プレリュード(前奏) その1
『ねえ、そこのお兄さん』
世にも間の抜けた声に呼び止められたような気がして、吉良醒時は振り向いた。しかし、そこには厳重に保管された楽器が並んでいるだけ。生徒立ち入り禁止の音楽科倉庫故に人影はない。気のせいか。
愁眉を寄せて醒時は楽譜探索を再開した。普段はきっちりと着込んでいる学生服を今は第二ボタンまで外し、楽譜ファイルを取り出しては一つずつ確認する。
『美形のお兄さん』
空耳にしては明瞭な声音だ。醒時は手にしていた楽譜を棚に戻した。
『榊醒時さん』
「吉良、醒時だ」
訂正してから周囲を見回す。人の気配はない。もともと大して広くもない部屋だ。楽器と楽譜の棚に阻まれて隠れる場所もない。
『探しても無駄だよ』
くすくす、と忍び笑う声すらも鮮明だ。だが、肝心要の姿が見えない。
「何の真似だ」
『そんな怖い顔をしないでくださいよ。僕はずっと君のことを見ていたんだから。正確には、君の音色を聴き続けたんだけど』
薄気味悪い前置きをしてから、不審な声は『君、ピアノ上手ですよねー』としみじみ呟いた。
『入学式で演奏した「ラ・カンパネラ」は秀逸でした。坊ちゃんもえらく気に入って……』
「オレに何の用だ」
『そんな才能溢れる榊醒時さんに』
「榊ではない。吉良だ」
『とっても耳寄りな情報です』
「聞け」
傍から見てこれほど滑稽な光景はないだろう。男子高校生一人が無人の倉庫で宙に向かって話している。
『あなたの才能をもっと伸ばしてみませんか?』
醒時が微かに反応を示せば『声』は得意げに語りだした。
『どんなに音痴で救いようがない落ちこぼれだろうと数年で偉大な音楽家に! 今なら新規契約の方にもれなく洗剤をプレゼントします』