一話・裏切り
鬼虎遊が朱雀城に降り立つ。
額にある鋭い角に手入れの行き届いた真っ白な毛並み。虎によく似ているが、尻尾はない。朱雀城でただ一人しか持っていない稀少な魔獣だ。
鬼虎遊は賢く人語を理解する。また、気位が高い上に勇敢で七日間七晩不眠不休で戦うことができる。姿を現しても魔獣の中で最速と言われているため、捕らえて飼いならすことはまず不可能だ。いや、その考え自体がいけない。鬼虎遊は自ら従う相手を選ぶ。そのため、鬼虎遊を従えるものを武人たちは尊敬する。勇敢な勇者、と。
その背に乗るのはまだ幼い子ども。零れそうなほど大きな緋色の目はキツクない程度につりあがっている。鮮やかな短い紅い髪はあちこちに跳ね、肌は日に焼けた健康な小麦色。多少細かい傷があるが、子どもにマイナスイメージを与えない。活発ないたずらっ子という印象を与える。
鬼虎遊から飛び降りる子どもは十にも満たないように思える。だが、甲冑を着込み、赤色のマントを靡かせる子どもには大人顔負けの貫禄がある。
「お疲れ様、ヨンハク。次の戦いがあるまでしばし休んどけ」
子どもが軽くヨンハクという鬼虎遊の体を叩くと「グルル」と返事をして、空に駆けていった。
(今回の魔物討伐はキツかったな)
首を回すとゴキゴキ鳴る。歩くたびにあちこちが痛み、体が休息を要求している。
「どーしよっかな?」
本音を言うと今すぐにでもベッドにもぐりこんで寝たい。風呂に入らなくてもいいから、眠って体を休めたい。だけど、魔物討伐の報告もしなければならない。しなければ後から来る部下がするだろうが、元帥という軍の最高責任者としては仕方がない。行かなかったら自分をよく思っていない連中がネチネチと文句を言ってくるだろう。そうすれば、寝る時間が減る。
(報告が先だな)
王の間に行き先を決める。心なしか足取りは重くなっている。これはけっして疲れているからではない。
朱雀城の主、朱雀王は父である。だが、二人は親子ではない。朱雀王の妹の子どもで、母亡き後引き取られたのだ。実父が誰だか分からないため、周りの者からは侮られている。初めの頃は朱雀王の妹の子どもではないと罵られたが、朱雀王家の能力が開花されてからは言われなくなった。そして、戦いにおいて発揮した天賦の才能。軍の元帥になるのには時間がかからなかった。
こんな幼いのに元帥かと思うが実際の年齢とは関係がない。天人、地上より遥か上空に暮らす彼らは基本的に不老だ。王族ならなおのこと。こう見えて、三百年余り生きている。しかし、子どもに変わりない。なぜなら、成人していないからだ。
天人は十を過ぎると成長が止まる。幾ばくかの時をその姿で過ごし、ある日突然十代後半から三十代前後までの何れかの年齢になり、成長は止まる。成人になるまで大人だとは認められない。結婚もできないし、体力も能力も成人した者には敵わない。
「レイシン、もう戻ったんだな」
廊下を歩いていると後方から声をかけられた。
穏やかな表情で笑う青年は、目と同じ赤い髪を後ろで一つに結んでいる。その紐も着ているものも一見地味で質素に見えるが、どれも最高級の代物だ。
「兄様!」
レイシンの声が弾む。駆け寄って抱きつきたいが、自分の格好に気づくと諦めるしかない。ここで兄の服を汚すことはできない。
(部屋に戻って体を洗って服を着替えてから行くんだった)
レイシンはがっくりと項垂れた。しょぼくれている妹を見ながら、兄は苦笑している。
「こんなに傷だらけになって、しょうがない子だな。父上には私から言っておくから湯浴みをして眠るといい。今日は夜にパーティーがあるから、寝すぎないようにな」
大きな手がレイシンを撫でる。子ども扱いされるのは嫌だが、この行為は好きなので大人しくしている。手短に魔物討伐であったことを告げると部屋に戻った。
王族で元帥という地位にいるレイシンの部屋はサッパリとしている。必要最低限のものだけがあり、装飾品などの飾りは一切ない。
ベッドに直行しようとしたが、兄に言われたとおり湯浴みをする。お湯をためている間に、体を洗うことにした。
レイシンの体には無駄な脂肪が一切ない。ガッチリとした筋肉質と言うわけではなく、少年のようにしなやかな体つきだ。少女のような丸みがないため、胸の辺りが幾分か寂しい。誰かさんには「洗濯板」と貶されたことがある。
ムカつくことを思い出して体を洗っているうちに布に力が入る。戦いでできた傷に染みるが構わず力を込めて擦る。
体中泡まみれになる頃にはお湯が溜まっていた。かごの中に入っている花びらを撒く。
お気に入りの花びらが浮かぶと自然に顔には笑顔が浮かぶ。
真っ赤に色づく花の名はリンシュ。母と同じ名を持つリンシュはレイシンにとって大切な思い出がある。
「メイスイ……兄様」
片足をお湯の中に突っ込みながら、大好きな兄の名前を呟く。いつか名前で呼ぶ日が来るのに、未だ兄様とつけてしまう。
もどかしいような恥ずかしいような微妙な気持ちになる。頬が熱い。レイシンは雑念を払うように顔を下に向ける。甘ったるいリンシュの香りが心地いい。
「早く成人したい」
幼い日のメイスイとの約束を果たすためには成人しなければならない。
(どうやったら成人できるんだろ?)
普通は百年前後で成人できる。なのにレイシンはその歳から二百年も過ぎている。自分はどこかおかしいのだろうか。一生このままなのか。もしかして、成人しないのは名前も知らない父に関係があるのか。珍しくレイシンは考え込む。
メイスイはレイシンとの約束のためか、誰とも結婚をしていない。朱雀王はそれに頭を抱え込んでいる。次期王の座に着くのに子を生む女がいないのでは将来が不安だ。そう零しているのをレイシンは知っていた。
(だって兄様には浮いた話の一つもない)
レイシンにとっては嬉しいのだが、朱雀王は不安がっている。元々朱雀王家は子どもが少ない。王位継承権があるのはたったの三人しかいない。メイスイとレイシンと朱雀王の従兄弟の子どもだが、彼は朱雀王と大して歳は変わらない。実質上メイスイとレイシンの二人だけだ。
考え込んでいたら少しのぼせた。タオルで乱暴に拭いてから寝巻き着に着替える。ふらつく足元でベッドにダイブした。固めのベッドに横になるとすぐに目蓋が重くなる。
「レイシン、全くお前は……。私が来なかったら、ずっと寝ていたろ」
メイスイの呆れ顔を見ながら、レイシンはグッと黙りこんだ。
(だって、疲れてたし、パーティーはつまんないし、着飾るのは嫌いだし……)
口から出そうな言葉は全て自分を弁護するものでしかない。武人の端くれであるレイシンは言い訳が嫌いだ。非が自分にあるならキチンと認める。
メイスイに叱られながら大人しく後についていく。
レイシンは普段滅多に着ない女の子らしい格好をしている。色鮮やかでひらひらしている服は可愛いが、慣れない裾の長い衣を足で何度も踏んでしまう。馬子にも衣装なんていうけど、全く似合っていないと思う。下手をすれば女装みたいだ。
これがレイシンのパーティーに出たくない理由の一つだ。
レイシンは元帥という役職上、服装も動きやすい裾の短いものを着用している。露出が高いが子どもなのでいやらしくは見えない。本人の基質も男に近いのでほとんど少年のように扱われているし、振舞っている。
苦々しそうに長い裾を踏まないように両手で摘みながら歩く。
「今日のパーティーはそんなに大切なもの?」
恨めしそうに兄を見上げる。レイシンはパーティーが好きではない。周りも知っているし、すっぽかすのは毎度のことなのでいつもは放っておかれている。今回は珍しくメイスイが迎えに来た。よほど重要なことなのだろう。
「ああ。父上から重大な発表があるらしいよ」
メイスイも知らないらしい。父の片腕としては珍しい。メイスイは次期朱雀王として、朱雀王のスケジュール全てを把握している。
「ほら、速く行くよ」
レイシンの手を取る。
血液が手に集まったようにそこだけが熱くなる。大好きな兄と手を繋ぎ、胸がドキドキする。
(幸せだな)
二人が会場に着いたときには、既にパーティーは始まっていた。
朱雀一族全ての貴族たちがいる。彼らが一堂に集まるのは、誕生日パーティー以来だ。
何となくだが、嫌な予感がする。
レイシンは勘がいい。大抵嫌なことは当たってしまう。
朱雀王はメイスイが現れたのを知ると、咳払いを一つして立ち上がった。
「今日は我が息子、メイスイの婚約を発表する。相手は青龍王の妹君、リンケイ殿だ」
父の言葉を聞き、レイシンは血の気が引いてくる。
(何を言ってる?)
頭の中が真っ白になっていく。何も考えられない。
否定してほしくて縋るように隣のメイスイを見上げると平然としている。喜ぶ人々に応えるように手まで振って。
(兄さまはこれを知っていて私を連れてきたのか? 知らないって言ってたくせに!)
ふつふつと腹の底から怒りが沸いてくる。無意識のうちにゆらりと体から炎が立ち上がる。
「レイシン」
咎めるようなメイスイの低い声で我に返る。幸い、メイスイの婚約で盛り上がっていた周りの人たちは気付いていなかった。
自分が押さえられそうにない。怒りのまま、力を解放すればメイスイまで傷つけてしまう。そんなのは嫌だ。
踵を返して出口に向かう。メイスイの自分を呼ぶ声が聞こえたが構っていられない。目に浮かぶ涙を堪えながら、必死に走り去って行った。