっとりしちまうんだ」
『……あのー、僕の話を』
「「うるさい」」
期せずして二人の声が合わさり、アンドゥスキアスは撃沈。そこでようやく煉は本来の目的を思い出した。カール=ヘフナーの素晴らしさを語り合う前にやるべきことがあった。
醒時の顔を盗み見る。彼の視線はヴァイオリンに向けられたまま。煉がアンドゥスキアスの声が聞こえていることに気づいていない模様。よし、まだいける。
「あ……悪い。オレ、教室に忘れ物してた」
『ええ! そ、そんなあ……っ!』
見捨てられた子犬のような悲鳴をあげるアンドゥスキアスだが、煉としては気を使ったつもりだ。吉良醒時にしてみれば部外者(浅野煉)がいる手前、ヴァイオリン話すなどという真似はおいそれとはできない。逆に二人きりになれば心置きなくアンドゥスキアスと話せるだろう。
「すぐ戻るから」
無論、可能な限りゆっくり戻るつもりだ。縋るような視線を背に、煉は廊下側に続く扉のノブに手を掛けた。