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短編まとめ

ツクツクボウシはもう鳴かない

作者: 遠野さつき

 ナツのか細い吐息が部屋に溶けていく。


 赤子が親を探すように、周囲に視線を漂わせながら。


 何か伝えたいのだろうか。身を屈めてナツの顔を覗き込むものの、周りが騒がしくて聞こえない。


 庭で邪魔をするツクツクボウシに苛立つ。縁側の障子を閉めようとしたが、ナツが外を見たがったのでやめた。

 

 濡れ縁の向こうには、青々とした木々が生い茂っている。さっきまで雨が降っていたからか、土の匂いが濃い。


 どちらも有り余る生命力を誇示しているように思えて、内心歯噛みする。どうか、その力をナツにも分けてやって欲しいと祈りつつ、生ぬるい風に揺れる体毛に手を伸ばす。


 あれだけ黒々としていたのに、今では雪みたいに真っ白だ。静かに横たわる体も、見る影もなく痩せ細っている。まるで、ナツを拾った時のように。


 あの日も今日みたいにツクツクボウシが鳴いていた。強烈な太陽の光も届かない路地裏に横たわり、死にかけの蝉を眺めていた薄汚い子供。それがナツだった。


 骨と皮だけの体。鼻をつく異臭。引かなかったと言えば嘘になる。ボサボサの黒い体毛の隙間から、怯えと警戒心を剝き出しにした目が、立ち尽くす私を見上げていた。


 悩みに悩み抜いた末、私はナツを連れて帰った。我が家は五人家族とはいえ、家は広く、それなりに裕福だったから、ナツが一匹増えたところで大丈夫だと思ったのだ。


 けれど、その目論見はすぐに打ち砕かれた。ナツを見た母親は、「私たちとその子では寿命が違う」「最期まで世話をする覚悟があるの?」と反対した。こういう時、必ず味方になってくれる父親や祖母も、「飼うのも難しいし、流石にねえ」と良い顔をしなかった。


 三つ下の妹だけは、「飼いたいよお」と言ってくれたが、若干七歳の意見が採用されるわけもなく、多数決でナツを元の場所に戻すことが決まった。


 とはいえ、一度拾っておいて、そんなこと出来るはずもない。路地裏なんかに置けば、いつ何に襲われるか知れないのだ。必死になって里親を探したが、赤ん坊でも大人でもないナツを引き受けてくれる人はどこにもいなかった。


 進退極まった私は、母親の言うことを聞くふりをして、祖父が遺した裏山でナツを飼うことにした。生き物を飼うのは初めてだったが、運良くクラスメイトに経験者がいたので、ナツの飼い方について詳しく教えてもらえた。

 

 ナツは私より遥かに弱く、少しの怪我でも死んでしまう。暑さや寒さにも弱い。


 独りぼっちのナツには助けが必要なのだ。私が守ってやらなければいけないのだ。子供故の思い込みと正義感に突き動かされるまま、山に捨てられていた廃材を利用して、長らく放置されていた小屋を補修した。


 そして、お小遣いで買収した妹と交代で朝晩食事を運び、学校が終わると一目散に駆けつけた。最初は警戒していたナツも、徐々に懐くようになって、毎日毎日、泥んこになって遊んだ。


 楽しかった。幸せだった。子供が少ないこの街では、私の遊び相手は妹だけだったから。

 

 ――このまま、ずっとナツと遊んでいたい。そう思っていたある日、暴風雨の予報が出た。過去最大級だという。商店街には早々にシャッターが下され、学校も休校になった。


 小屋には何度も補強を重ねたとはいえ、素人仕事だ。いつもは放任主義な母親も、今日ばかりは目を光らせていたので、こっそり家を抜け出すことも出来ず、さっきまで白い鱗雲を浮かべていた空が、見る見るうちに灰色のカーテンで覆われていくのをソワソワして眺めていた。

 

 仕事を早退した父親が三和土(たたき)から上がった瞬間、待ちかねていたように激しい雷鳴が轟いた。横殴りの雨が雨戸を叩き、腕の中で震える妹が悲鳴を上げる。


 もう居ても立っても居られなかった。両親の制止を振り切って外に飛び出し、ナツの元へ走る。

 

 ナツは崩れかれた小屋の中で震えていた。白光が閃く中、抱き寄せた体がとても冷たかったのを覚えている。私には分からない言葉で、ナツがしきりに吠えていたのも。

 

 気づけば、見慣れぬ天井を見上げていた。右隣には心配そうな顔をした両親。左隣には泣き腫らした目をした妹。そして、その腕の中にはぐすぐすと鼻を鳴らすナツがいた。

 

 あのあと、崩れた小屋の下敷きになって気を失ったらしい。ナツには傷ひとつない。暴風雨が吹き荒れる中、体の下に抱き込んで守っていたそうだ。触れると無意識に力を込めるので、引き離すのが大変だったと怒られた。

 

 母親は怒りと安堵が入り混じった顔で、「覚悟は出来ているのね」と言った。私は、ただ黙って頷いた。その日からナツはペットではなく、私のもう一人の妹になったのだ。

 

 ボサボサの体毛が艶を帯び、針金みたいだった体に肉がつくに連れて、ナツはよく笑うようになった。ナツをあまり知らない人からは、「あれは威嚇よ。怖いわ」などと言われたりもしたが、一向に構わなかった。


 たとえ雨や槍が振ろうとも、毎日散歩に付き合い、食事を摂らせ、体を洗い、共に眠る。もはや、私の生活はナツを中心に回っていた。

 

 一人と一匹で、どこまででも行った。小魚の跳ねる川、薄暗いトンネルの向こう、落ち葉の絨毯が敷き詰められた公園、どこまでも続く線路の先……。 


 奥へ奥へと進みすぎて帰れなくなった時もあった。歩き疲れてしゃがみ込む私に寄り添うぬくもりを、今も決して忘れてはいない。


 ――そういえば、恋を応援してくれたこともあったっけ。


 お相手は私にナツの飼い方を教えてくれたあの子。通学カバンがランドセルからボストンバッグに変わっても話しかけられない私のために、ハーネスから抜け出してきっかけを作ってくれたのだ。

 

 残念ながら恋は実らなかったけれど、とても良い思い出になった。彼は今、どうしているのだろう。私が就職で家を離れてから、彼も地元を離れたみたいで、その後の噂はとんと聞かない。


 願わくば、私にナツがいたように、誰かがそばにいて欲しいと思う。――きっと、彼も今の私と同じ痛みを経験したはずだから。

 

 就職……。随分と昔に感じる。私は最初、ナツを置いていくつもりだった。危険が多い都会より、慣れ親しんだ田舎の方がのびのび生きられると思ったのだ。

 

 でも、あの時……。夜明け前に家を出ようと玄関に向かった私の目に飛び込んできたのは、三和土に出していた靴と荷物を隠し、威嚇するように低く唸るナツの姿だった。


 それまで、ナツは私の言うことを素直に聞いていた。なのに、何度説得してもその場から退かなかった。そのうちに呆れ顔をした家族たちが起きてきて、私は入居予定の部屋を急遽借り直すことになった。ナツと暮らすために。

 

 ナツがいてくれたからこそ、連日の残業も理不尽な叱責も耐えられた。ドアを開けた瞬間に笑顔で駆けてくる姿がなければ、とっくに実家に戻っていただろう。私がナツに与えた以上のものを、ナツは返してくれたのだ。

 

 歳を重ねていくうちに、ナツが少しずつ弱っていることには気づいていた。それでも散歩には行きたがったし、食欲も十分あった。平均寿命にも届いていない。まだまだ一緒に生きられる。そう思っていたのに。

 

 ある昼下がり、ピンク色の花びらが舞い散る中、いつもの道を散歩する私たちの前方から甲高い悲鳴が聞こえた。ナツと同種の子供が、タチの悪そうな若者たちに虐められていたのだ。


 野良なのだろう。近くに飼い主の姿はない。端末で警察に通報する私の横をすり抜けて、ナツは子供に向かって行った。

 

 止める間もなかった。ナツは子供を庇い、若者たちの暴力を受けた。全身の血が沸騰する感覚とは、あのことを言うのだろう。気づいた時には、警察が到着するよりも早く、若者たちを捻り潰していた。

 

 私と子供に怪我はなかったが、ナツは足を折ってしまった。全治三ヶ月。一日中、寝床にいる環境が良くなかったのか、ナツは急激に衰えていった。

 

「夏は越せないでしょう」


 医者にそう言われた衝撃を何に例えればいいのか。「私たちとは寿命が違う」「覚悟は出来ているのね?」母親の言葉が脳裏をよぎる。


 あの時、ナツを止めていたら。もっと日頃から気にかけていれば。散歩に連れて行かなければ。私が飼い主じゃなかったら。都会に就職しなければ。後悔ばかりが募る。

 

 覚悟なんて、てんで出来ていなかったのだ。こんな想いをするのなら、最初から出会わなければ良かったのだろうか。せめて里親を見つけていれば、ナツは今も元気でいたのだろうか。

 

 自問自答する私の耳に、呼び鈴の音が届いた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 妹だ。ナツが危篤だとメッセージを送ったから、飛んで来てくれたのだろう。

 

 妹の腕の中には目を真っ赤にしたハルがいた。ナツが助けた子供だ。ナツの介護をする間、実家で預かってもらっていたのだ。


 ハルは妹の腕の中から抜け出すと、黒い体毛を翻して一直線にナツに駆けて行った。そのまま布団の横に跪き、私たちにわからない言葉で会話する。


 ナツと同じ艶やかな体毛。すらりと伸びた手足。象牙色の柔らかな素肌。そのどれもが愛おしい。

 

 ああ、私も(ジン)じゃなく、ニンゲンだったなら良かったのに。

 

 私のこの(しょくしゅ)は、ナツとは似ても似つかない異形だ。赤い皮膚が張り付いた頭部も、闇を固めたように黒い楕円形の目も、ナツには化け物に見えただろう。


 そうだ。だからナツは怯えたんだ。警戒したんだ。私のそばにいてくれたのも、ただ危険から身を守るため――。

 

 その時、ナツが私に手を伸ばした。さっきまで考えていたことも忘れて、飛びつくようにシワシワの手を握る。そのぬくもりは、出会った頃と全く変わらなかった。

 

「ナツ、ナツ、どうしたの? 苦しいの?」

 

 ぱたぱたと畳に雫が落ちる。私の虚な瞳からも、妹の赤目からも、とめどなく涙が溢れている。


 不思議とツクツクボウシの声は耳に入らなかった。ナツはもごもごと唇を動かしていたが、やがて震える声で言った。

 

「ありがとう……」

 

 私たちの言葉だった。

 

 握りしめた手から力が抜け、畳の上に滑り落ちる。その顔は、とても満足げに微笑んでいた。

 

 慟哭が牙の隙間から迸る。ごめんね、と何度も呟く。出会わなければ良かったなんて嘘。たとえ一億回やり直しても、きっとナツと生きる。


 私の人生は、ナツと共にあった。


 ナツの終わりに、夏と別れる。鳴き止んだツクツクボウシが、ぽたりと地面に落ちた。

愛するものの終わりは辛いもの。たとえ、ニンゲンとは似ても似付かぬ異形でも、死を痛む心はあるのです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。


↓以下、登場人物まとめ。


ナツの飼い主にしてお姉ちゃん。ごく普通の家庭に生まれた、ごく普通の事務員。本名は日本語に訳すとアルハンドラ・ディルギア・ロゴス・アリスティナ。通称ティナ。上半身は赤いタコで、下半身は蛇の異形だが、この世界では普通。ナツが隠した「靴」は尻尾が汚れないように穿く袋。ジンは神。つまり、ナツが迷い込んだのは神様が棲む異界。ハルを虐めていた若者達はガチで捻り潰された。


ナツ

黒髪黒目の日本人。親に虐待され、逃げ込んだ神社から異界入りし、途方に暮れていたところをティナに拾われた。享年78歳。最初はティナを怖がっていたが、甲斐甲斐しく世話をされているうちに心を開いた。ティナの言葉は、日々を過ごす中で自然に覚えた。「ありがとう」はティナから一番よくかけてもらった言葉で、人間が唯一発音出来る言葉。ハルを助けたのは、同胞だからというのもあるが、自分がいなくなった後、一人残されるティナを憂慮していたから。


ティナの三つ下の妹。姉と違ってギャル系のリア充。地元に残って看護師をしている。姉ほど人間に対して思い入れはないが、預かったハルの世話を焼くうちに可愛さに目覚めつつある。


ハル

ナツが助けた子供。黒髪黒目の日本人。親からネグレクトされて祠の供物に手を出したところ、異界入りした。ナツとは違い、まだ異形に対する警戒心が解けていない。

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この作品は、異形と人間という種を越えた深い絆を、繊細かつ重厚に描き出した一篇でした。ナツとティナの関係は、ただの「飼い主とペット」に収まらない“家族”であり、互いに救われ、支え合って生きてきたことが行…
なんだか美しくて切ない物語でした。 途中でナツは普通のペットではないな、と思い、さらに飼い主は巨人かな?とか想像させられました。 実家で飼っていた猫を思い出して少し寂しくなりました(T ^ T)
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