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エッセイ 

性自認、心の性別? 自ら認める? ではその次に来るものとは?

作者: NOMAR

(* ̄∇ ̄)ノ 奇才ノマが極論を述べる。


 性自認、という言葉を聞いてからナンダソリャ? という思いを感じていた。性を自ら認める、とは? いったいどういうことなのか?

 以来、考察を重ねひとつの結論に至ったのでここに公表したい。

 これは奇才ノマの性自認についての極論である。


■性自認とは


 先ずは性自認とはなにかを改めて。


『性自認とは、自分自身の性別を自分でどのように認識しているかということで、「心の性」と言い換えられることもあります』


 東京都総務局人権部 じんけんのとびら、より引用。


 この心の性が身体の性と解離していることをトランスジェンダーと呼ぶらしい。

 身体は男で心は女、心は女で身体は男、など。


■トランスエイジ


 このトランスジェンダーという概念が広まってからトランスジェンダーの発展系と言うべきものも現れた。それがトランスエイジ、年齢自認である。

 身体の年齢と心の年齢にギャップを感じる、違和感のある人がトランスエイジになる。


 オランダでは69歳の男性が、『私の心の年齢は49歳だ』として、身体年齢より20歳若い49歳を正式年齢として認定するように裁判で訴えた。これが認められたならパスポートなどの記載も身体年齢では無く精神年齢になるのだろう。

 東部ヘルダーラント州の裁判所は男性の訴えを棄却。


 このトランスエイジのように次に現れるものを考えてみる。人の感じる違和感、心の自認を主張する社会とは? 


■トランスホニャララ


「私は自分の年齢というものに違和感を感じていた。調べてみるとトランスエイジというものがあった。そうか、私の実年齢と心の年齢は違っていたのか。私は65歳だが、これから私の心の年齢自認は17歳だ」


「先月会社が倒産して無職になりました。私は今、40歳なのですが年金を受給したいので、今日から80歳になりたいのですが」


「僕は自分の学歴というものにずっと違和感を感じていた。僕の最終学歴は高校中退だが、実は僕の心の学歴自認は東大法学部卒業なんだ」


「俺は自分の身長が160cmというのがずっと受け入れられなかった。なぜなら俺の心の身長自認は190cmだからだ」


「アタシは自分の胸のサイズがAカップというのをずっと不思議に感じていた。アタシの心の胸のサイズ自認はGカップなのだから」


「私の体重が85kgだなんて信じられない。だって私の体重自認は45kgだもの」


「自分は大学で学位を取ったわけでは無いが、自分は憲法について日本で一番詳しい。私は自認憲法学者だ。」


「我は己がイギリス生まれのイギリス人であることに幼い頃から疑問を抱いていた。そう、我の心は日本人なのだ。我の前世は日本人であり我の魂の人種自認は日本人。我は織田信長の生まれ変わりなのだ!」


「無免許運転? そんなわけが無い。俺の心はF1レーサーで俺には心の自認運転ライセンスがある。ほら、ちゃんと自分で作った」


「ほう? 俺にケンカを売ろうっていうのか? 俺は心の空手十段自認だぜ」


「私は実は暗黒木星のペランコチュロス人なのです。ペランコチュロス人の性別は27種あって、私の心の性はイアスコモオなのです」



 年齢自認、学歴自認、職歴自認、学位自認、免許資格自認、国籍人種自認。これでは履歴書が役に立たなくなるだろう。

 これらを法的にも制度的にも認めるとなると、かなり愉快な社会となりそうだ。


■悩むこととは?


 心の性別について疑問を持つ、ということは悪いことでは無い。幼少期から20代にかけて、自己同一性(アイデンティティ)存在理由(レーゾンデートル)について悩むのは思春期の通過儀礼のようなもの。

 自分とは何か、これを悩まなかった人の方がいろいろと危険なのだから。


 逆を想像してもらうと分かりやすいだろうか。悩むこと無く言われるがままに素直な人というものを。


「あなたは女です」

「はい、私は女です」

「いいえ、あなたは男です」

「はい、私は今日から男です」

「あなたは地球の平和の為に、身体に爆弾を巻いて国会議事堂で自爆しなければなりません」

「はい、分かりました、行って来ます」


 素直に生きていたらテロリストになりました、というのは傍迷惑なコメディのようだ。

 年齢自認を主張する人の中には、上司の言うことを素直に受け入れた結果にトランスエイジとなった人もいる。


「お前は30歳過ぎてこんなことも分からないのか」

「あ、それなら僕は30歳過ぎてないんですね。では僕の心の年齢は28歳です。30歳過ぎてないので分かりません」


 上司の言うとおりにしました。なのでトランスエイジです。

 ……いや、ある意味でひねくれているのか?

 自身を疑う、ということは自身をコントロールしよう、洗脳しようという他者から自身を守る力を育てる。言わば思考の免疫力となる。

 自分を疑うことは、自分自身が認知バイアスに陥っていないか、と疑うことでもある。

 悩みが生じるから疑えて考える。考えたことで様々なことに気づいていく。理解したことが自身の思想の基礎を強くする。

 発想力、想像力を鍛える上でも重要なものになる。


■私の女装


 これは私の個人例になるが、私もかつて自身の性別というのに疑問を感じたことがある。私は男として生まれたが、私の精神は男なのか? 女なのか?

 この疑問を解消すべく亀戸にある女装サロン『エリザベス会館』に行ったことがある。

 ちなみに『エリザベス会館』は1979年に創業した老舗の女装サロンである。2020年2月に閉店。


 男が女装しておもしろくなるパターンとは主に2つ。


①ぶちゃいくになる


 ぶちゃいくになった女装写真が撮れたなら友人からウケが取れる。ネタになる。これはアカン、封印しとけと笑わせることができる。


②メッチャ美人になる


 メッチャ美人になって鏡を見て、『え? これが私……?』となれば、物語ならばここから発展するドラマがいくつもありそうだ。


 ところが私の女装とはどちらでも無く、女装した写真を友人に見せたところ、


「あー、うん、なんかいそう。普通」


 というなんとも面白味の無いものだった。盛り上がらないしネタにもならない。

 ただ、女装サロンで出会った人から話を聞けたことはとても良い経験となった。

 セーラー服を着た女子高生のおじさんが私にいろいろと話しかけてくれた。


 昼間は男として会社員として働き、たまに『エリザベス会館』に来ては女の子になり心の中の女の子の部分を解放する。セーラー服やブレザーを着て女子高生になり、同好の士とガールズトークしてストレス発散をする。

 公的な場面では大人で男でサラリーマン。私的なプライベートにおいては、世間に公表しない秘密の趣味を楽しむ。

 公私の区別をしっかりとつけている大人であり、心の中の男の部分と女の部分、両方を楽しんで生きているように見えた。そんな紳士たちの秘密の社交場、女装サロン。

 いい歳をしたおっちゃんが女装して楽しむというのは、キモイと言う人もいるだろう。だからこそ公開せずにコッソリと楽しむ秘密の遊戯なのだ。


 私はと言えば1度の女装で満足したというか、自身の性に納得したというか。以来、女装サロンに行くことは無かったが、自身で体験し、また女装サロンを利用する人の話を聞けた。何事も体験してみるものである。

 そしてこういった心の在り方とは、人により折り合いの付け方が異なるものである。


■身体の性別の境界線


 では心の性別とは何か? 心が雄である、雌である、といった主張をするにしても心とは客観的に証明を提示することは難しい。

 身体の性別であれば具体的に物証がある。女性器、男性器と形になるものがある。


 ここで身体の性別の話に移ろう。身体の性別というのが、科学の発達から生物学的に男性とも女性とも判別しづらいケースが発見されるようになったのが現代。

 2014年、とある外科医グループが1人の男性のヘルニア治療の手術のとき、彼の体内に子宮があることを発見したと報告している。この時、男性は70歳で4人の子を持つ父親だった。

 ヘルニアの手術が無ければ、自身の体内に女性の特徴である子宮があることに気がつかなかったことだろう。


 自身の身体の性分化の状態を知ったのは不妊治療に訪れたときというケースや、中には別の診療や検査で初めて知る人もいる。

 性染色体がXYは男性、XXが女性とされているが、生殖巣(卵巣や精巣など)が性染色体とは別の性というケースがある。

 生殖巣の発生に影響を与える遺伝子変異によって、XYの性染色体を持つ人が通常の女性の特徴を持って生まれてきたり、ホルモンのシグナル伝達が変化することで、XXの性染色体を持つ人が男性的な体になったりする場合がある。


 これを生物学的には『間性(intersex)』

 医学的には『性分化疾患(Disorders of Sex Development)』と言う。


 現代は科学技術の進歩から様々な遺伝子が発見された。

 精巣形成プログラムを抑制するWNT4、卵巣関連遺伝子RSPO1などなど。性染色体以外に性的特徴を発生させる身体のメカニズムが解明されつつある。

 1990年代以降、性分化疾患に関係する遺伝子が25個以上発見されている。


 解剖学的に性別を判断すると、生殖巣からみた性別と染色体が一致しないように見える特徴を持つケースは約4500人に1人の割合でいる。

 専門家の中には男女の定義を、軽度の尿道下裂(男性で尿の出口が陰茎先端よりも手前にある)など、身体の構造上のわずかな違いまで含むよう拡大すべきという説もある。この説の場合、100人に1人が何らかの性分化疾患を有していることになる。

 定義によっては100人に1人が男と女の境界線の上に立つことになる。


 人間の身体の男女の性別、その境界線をどこで判断するか? 男女の境界線がハッキリとしたものでは無く、科学の進歩から定義が難しくなったのが今の時代。

 生物学において人間の身体の性別の境界線が揺らいでいる。


 だが、これは身体についての科学の話であり、心の話では無い。


■純粋理性批判


 「理性は自らの力を過信して誤謬に陥る」


 これはイマヌエル・カントの『純粋理性批判』より引用。

 人が自身の心の性別を自認する、とはこの誤謬に陥っている状態ではなかろうか。


 人は理性によって物事を判断する。論理的、概念的に思考し推論する。

 一方で理性とは推論を積み重ねて、答えの出ない問いにまでなんらかの解を出そうとする。


「世界は有限か無限か」

「死後の世界はあるか」

「神は存在するか」


 この問題に明確な答えは無い。少なくとも科学的な解は存在しない。

 なぜなら科学とは人が観察できるもの、人が知覚できるものに限定される。現実に物質として、現象として存在しないものを調べたりはできない。

 人は理性で論理的に考えたつもりで、答えの出ない問いに無理矢理に思い込みの答えを作り出してしまったりする。


 人の身体であれば物体としてそこにある。様々な研究手段で調べることは可能。調べて考察した結果を確かめることのできる物体が現実にある。実際に実験し検証することもできる。

 だが人間の身体をどれだけ細かく解剖しようとも、『心』という臓器は存在しない。

 そのために『心』が男か女か、オスかメスかとは客観的に証明しようが無い。検証も不可能だ。

 なので心の性別とは科学の範疇では無い。

 

 人の心が男か女か、と言うのは、


「天使は男か女か?」

「悪魔は男か女か?」


 という問いと同じであり、実在の不確かなものを判別することになる。その分野は神学かオカルトの領分になる。

 これが身体であれば実物があり、MRIの画像や解剖の写真など記録に残すこともできる。


 だが、心には形も無ければ色も無い。長さも無ければ重さも無い。計測することができない概念上のモノだ。つまり、エビデンス(根拠や証拠)の提示ができないものになる。

 そんなあやふやな心というものを、男だ、女だ、と判断すること自体が真偽の不確かな行為になる。

 無理矢理に結論を導き出してもそれは主観的な思い込みの決め付けとなり、客観的な証明とは不可能だ。


 人は人に心がある、と考えがちになるが、心とは明確な形を持つ現実の物質では無い。

 概念として在るものになる。


『心とはいかなるものを言ふならん

 墨絵に書きし松風の音』

 一休宗純


■色即是空


 色即是空とは仏教にある言葉。色、(すなわ)ち、()れ空なり。

 色、とはこの世に形のある物であり、空、とは形の無い物を指す。

 目に見えるもの、形あるもの、それらによる現象などを色とする。

 しかし形あるものとは時と共に変化する。生物であれば成長と老化。太陽のような恒星にも寿命はある。

 なので長い時間を俯瞰する視点から見れば、この世にあるものは実体として存在せず、時と共に変化している現象であり、不変なる実体とは存在しないことになる。故に空である。

 形在るものはいつかは壊れ、熱在る物もやがては冷める。

 この仏教の色即是空とは、科学の熱力学第二法則とも繋がるものがある。


 色というのが形在る物であり、空とは形の無い物。

 これを当て嵌めると、人の身体とは現実に形を持つ物質であるので色の分野になるが、人の心とは形の無いモノであり空の分野になる。


 例として楽器を出そう。

 ひとつのギターがある。ギターの弦を爪弾けば音が鳴る。ギタリストが奏でれば音楽になる。

 奏でられるギターの音色を聴いた人はその音楽を『勇ましい』とか『せつない』といった感想を感じることだろう。


 だが、どれだけギターを分解しても『音』という部品はギターの中には存在しない。

 人の身体もまたこのギターのような楽器と同じ。

 人の身体から出る言葉や動作などを見て人は『男勝り』とか『女々しい』といった感想を持つことだろう。

 だからと言ってその人の身体を分解しても、『心』という臓器は無い。


 心という概念にそもそも男も女もオスもメスも無い。

 だが心とはその器となる身体の影響を受ける。


 ギターから鳴るのはギターの音色。

 ピアノから鳴るのはピアノの音色。


■自認と他認


「私はギターとして生まれたけれど、どうしてもピアノの音色を奏でたい」


 というのであれば、頑張れ、としか言いようが無い。


 マツコ・デラックスやミッツ・マングローブといったオネエタレント。オネエ言葉で話し、そのトークという芸を磨いて人気を得たタレントたち。

 また歌舞伎の女形は、男性が演じる『色気のある女らしさ』を芸として極めたものになる。

 宝塚歌劇の男役は、女性が演じる『凛々しい男らしさ』を芸として高めたものになる。

 ここで重要になるのは、極めた芸を持って他者に認めさせること、つまり『他認』が重要になる。

 何をもって女らしく見えるのか? 何をもって男らしく見えるのか? 追及した技術が芸になる。

 その芸でもって女らしい、男らしいと他者に感じさせることができる。


 私の心は女だ、とか、私の心は男だ、という『自認』というのは、他人にとってはどうでもいい個人の思い込みの話だ。

 そんな独りよがりの思い込みを声高に主張したとしても、男らしくも見えないし女らしくも見えない。

 

 そして自身に対する感想を他者に強要する人とは、ただの迷惑な人である。


『我思う、故に我在り』

 ルネ・デカルト


『我思うと我思うが故に我在りと我思う』

 アンブローズ・ギンネット・ビアス

 

■結論


 私の心は女だ、とか、私の心は男だ、とか、または第三の性だとか心の性を自認するというのは、


「変身! 僕は仮面ライダーだ!」

「あたしはプリキュア!」


 と、言ってるのと同じでごっこ遊びと変わらない。そのごっこ遊びに興味が無いという他者にまでその遊びを強要するのは大人げ無い行為だ。


 2023年、温泉施設の女性風呂に入った男が逮捕された。

 この男は警察の取り調べに対し、女性風呂に入ったことは認めながら、


「心が女なので、なぜ女子風呂に入ってはいけないのか全く理解できない」


 と供述している。

 公共の場におけるいい歳したオッサンの『女ごっこ』。それに付き合いたく無い、という人達におかしな遊びを強要すれば、それは迷惑で犯罪行為だ。

 せめて同じ趣味の同士と共に、他者の目の触れぬところでヒッソリと楽しんでいればいいものを。


 そしてどうしても自認する心の性別を他者に認めさせたいなら、芸を磨くしかない。真剣に『女ごっこ』に打ち込むしか無い。

 ごっこ遊びと侮るなかれ。

 このノマは二十歳過ぎてマジメにチャンバラごっこに打ち込んだ人間。演劇で、舞台の上で、チャンバラごっこを客に披露するには相応の技量と覚悟が必要だ、と知っているつもりだ。

 仮面ライダーもプリキュアも、作っているのはちゃんとした大人だ。そして公私の区別がつけられるのがちゃんとした社会人というものだ。


 人に嗜好はあっても、人の心に性別など無い。

 心の性別など思い込みでしかないのだから、個人が好きに思い込めばいい。

 そんな個人の思い込みによる、自認する心の性別など他者から見ればどうでもいいものだ。

 なので公私の区別はつけなければならない。思い込みのままにオッサンが女子風呂や女子トイレに入ってはいけない。


 『自認』が大事だと言うのであれば、同じくらいに『他認』も尊重しなければいけない。

 


■おまけ

 心とはこういうものではないか? というのを人に伝える為に文章を重ね表現を推敲する。

 そうして作られるのが小説であり物語だ。



 BGM

『Shape of My Heart』

 Sting

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― 新着の感想 ―
[一言] このエッセイの内容に関係あるのかないのか微妙なのですが 何かの機会に見た海外のサイエンス系な番組で、そもそも心なんてものはないのかなみたいな結果が出た実験の話があったのを思い出しました 三…
[良い点] 公と私、内面世界と外の世界。かつてないほどその境界が曖昧になっているのが現代なのかもしれませんね。 異世界転生やなろうファンタジーが流行っているのもそうですし。SNSやゲーム、あらゆる場面…
[一言] とても興味深く読ませて頂きました。 確かに心に性別はないのかも。 自分の心に男の要素と女の要素が両方あって、たまたまその内のいずれかが多いので「私は男」「私は女」となるのかな、なんて思いまし…
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