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ニコラの服は少しばかり皺が寄っていたが、脱がせたり着せたりした形跡はない。というか、一人床に眠るような男がそんな不埒な行為をするとは思えなかった。
疑うまでもない。
目を覚ましたジークは、じろりと目を動かしてニコラを見上げ、何も言わずに体を起こす。
「ごめんなさい、飲みすぎちゃったみたい」
ニコラが謝罪すると、ジークは返事もせずに立ち上がると、テーブルに置いてあった水差しからコップに水を入れ、ニコラに差し出した。朴念仁にしては実に気の利くことだが、これも昔仲間たちから仕込まれたことである。
たっぷり酒を飲んだ翌日は、大きな声を出さずにとにかく水をくれ、と。
「ありがとう」
水をほんの少しだけ口に含むと、思ったよりも喉が渇いていたことに気付かされる。ニコラはコップを傾け、喉を鳴らして水を飲み干した。
「頭痛は」
低く静かな声だった。
「……あるみたい」
「今日は休みだろう。落ち着いたら出ればいい。俺は帰る」
「あ、うん……」
ジークの歩き方は静かだ。
荷物を手に取り、部屋の扉に手をかける。
「ねぇ、ジーク」
足を止めたジークの背中にニコラは問いかける。
「また誘ってもいいかしら?」
「……飲みすぎないならな」
扉が開き、するりと大きな身が隙間を通り抜け、パタリと優しく閉まる。ニコラは一人残された部屋でふふっと笑った。
嬉しいことが二つ。
一つは、次の機会も作れそうなこと。
もう一つは、ジークが自分の休日を把握していることであった。
些細なことでも喜びを感じられるニコラは、この先長い道のりだったとしても、忍耐強く乗り越えていきそうである。
ジークがフロントへ下りると、他の客たちは、この宿にはおよそ泊まりそうにないジークの迫力に一瞬目を奪われて、そしてすぐに下を向く。
威嚇しているわけでもないのに怖がられてしまうのは、容姿に加え、その場を観察するように見回す癖のせいだろう。
これは塔で暮らしていた頃の、生き残るための癖なのだが、この歳になってもまだ治らない。というよりも、今でも塔で暮らしていることが多いので、治す必要がないのだ。
事情を知らぬ人から見れば、文句のある奴がいないか睨みつけているようにも解釈できてしまうだろう。
ジークは無駄に宿の客を脅かすと、ふらりとそのままギルドへ向かう。どうせやることなど、塔へ潜る準備か、ギルドで危なっかしい連中がいないか耳をそばだてるくらいしかないのだ。
いつもの席に陣取ってしばらく。
ジークはナッツを三つ口に放りこみ、噛み砕いてからため息をついた。
テルマの躍進に触発された若い連中が数組、身の丈に合わない挑戦をしようとしている。
一応警告をしようかと立ち上がりかけたところで、テルマがやってきて椅子を引いた。
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」
まず座っていいか許可を取るのが普通なのだろうが、テルマは何故かジーク相手になるとその辺りが杜撰になる。
ジークも、警告をしなければいけないのであまりよろしいタイミングではなかったが、仏頂面で「なんだ」と答えて、浮かしかけた腰を下ろす。
彼らも今日相談して今日から塔に登るわけではないから、まだ猶予はある。
「私、この街には人探しに来たじゃないですか」
「……そうだったか?」
そんな話を聞いたような聞かないようなである。
ジークからの気の利いた相槌には特に期待をしていないテルマは、話をそのまま続ける。
「実は私の家には、昔から匿名の人から大金が届いていたんです。この度、それがどうやらこの街の探索者かららしいと突き止めまして、送り主を探しに来たんです」
「…………そうか。何のためにだ」
おそらくその人物は目の前にいるのだが、ジークは名乗り出るつもりがない。ただ、動揺のためか返事は遅くなったし、普段だったらありえないような質問を投げ返すという行為をしていた。
ニコラだったら異変に気付いただろうが、付き合いの短いテルマでは、まだ僅かな違和感を覚えるくらいである。
「もういらないと伝えるためです。毎月送られてくるお金を、母はあまり歓迎していないようでした。それどころか、溜め込んだお金を見てため息をついていたことすらあります。理由や送り主を尋ねても答えてくれませんでした。ただいくつか聞き出したことがあります。一つ、探索者であること。一つ、昔の知り合いであること」
指を折ってわかっていることを語るテルマに、ジークは何も答えられない。説明から、テルマの母親が送金を嫌がっているらしいと解釈し、どうしたものかと動揺していた。
「送られてくる金額を想定するに、高層階の探索者です。ジークさんにこれを言うべきか迷っていたのですが……」
そこまで特定されているとなると、ジークが疑われるのも当然のことである。テルマの母親が、ジークが父の仇であると話していなかったとしても、いずれその情報は繋がってバレてしまうことだろう。
他の街へ拠点を移すことすら視野に入れ始めたジークに、テルマは言葉を続ける。
「実は私……、その人が私の父なんじゃないかと疑っているんです。もう死んでいるというのは嘘で、母を置いて他の街へ行ってしまったのではないかと……」
「………………そうか」
よくわからない方向にズレた推測に、ジークは遅ればせながら反応を返す。今まで誰にも語ってこなかったことなのか、ジークに相談ができたテルマはやや興奮した様子でテーブルに身を乗り出す。
「その人は年下らしいんですよ。小さくてかわいい、弟のような人物だったと」
テルマはそのままにしてあった指をさらに折りながら特徴を述べる。
確かにジークが最初にテルマの母親に出会った時は、痩せこけて哀れなくらいであった。栄養失調のせいかなかなか身長も伸びず、最後に出会った時は、まだテルマの母親と同じくらいの身長であった。
今の体が出来上がったのは、遺品を拾うために塔に篭った二年の間である。
「情報を集めた結果、この街にいるヴァンツァーさんという探索者がその人ではないかと、私は思っているんです」
「……そうか」
「話によれば、身長は平均男性くらいで、歳も三十になったくらい。優しげな目をしており、人によってはかわいらしいと思うような容姿だと聞いています」
「……そうだな」
「ジークさんはどう思いますか?」
「知らん」
どうもこうもない。
実の父親は確かに死んでいるし、テルマの母親は年下の男に振られてもいないし、金を送っているのはジークである。
「そうですか……。今週末には帰ってくるらしいので、慎重に探りを入れようと思います」
自分の推測を話せたことで大満足したのか、テルマはジークの気乗りしない返事にもへこたれなかった。
「何かあったら手を貸してもらえますか?」
「気が向いたらな」
どうやら当分はこの街から出ていく必要はなさそうだ。真面目で正義感の強いテルマだが、どうにもどこか抜けているところがあるようである。
「私が探索者をしている姿を見たら、どう思うでしょうか……」
赤の他人が立派に探索者をしていてもどうも思わない。どうしてあの比較的口うるさいテルマの母が、こんなわけのわからない行動を許しているのだろうとジークは考え、思わず口に出す。
「……母親はこのことを知ってるのか?」
テルマはキョトンとした顔で答えた。
「知っていたら送り出してくれません。経験を積むため、別の街へ行くと言って出てきました」
「………………そうか」
「後悔をしないように生きろと教えたのは母ですから」
「…………そうだな」
テルマの返答に、テルマの父親の血筋を感じながら、ジークはただそれを肯定することしかできなかった。




