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ジークは涙というものに縁のない人生を送ってきた。痛みや苦しさから滲み出る涙ならば記憶にもあるが、怪我もなく二本の足で立っている状態でとなると話は別だ。
泣くと痛い目に遭うというのがジークの中での当たり前であり、そうでないこともあると知ったのは随分と大きくなってからのことであった。
だから当然ジークは、テルマの涙に対処する術を持ち合わせていない。
振り返り途中の半端な態勢のまま固まり、数秒経ってようやくテルマを正面から見つめた。
ここで困ったのは、テルマ本人も何が何だかよくわかっていないことだ。
本人の気持ちとしてはまだまだ頑張るつもりでいた。どんなに辛くても、ジークが悪気があってやっていることではないとわかっていた。冒険者として生きていくのであれば、必ず乗り越えなければいけない壁だともわかっている。
だからなんだか辛い、とわかっていても、涙がとめどなく溢れてくるほど精神的に追い詰められていることには全く気づいていなかったのだ。
心の動きというのは案外自分自身ではわからないこともあるものである。
「す、すみません、すぐ、すぐ止めるので」
ついにはしゃくり上げ始めてしまいながらも、テルマが言うが、側から見ていてもすぐに泣き止むような状態であるとは思えない。
流石にこの状態で訓練を継続しようとは思わないジークは、しばし立ち尽くし、それから荷物を持ってテルマの前まで歩いて行き「帰るぞ」と言った。
ジークとしてはとりあえず、怒られそうだけれどハンナに相談してから仕切り直しだなと思っての言葉であったが、テルマからすれば素直にそうは受け止められない。
呆れられたと勘違いして、袖で目元を強く拭って「まっ、まだできます」とその場から動こうとしない。
本人がいくらそう言おうとも、どう見たってまだいけるコンディションではない。ジークは涙について詳しくなかったが、冷静ではなく、呼吸が乱れるような状況で訓練をすることが無意味であることくらいはわかった。
というか、なんで泣いているのかわからず、ジークはジークなりに混乱して、ことを収拾せねばと考えていた。見た目には顰め面のままだったが。
ついでにテルマの荷物まで拾って「ダメだ、帰る」と言ったジークの服をテルマが掴む。掴んだところでジークの歩みは止まらない。
「まだ、できますっ!」
「終わりだ」
「嫌です!」
「ダメだ」
ついには能力を発動させて腕を掴み、足を突っ張るが、ジークはそれでもずんずんと歩みを進めていく。
ダンジョンから出る直前までそんなやりとりをしていたものだから、下級探索者たちはギョッとする。
テルマもジークも、街の探索者の間じゃ有名人だ。泣きながらジークの腕に縋り付くテルマと、それを無視してずんずんと歩いていくジーク。
足を踏ん張った地面には、ブーツの底が削れた跡が二本の線になって綺麗に残っている。
触らぬ神に祟りなしとばかりに、探索者たちは塔の壁にへばりついたが、通り過ぎてしまえば、なんだったのだと噂するに決まっていた。
ようやく外に出た頃、テルマは以前よりもさらにひどく落ち込んでいる上、目元は強く擦ったせいですでに赤く腫れぼったくなり始めている。
さて、ひとまず外に出たが、何をどうするかとジークが考えているうちに、流石に訓練は諦めたテルマは、トボトボとホテルに向けて歩き出す。
このままではいけないと、数歩先をいったテルマにジークは「おい」と声をかけた。
そうして何か良い言葉がかかることを、心の隅の方でほんの僅かに期待したテルマに対してジークは言葉を投げかけた。
「泣くな」
朴念仁である。
「すみません……」
背中を向けているからジークにはわからないけれど、情けないやら悔しいやら申し訳ないやらで、テルマの目からはまたボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
さて、困ったジークが頼る先として最初に思いついたのは、ハンナであったが、そちらにはまずテルマが行くだろうと却下。却下の理由に、なんだか怒られそうだという嫌な予感が含まれていたのは否定できない。
続いて思いついたのはニコラだったが、こちらはまだ仕事中だろうと却下。ヴァンツァーは仲間たちと塔に入っている。
結果、どうせポーションを作らなきゃいけないし、ついでにおしゃべり女ことクエットにでも聞いてみるかとなったジークである。
ギルドの倉庫から必要な材料を持ち出したジークは、一応自分なりにテルマの涙について思考を巡らせながら街を歩く。
そうして慣れ親しんだ路地へと入ってグネグネとすすみ、どこからか流れてきたらしい新参のチンピラに絡まれ殴り倒し、やがて突き当たりに辿り着いた。
律儀にガンガンとノックをするとバタンと壁が外に倒れて即席のカウンターが出来上がる。
「ノックは優しくってお願いしてるんですけどねぇ」
バラリとカウンターの上に材料を下ろすと、文句を垂れるのをやめたクエットは「またですか、お客さぁん」と非難めいた声を上げる。
「まさかと思いますけど、拷問とかしてないですよねぇ? そうじゃないとありえない量なんですけどぉ」
「してない」
半分冗談で問いかけると、あっさりと否定。表情筋はぴくりとも動かず、不愉快なのかどうかすらわからない。
「あ、そうですか、はいはい」
すぐに顔を引っ込めないあたり怒っていないことだけはわかるので、話し相手がへそを曲げてしまう前に材料を回収して作業に入るクエットである。
「おい」
「はいはい、なんでしょうねぇ?」
何か追加の依頼でもあったかなと振り返りもせずに返事をすると、続けてジークから言葉が飛んでくる。
「泣くのはどんな時だ」
クエットは頭の中で言葉を反芻しながら手だけはテキパキと動かして作業を進める。たっぷり一分は黙り込み、キリのいいところで作業を止めたクエットは、振り返ってじっとジークの顔を見つめた。
「あの、熱冷ましとか入り用ですかねぇ?」
「いらん」
「…………すみませんけど、さっきの質問もう一回お願いできませんかねぇ。ちょっとガチャガチャしてて聞き逃したみたいでして」
「泣くのはどんな時だ」
先ほどと声のトーンも大きさも変わらず発せられた言葉は、クエットの耳に正しく届き『泣くのはどんな時だ』という質問を理解させた。
クエットは汚れてもいないエプロンを払い、椅子をガタガタと運んできてカウンターの前に陣取り、身を乗り出して言う。
「あのぉ、腰据えて話聞いてもいいですかねぇ?」
「作業しろ。明日も使う」
なんとジーク、明日もテルマをダンジョンに連れて行って訓練する気満々である。クエットはあれこれと何があったのかを想像してみるが、しっくりくる風景がまるで現れないまま、ジークの問いに答える。
「そりゃあもちろん、嬉しい時でしょうねぇ。わからないものがわかった時、思いもよらぬ結果が出た時、跳ね回っていて涙が出た経験、あたしにだってありますよ。あとは痛い時ですね、顔がこんなになった時は涙と鼻水が自然と溢れ出してきましたねぇ」
「なるほどな」
今の話を参考に、ジークはテルマはどうだったかと先ほどの情景を思い浮かべて、なんだか違うなと判断をした。
実はジークもクエットの答えには初めからあまり期待していない。ジークは自分が周りと違うようだとわかっているのと同様、クエットも普通とはだいぶ違うことは理解していた。
どう違うかは今ひとつ言語化できずにいたけれど、とにかくわかっていた。
ジークの想像通り、『涙が出るのは悲しい時』という普通の答えがまず出てこない時点で、少々クエットの感覚は捻じ曲がっているに違いなかった。




