83
ニコラはまず、ジークがちゃんと夜までに帰ってきたことに喜んでいた。
帰ってきてそうそう、この街の風呂屋を探しに出て行ってしまったジークを見送って、テルマに話しかける。
付き添いをヴァンツァーに頼もうかとも思ったのだが、ヴァンツァーにジークとの裸の付き合いをさせるくらいならば、一人で出かけてもらって問題を起こして元気に帰ってきてもらった方がいい。
テルマに付き添ってもらっても、どうせ中では別になってしまうのであまり意味はないので、もうこればかりは仕方がない。
「テルマさん、ジーク、泊まり込みで調査する気じゃなかった?」
「はい、多分」
「やっぱり……、連れて帰ってきてくれてありがとう。別に準備ができた後なら泊まり込みでもいいんだけど、今日は偵察の予定だったし……。テルマさんにお願いしてよかった」
テルマとしても役割を果たせたという気持ちはあったので、こうしてちゃんと評価をしてもらえると嬉しい。
普通の女性ならば一緒に冒険に出ていくテルマのことを疎ましく思ってもおかしくないところを、ニコラはそんな素振りも見せなかった。
これまで長い期間ジークを待つことに慣れたニコラだからこそ自然とできることなのだろう。ジークはもちろん気づいていないだろうが、なかなかに得難い伴侶である。
だからこそテルマも、ニコラのために何かしてあげられればと強く思う。
ジークがテルマの兄か叔父なら、ニコラも家族のようなものだ。
仲良くやっていけるに越したことはない。
並んで部屋へ戻ろうとしていると、宿の従業員たちが大部屋の中をのぞき、困った顔をして相談事をしている。
今この宿はジークたち一行の貸し切りであるから、何か問題があるのならば自分たちに関連することだ。二人は顔を見合わせて従業員たちの背中に話しかける。
「すみません、何かありましたか?」
知らない土地であることも相まって、びくりと反応した従業員に二人は不信感を覚える。いぶかしんだ表情になるのも無理ないことであった。
「あっ、いえ、何でもありません」
「……何でもないのならば隠す必要はないと思うのですが」
テルマが鋭い目つきで問いかけると、従業員たちは困った顔をして互いに目配せをする。ますます怪しいと、テルマが警戒しながらさらに問う。
「この先の部屋に何かあるのでしょうか? 見せていただいても?」
きっと止められるのだろうと思いつつも要求して見ると、従業員たちは逆にほっとした顔で道を空ける。
「あ、どうぞご覧ください。ぜひ」
拍子抜けだ。
一応警戒をしながら部屋を覗き込むと、そこに広がっていたのは……、テーブルとごちゃついた実験器具だった。
その真ん中で、めちゃくちゃ怪しいローブとフードを被った人物が忙しなく動き回ってさらにそのテリトリーを広げている。
クエットであった。
すでに取り出された薬品や、塔で手に入れた怪しい拾得物も取り出されており、場に似合わず設置された棚の中に次々とそれを放り込んでいる。
確かにクエットの荷物はやけに多かったが、ここまでではなかったはずだ。
「あの、換気の良い広い部屋をとおっしゃられて、それから必要な物の買い出しを何度かしたらこんなことになっておりまして……。もちろん、今はお客様の貸し切りでございますから自由にお使いいただいて構わないのですが……」
従業員たちは不安だったのだ。
実験道具など市井ではまず見ることがないし、何か怪しい儀式でも始まるのではないかと、自分たちの宿はどうなってしまうのかと、不安でしょうがなくて外で見守っていたのである。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。彼女はきちんとした研究者ですので、あまりお気になさらずにご協力いただけますと助かります。万が一引き払う時に何か問題があれば、きちんと修繕していきますので」
ニコラが丁寧に説明して頭を下げると、従業員たちはまたほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「彼女からその様な説明はなかったのですか?」
「ええと……、部屋を使いたいことと、必要な物の覚え書きを渡されただけで、ほとんどお話しされておりません。寡黙な方なのでしょうね」
おそらくそれは喋ることをさぼっているだけだ。
クエットは両極端な人物で、喋る時はひたすら喋るし、喋らない時はまったくもって口を開こうとしない。しばし共に旅をしてきた二人はそのことをよく知っていた。
「本当にすみません。あまり心配をかけぬよう彼女にもきちんと伝えておきますので」
「ああ、いえいえ、お気になさらずに! こちらこそお騒がせして申し訳ありませんでした」
丁寧に息をそろえて頭を下げ去っていく従業員たち。
二人は先ほどまで怪しいと思っていた自分たちが恥ずかしくなった。
怪しいのはどう見たってクエットの方である。
「……何をしているんですか、こんなところで」
作業を邪魔されて渋い顔で振り返ったクエットは、やってきたのが顔見知りであることに気づくと「ああ……」と声を上げてから、咳ばらいをしてぱっとフードを外す。
「何をって、私は私の役目を果たそうと思って準備をしているのですよ。私が今回の遠征で求められているのは、普段と同じくポーションの制作などでしょうからねぇ。足りないものは従業員の方々に用意していただいてぇ、こうして自分の工房を作り上げているというわけです。安心してください、絶対にポーション切れは起こさせませんからねぇ」
てきぱきと動きながら準備を進めるクエットは、自分がどう思われようと基本的にどうでもいいと思っている。ジークほどではないが、クエットもかなり破綻したコミュニケーション能力を持っている。
「なんでわざわざ顔を隠すんですか。従業員の方々が不安がっていたので、普通に話してあげたほうがいいですよ」
一応ニコラが当たり前の注意をしてやると、クエットはおやっという顔をした。
「ニコラさん、これなら怪しくないというのですか?」
すっかり慣れてしまっていたが、クエットは普段から顔全体を隠す仮面をつけている。フードを外したところでどう見たって怪しかった。
「……いえ、怪しいですね」
「でしょう? フードを被っているほうがまだ怪しくありませんよ」
「その……、もしクエットさんがお嫌でなければ仮面を外してはどうでしょう? 視界も狭まって危ないでしょうし……」
傷跡があることも知っているテルマが控えめに提案をする。
クエットがぴたりと黙り込んでしまったので、悪いことを言ってしまったかと焦り、謝罪をしようとしたテルマも耳に「ふむ」と声が聞こえた。
どうやら少しばかり考えていただけのようだ。
「見苦しく恐ろしくはないですか? 実は顔を出して塔の中を歩いていた時に、まるで化け物でも見るかのように逃げられたことがあるのですよねぇ。皆さんが気持ち悪くないと言ってくださるのであれば外しますがぁ……」
「そんなことはありませんよ。……もしクエットさんが気になるのであれば、傷口だけ隠すような仮面を用意してもいいのではないでしょうか?」
ニコラが提案をすると、クエットはぽかんと口を開けてから頷く。
「…………あなた、もしかしてとても賢いのではありませんかぁ? この私の明晰な頭脳を以ても、そんなことはぜんっぜん思いつきませんでしたねぇ」
多分それは、クエットの頭脳が人との交流の方面で一切使われていないせいだ。
ただ、従業員を困らせている大部屋の問題は、どうやら解決しそうであった。




