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ジークがテルマに声をかけられてハンナの下を訪ねたのは、その日の夕方だった。
なぜ夕方になったかと言えば、少し前までハンナが頭痛で苦しんでいたからである。犬のジークは未だに哀れなお母さんのことを心配そうに見上げているから、相当なものだったのだろう。
「もう二度と酒は飲まないわ」
「前にも聞いた」
結構な回数聞いたことのあるセリフだった。
ジークはこの誓いが破られたのも昨日見たばかりである。
まだ少しだけ頭痛が残っているハンナは、ジークの突込みに反応もせず、気だるげに椅子に寄りかかって水を飲む。厳しく育てられた娘から見ると、なんだか少しだらしない格好だった。
服装も肩が出そうなくらいだらりとしている。
これこそジークの知るハンナであるが、テルマは困惑し切りだ。
「もう十七年も飲んでなかったの。よく我慢したでしょ」
「ママ、お酒好きなの?」
「そうね、好きだったわ」
探索して帰って、みんなで酒を飲んで、べろべろになって駄目になって、そしてノックスにおぶさって連れ帰ってもらうのが好きだった。昔の話である。
昨日はテルマにおぶさって帰ったわけだが、悪くない気分だった。
ハンナは犬のジークの頭を撫でながら「さて」と言って顔をあげる。
「ジーク、テルマとパーティを組んでるんですって?」
「そうだな」
もしかしたらその話は曖昧なまま終わるのではないかと期待していたテルマは、体を緊張させて背筋を伸ばした。
「何か変わったことはなかった?」
「別にない」
年を考えれば技術力は高いし、戦闘センスもある。
慣れさえすればどこの街へ行っても七十階層に到達できるだけの実力はある。
身内のひいき目を抜きにしても非常に優秀な探索者である。
しかしジークは、一つだけ気になっていたことがあったことを思い出した。
「……全力を出していない気はしたな」
「よく見てるわね」
軽くジークからの事情聴取が済んだところで、ハンナの視線はテルマに移動する。
「パーティは組んだらだめって言ったわよね?」
「ごめんなさい」
別に本気で怒っているわけではないが、その振りくらいはしないといけない。約束を破るのは良くないことだと教えるのも、親の仕事の一つだ。とはいえテルマももう十代後半になるし、立派に一人で稼いでいるから、半分は大人とみてもいい。
そろそろ自分で色々なことを決める時期だ。
ジークを探すためにハンナの下を離れたのも、自立の第一歩とみるべきだろう。
ずっといい子で言うことを聞いてきたので、締め付けを厳しくし過ぎて自我のない子に育ってしまったのではないかと、ハンナは少し心配をしていたのだ。
どうやら杞憂だったようだが。
「パーティを組んだ方が安全だ。なぜ組ませなかった」
常識人のような事を言い始めたのはジークだった。
塔に住んでいるような状態で、ずっとソロで活動してるというのに、よくもまぁ自分のことを棚に上げたものである。
とはいえこの言葉は正しい。
「ジークになら話してもいいわね。もうパーティを組んでいるわけだし」
「……うん」
ハンナの言葉にテルマが頷いた。
あまり人に知られるべきでないことだったが、信頼できる相手ならば逆に知っておいてもらった方がいいような事情だった。
「この子、変な力があるの」
「変な力?」
「そ。探索者になるって言うから鍛えてあげてた時に気づいたんだけどね」
◆
「わたし、探索者になる」
唐突なテルマの宣言に、ハンナは思わず眉間にしわを寄せてしまった。
「……だめよ、危ないから」
「でも、皆探索者だって言ってる、ママもそうだって言ってる」
「それでもだめ」
ハンナが探索者として生きた時間は幸せだった。
すべてを手に入れたはずで、そして多くのものが指の隙間から零れ落ちていった。
ハンナの心の内の広い部分に後悔が巣食っていた。
だからハンナは、テルマには探索者とは関係ない道に進んでほしかった。
探索者になるしかなかった自分とは違って、テルマには学ぶ環境も自由に仕事を選ぶ環境も与えることができる。これも探索者として生きたからこその恩恵であったが、それでもハンナはこれ以上大事なものを失いたくないという気持ちもあって、テルマが探索者になることは嫌だった。
テルマが涙目になる。
それを見るとどうしても心が苦しくなった。
ほとんど初めての我がままを『だめ』の一言で片づけるのはあんまりかと思い、ハンナはテルマを抱き上げて話をちゃんと聞いてやることにする。
「私も皆と一緒がいい」
「……気持ちはわかるわ。でもね、探索者は危ないの」
「なんで?」
「ママだって今は探索者をしてないでしょ?」
「うん、どうして?」
「探索者をしてると、テルマを置いて死んじゃうかもしれないからよ」
「死んじゃうって何?」
迂闊な言葉だった。
しかし真っすぐな視線をごまかせない。
「もう二度と会えないってこと」
みるまにテルマの目に涙がたまり、すぐに大声で泣き始める。
泣くだろうと思った。でも、それだけ嫌ならば思いとどまってくれるかもしれないという期待もあった。
「死んじゃうのやだぁ!」
べそべそと泣くテルマをあやしながら、これで探索者になるのは諦めてくれるだろうと、ハンナは内心ほっとしていた。これ以上大事なものを無くすのは嫌だった。
そういえばジークが塔に置いていかれたのは、今のテルマと同じくらいの年だったと思いだす。
時折送られてくるお金が、ジークからのものだろうと見当はついている。
生きているのだと思うと嬉しかった。
ただ、ジークを思い出すたびに襲ってくる後悔に、ハンナの心はずきりと痛んだ。
泣き疲れて眠ったテルマは、翌日になるときりっとした顔をしてハンナの前へやってきた。髪の色はハンナにそっくりだが、顔立ちは性格とは裏腹にきりっと整ったノックスによく似ている。
「ママ、私探索者になる」
昨日と同じ言葉が飛んできて、ハンナは目を白黒させた。
「なって皆を守るの。ママのことも守る」
「……ママはもう塔の中へ行かないわよ?」
「じゃあギレントおじさんのこと守る」
「ギレントおじさんもあまりいかないかも?」
「じゃあじゃあ」と言って上がった名前は、皆ハンナの知り合いの探索者たちだ。
どいつがテルマに余計なことを吹き込んだのだと、それらの顔を思い浮かべながら八つ当たりのように怒るハンナだったが、そもそも探索者を教育係として招聘した自分が一番悪い。
ならば熱が冷めるのを待とうと、テルマの言葉に同意したのが悪かった。
いつの間にか家事をしている間に棒で剣術を教え込まれていたり、塔でのワクワクするような冒険譚を語られていたりして、テルマの熱はいっこうに冷めそうになかった。
くる探索者たちにはきちんと事情を説明して協力を仰いだというのに、みんなかわいいテルマにお願いされるとコロッとハンナの頼み事なんて忘れてしまうのだ。
そんな毎日が続いて数年。
幾度か探索者はダメだという話をした時、ついにテルマが「私強いから大丈夫だもん!」と強い反抗をしてきたことがあった。
ここが限界だった。
説得の言葉が無駄であることを悟ったハンナは、最終手段に出たのだ。
ハンナとて、もともと血の気の多い探索者である。
「わかりました。そこまで言うなら、私に勝てれば探索者を目指してもいいわ」
「本当!?」
テルマには自信があった。
優しいおじさんたちが優しく手ほどきをしてきてくれた剣術に自信があった。
それがただの遊びのようなものだとも知らずに、毎日家事をして過ごしている優しいママが相手なら勝てるものだと信じて疑っていなかったのだ。




