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ハンナとジークが話し合っている頃、テルマは犬のジークに散歩を促されて、そーっと部屋を出て廊下を歩いていた。
ここまで長く泣いたのはきっと生まれて初めてで、段々と恥ずかしくなってきていたところだった。確かに辛かった。苦しかった。精神的に追い詰められきってしまっていたから、ジークが自分に呆れているかもしれないなんて思った。
しかし、半日ぐずぐずと犬の方のジークに心を慰撫された結果、出した結論は、ジークはそういうタイプの人間ではない、であった。
冷静になってこれまでの付き合いを考えてみれば簡単にわかることだ。
ジークは嫌なことは嫌だと言うし、駄目なことは駄目だと言う。
そこに隠された感情などないし、今日は訓練をやめだというのなら、ジークなりのやめる理由があったのだ。もしそれが、自分が泣き出してしまったせいだとするのならば、やっぱりただただ恥ずかしいだけである。
明日からはまた頑張ろう。
すごく怖いし辛いけれど頑張ろう。
そう心に決めつつ、やっぱりハンナに顔を合わせるのは恥ずかしいから、こっそりと部屋を抜け出したところである。
ジークが歩くと音がしてしまうので、抱っこして前面にぶら下げるようにして廊下を抜け、ロビーから外へ出ようとした時だった。
「テルマさん?」
聞き覚えのある声に体をびくつかせる。
振り返るとロビーに置かれた椅子にはニコラが座っていた。
もしかしたら自分の情けない話は知られておらず、家の件で訪ねて来ているのかもしれない。
かすかな希望がまだ残っている。
テルマは犬のジークを床に下ろし、平常心で「こんばんは」と挨拶をする。
「よかった、元気そうね」
その一言でテルマは自分が落ち込んで、下手したら泣いていたことがニコラに知られていると気づいた。かーっと頬を赤らめると、ニコラは声を出さずに笑って外を指さした。
「少し夜風にあたりたいと思ってたの。一緒に散歩しない?」
「……はい」
この年になって訓練で泣くなんて情けないと、今のテルマは自分を恥じている。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるもので、実際に同じような訓練をすれば精神的にはいくらでも追いつめられるだろうけれど、体に怪我がないから復活も早いのだ。
そそくさと建物の影に入り込んでいく犬のジークを目で追いかけながら、ゆっくりと夜の街を歩く。
この辺りは裕福な旅行者が利用する場所なので、夜になっても治安はそれほど悪くない。仮に何かあったとしても、テルマは立派な探索者だ。少しばかり自信は失っているけれど、街のチンピラに負けるようなことはない。
ニコラは何も話さずに夜風に当たりながらのんびりと歩き続ける。
テルマのタイミングで話した方が恥ずかしくないかなと考えてのことだった。
見たところ既にメンタルは復活している。
人の涙に関する理解があまりないジークが、動揺して困っていただけなのかもしれないとニコラは思う。本当に他人のものだったら知ったことかで済むのだろうけれど、ジークにも涙を見て動揺するような相手がいるというのは、ニコラにとっても喜ばしいことだ。
ジークが誰かのために何かをしている姿も、ニコラにとってはかわいらしく見える。あとは、自分にもそれが適用されていることを願うばかりである。
「ジークさんに話を聞いてきてくれたんですよね?」
「ええ、心配していたわ」
「……呆れていませんでしたか?」
「明日の訓練はどうするべきかって悩んでいるようだったわ」
テルマはそれを聞いてほっと胸をなでおろす。
大丈夫だろうと思っていたけれど、実際にジークが明日の準備をしていたと聞くと、見捨てられていないことがわかる。
「ジークも無茶するわよね。ポーションを大量に使っての訓練なんて聞いたことないわ。しんどかったでしょう?」
言われてみればあれで精神的に追い詰められた部分はあるが、どちらかと言えば後半の訓練の方が心に来た。痛みもなく、延々と失敗を繰り返し続ける。その試みが数十だったのか数百だったのかはもうわからないけれど、ジークのペースで考えをまとめる時間もなく次々と行われるのが辛かった。
「いえ、それはまだよかったんですが……」
テルマは感性で動き体で覚えるタイプではなく、理解をしながら慎重に成長していくタイプだ。
落ち着いてやればもっとできるかもしれない、という自分に対する理解があるのに、それを言い出せずに繰り返される失敗のもどかしさも内心にはあった。悔しさ、もどかしさ、辛さ、情けなさ、感情がたまりにたまって勝手にあふれ出た涙は、テルマの言うことを聞かなかったというわけである。
一方でニコラはそれはまだよかったという返答に首をかしげる。
そう言えるテルマのメンタリティに驚きつつ、別の理由を聞きだしてみることにした。
「じゃあ何が辛かったのかしら?」
半日かけてじっくりと自分のことを理解したテルマは俯き、やっぱり少しだけ頬を赤らめながらそのことについて語る。
「実は……」
◆
どちらかと言えば感覚派であるハンナは、ジークと共に宿で首をひねっていた。
おそらくテルマのメンタルが限界にきて泣いてしまったことはわかるのだが、その感情の動きが今ひとつわからないのだ。
何せハンナは腹が立ったら爆発させるタイプだ。
特に相手に非がある場合はそれが顕著である。
そんな性格だからこそ、ジークもハンナが悲しみを押さえて『今は顔を見たくない』と言ったとき勘違いをしてしまった経緯があった。ハンナは八つ当たりをしてしまうから、そしてまだ夫と仲間の死を受け入れられないからそう言ったのだったが、ジークは額面通りにそれを受け取った結果があれだった。
そんなハンナでは、優等生タイプのテルマの気持ちを察するのは難しい。
何の答えも出ないまま、互いに腕を組んで唸っているところに扉がノックされてテルマとニコラ、それに犬のジークが入ってくる。
犬のジークは今日一日動かずにいたせいで逆に疲れてしまったのか、部屋の端に座り込むと、鼻から大きく息を吐いて目を閉じてしまった。犬もため息を吐くようだ。
「あら、二人してどうしたの?」
ハンナはそれでも母親だから、テルマが話しにくくないように泣いていたことなんて知らないようなふりをして話しかける。
「ちょっとジークの散歩をして、ニコラさんに話を聞いてもらってた」
ジークと犬のジークの耳が同時にピクっと動いたが、どちらも文脈を理解したようで無反応。
「……大丈夫か」
ジークがテルマを見てそう言うと、他三人が目を丸くする。
「なんだ」
「なんだ、って、へぇ……」
相手の感情を窺う。
これまでのジークからはなかなか見られない行動だ。
ハンナは感心してジークの頭をぐちゃぐちゃに撫でまわしてやろうかと、少し腰を浮かしかけたが、テルマの母親としてはらしくないなと座り直す。最近被っていた猫がお出かけすることが増えているので、そのうちどうせばれるだろうけれど。涙ぐましい努力である。
「大丈夫です。今日はご迷惑おかけしました」
「いや」
これなら明日の訓練も今日と同じようにやって大丈夫だな。
反省という言葉はどこへやら。夜には復活するなら問題ないだろうと判断したジークはそんなことを考えていた。
「ジークさんにお願いがあります」
「なんだ」
「今日の後半にやった訓練、途中で考える時間が欲しいです。待ってくださいと言ったら時間を貰えませんか」
訓練をつけてもらう、というのはその場に限って言えば上下関係のようなものが成立してしまう。その立場から何かを要求するというのは少しばかり難しいことだった。訓練から離れた時に交渉を持ち掛けるのは正解である。
「いいぞ」
理由はわからずとも必要ならばそうしたらいいだろうと判断するのがジークである。もとよりテルマが自分の身を守れるようになるためにやっていることなのだから、交渉に応じない理由はなかった。
「ありがとうございます。その理由も聞いてください」
テルマはハンナの隣に腰を下ろし、自分の習熟の仕方について説明をする。
その理解をしてもらえない限り、これからも同じようなことが起こり得ると考えてのことだった。
テルマはジークとこれから長い相棒生活が続くと考えている。
だからこそ、ジークに自分のことを理解してほしいと考えていた。
ちなみにジークの隣に座れたニコラは、その肩にちゃっかりと頭を預け、微笑ましく思いながらその話に耳を傾けていた。役得である。




