感情の色〈紫黒色〉
しこくしょく/紫がかった黒
―――この溢れる黒い気持ちを、一体どうすればいいのだろうか。
少しだけ開けた窓からは初夏の朝のまだ柔らかな日射しとほんのり涼しい風。レースカーテンまで開けた明るい部屋からは、微かにテレビの音が聞こえる。
どかりと座るその人の前に、ひとり分の朝食を並べていく。
何も言わずに当たり前のように箸をつけるその人。
いつもの光景だ。
夫。旦那。主人。その通りだと鼻で笑う。
かしこまりました、ご主人サマ。
もちろん口には出さないけど。
あなたのためにしたことは、いつの間にか当たり前になっていた。当たり前のことにいちいち感謝などされないと気付いたのは当たり前になってから。あなたにとってはもう、普通のこと。
きっとこの気持ちをぶつけたら、言えばいいのにと返される。言えばするのにと、そう呆れられる。あなたにとってはそれすら私のせい。気付かなくてごめんだなんて、口が裂けても言いやしない。
言わずに気付いてほしいのは女心で。なぜそれを察する必要があるのかと怪訝に思うのが男心だと、何かで読んだ。
あなたの気持ちを考え動くのだから、あなたも私の気持ちを考えてほしい。そう思うのが無駄なことだと、段々気付き始めて。そのうち期待すること自体を諦める。そうしないとこの日々が、この心が、壊れてしまう。
そうわかっているのに、それでも溢れる黒い気持ち。期待を捨てきれない自分には、もう自嘲すら浮かばない。
このまま心が無になれば、と。無ではないからこそそう思う。
聞こえるテレビの音に被さるように笑い声が聞こえる。
食べ終わったようだと思い食器を下げにいくと、コーヒー、と言われた。
下げた食器をシンクに置いて、少しだけ湯を沸かしながら。
僅かに残した朝食を立ったまま食べる。
自分のための料理など、なおさらする気になれなかった。
ドリップしたコーヒーにスティックシュガーを一本入れてかき混ぜて。黒い水面に映り込む自分もかき混ぜて。崩れる姿。崩れぬ私。いっそのことこの心の内の黒いものに身を委ねてしまえれば、どんなに楽か。
出かけてくる、とあなたが出ていった。
どこへ、は聞かない。ギャンブルでも女でも。生活に響かなければどうでもいい。
テーブルの上にぽつんと残されたままの空のカップを回収して洗い、水切りかごに入れて。
ようやく椅子へと座る。
ひとりの時間は気楽な反面、何もする気が起きず。
ただ無為に時を過ごす自分に気が沈みもするけれど。
あなたがいる時はあなたのために動かなければならないから。あなたがいない時は誰のためにも動きたくない。たとえそれが、私自身のためであったとしても。
昼に帰ってきたあなたは缶ビールを手にリビングで座り込む。昼食を用意し、ひとり分だけテーブルに置く。
食べ始めるあなたを横目に、片付けてからキッチンで食べる。気付いているのかいないのか。気付いていても言わないだけなのか。どちらにしても違いはない。
一本、二本と缶ビールが空いていく。昼からは寝てくれるだろう。物音を立てすぎると嫌がられるが、キッチンにいる限りは問題ない。
息を潜めてただそこにいる。
昼も、夜も。
そこにしか居場所のない私。
夕方起き出してきたあなたは突然餃子が食べたいと言い出して。買ってくると出ていった。
切ってしまった野菜の行く先を変え、行き場のない肉は冷凍庫へしまう。
帰ってきたあなたは柄の違うビールの缶を嬉しそうに並べて見せたあと、グラスふたつにわけてくれた。
グラスを合わせ、一口飲んで。フライパンに凍った餃子を並べて焼いていく。
餃子は取りに来ないのに、ビールは取りに来るあなた。半分残された缶を見ながら、泡の消えたぬるいビールを飲む私。
出された数など見ればわかるのに、食べてるかなんて聞かないで。
焼き終わり片付けた頃にはあなたの食事は済んでいて。キッチンに下げた残りを気の抜けたビールで胃へと流し込む。
残飯処理。浮かんだ言葉も流し込む。
片付けて明日の準備をしている間に、もう寝るからと部屋に行くあなた。
おやすみと言われ、おやすみなさいと返しながら。あとは何をと考える。
すべて済ませた夜更けにひとり、少しだけ冷えるキッチンで座り。今日も一日終わったと、安堵と落胆の吐息をつく。
すべてが嫌なわけではない。
あなたへの情は少しだけ、暗闇の中に色を残す。
だからこそ壊れぬ日々を良かったと思い。
いつまでも壊れられぬ自分を嘲笑う。
それでもいつか、私はあなたを置いていこう。
何もできないままのあなたをひとり、置いて逝こう。
そうして私がいなくなってから。
あなたはひとりで、困ればいい―――。
読んでいただいてありがとうございます。