鈍色のなかのあなたは
空気も空も冷たく濁った、とある冬の日の昼下がり。
さあさあと柔らかな音を立てて、弱い雨が地面を打ち叩く。
舗装された都会の道はすっかり濡れて、薄暗闇の中で目立つ街明かりが、地面を僅かにきらめかせている。
しかし、雨の日でもなお輝く街とは裏腹に、あたしの心はまったくきらきらしていなかった。
「はあ…どうしよ…」
ただ黙っているのも苦しくなって、あたしは小声で感情を吐露してみる。
あたしには数個年上の親友がいる。
もともとは近所に住んでいたのだけど、少し前に親の都合で彼女が引っ越してからは、SNSや手紙のみでやり取りをしていた。
そして、彼女が過ごしている大阪がどんな所なのか気になったあたしは、一人で大阪まで遊びに来ている。
本当は行きたいお店があったのだけれど、着くまでに迷子になってしまい、傘も持っていないので、今は適当な店の前で雨宿りをしている。
こんな時に限ってスマホの充電はないし雨具は忘れてくるしで、あたしは今も屋根の下から出られずにいた。
いつもいつも、どうしてこうも運が悪いのか。もしかしたら、あたしは疫病神に取り憑かれているのかもしれない。
高層ビルが建ち並ぶ大阪の街は、雨が降っていても変わらず賑やかだ。
そんな明るい街の中で、迷子になって独り立ち尽くしている自分はなんだか場違いに思えてくる。
不安と焦燥からか、あたしは耐えきれず涙を幾筋か零してしまった。
これからどうしよう?
絶対に濡らしたくないお気に入りのコートを濡らしながら走って、ビニール傘が買えるコンビニを探すか。
それとも、止みそうもない雨が止むのをここで待ち続けるか。
どちらも嫌だなぁと、そこまで思考を巡らせたその時。
「あの…大丈夫…?」
あたしより少し低くて落ち着いている、大人びた女性の声がした。
涙を拭くのをすっかり忘れたまま、あたしが横を向くと、隣に少し背の高い女性がいた。
彼女も雨宿りをしに来たのだろうか。セミロングの黒髪が、濡れて静かに艶めいている。
「え…えっと…その、迷子に、なってしまって…傘も、スマホの、電池も…っ、なく…て…」
ああ、やってしまった。知らない人の前で突然泣き出すなんて恥ずかしいことだし、きっと彼女も驚いただろう。
「迷子!?親御さんに連絡…は、スマホの充電ないから無理なんだっけ…この辺公衆電話ないしなー…えーっ、えー…と、とりあえずハンカチ使う?」
事情を説明した後も時折鼻をすすりながら泣き続けていると、女性は慌てながらも綺麗に折りたたまれたハンカチを差し出してくれた。
申し訳なく思いながらも、あたしは素直にハンカチを受け取って、鼻水をつけないよう丁寧に涙を拭く。
「…どっか行く予定だった所とかある?よかったら案内しようか…?」
少し関西訛りの口調で話す女性の瞳はとても優しげで、あたしは拭いたばかりの涙をまた零してしまいそうになる。
本当に、この人はどこまで優しくて頼もしいんだろう。彼女の声を聞くと安心して、先程まで胸中を黒く塗りつぶしていた感情が消えていく。
こんなにいい人を、これ以上困らせるわけにはいかない。
あたしは荒ぶる感情の波を必死に抑えると、もう帰るから駅に行きたいと、泣きそうな声で伝えた。
・・・
「大阪来るの初めて?」
女性にビニール傘を買ってもらい、大阪駅まで案内してもらうまでの道中、ふと女性がそう尋ねてきた。
はい、と一言返事をすると、彼女は渋い顔をしてこう言った。
「あーやっぱりそうかぁ…そうだよなぁ、慣れないとこ一人で行くと迷子になる…私も経験したことあるわ」
「そうなんですか…?」
迷子になったあたしを助けられるくらいしっかりした人にも、そんな経験があるなんて驚いた。迷子とは無縁そうな感じがするのに。
「そうそう、都会って楽しいけど迷子になりやすいんよ…あ、そうこう言ってるうちに着いたね」
言われてから立ち止まって顔を上げると、壁面の一部がガラス張りになっている洒落たビルが視界に入った。
大阪駅、という大きな銀色の文字が、曇天の下で鈍く光る。
よかった…無事に家に帰れそうだ。
「あ、あの、傘とかありがとうございました!」
入口の屋根の下で深々と頭を下げると、親切な女性は朗らかに笑って、
「いえいえ、気をつけて帰ってね〜」
と言って、ビニール傘を一人でさして歩いて行った。
そしてあたしは、グレーのロングコートの裾を揺らして歩く女性の背を、その姿が見えなくなるまで見送ったのだった。
それにしても、あの声と口調…どこかで聞いた覚えがあるような。
気のせいかなと思いつつ、あたしは駅ビルの中に入って改札口へと向かった。
・・・
その日の夕方、無事に帰宅したあたしは自宅でSNSのタイムラインを眺めていた。
「実は今日、大阪にいましたー!」って写真と一緒に投稿して、親友を驚かそうと思っていたけれど…結局失敗して迷子になって、現地の人にも迷惑をかけてしまった。
そんな恥ずかしい話、とてもできないよね…と、サプライズ作戦の失敗に落ち込みながら、あたしはちょうど目に入ってきた親友の投稿を見て…驚愕した。
『大阪市内歩いてたら迷子少女いたから駅まで送ってきた』
『めっちゃ泣いてたけどあの後大丈夫だったかな』
…え?それ、あたしじゃん。
爆速でスマホを操作して『は!?その迷子少女もしかしなくてもあたしなんだけど!?!?』とリプを送ると、いつも通りものすごい速さで返信が来る。
『まじで!?いや声似てるなーとは思ってたけど、雰囲気とか全然違ってて気づかなかったわ!』
『こっちもだよ!!いや、ほんとありがとねあの時、さすが女神様だわ!!』
『ひえーすごい偶然!女神じゃないけど、どういたしまして』
『いや迷子になった女の子助けるとか女神以外の何者でもない』
『それ私以外の人でもできると思うんだが…』
『他の人ができようができまいが関係ないよ!女神は女神なの!!』
『はいはい女神女神』
時計を確認してみると、ここまでのやり取りにかかった時間はほんの数分。
返信の早さに改めて驚き、思わず少しだけ笑ってしまう。
『今回はお互いに気付かなくてちょっと残念だったからさ、いつか予め約束してから会おうね!』
理想と願望を詰め込んだ言葉を送信する。
もしかしたら叶わないかもしれないと思う自分がいて、一瞬送るのを躊躇ったけど、やめた。
叶えるのが簡単じゃなくても、願うのはタダなんだから。
今はまだ、「いつか」に焦がれながら彼女と生きていたい。
「これから」が分からなくても、あたしには「今」があるから。
これからのことはこれからの自分に任せて、今のあたしは今を楽しもう。
泣けるときに泣いて、笑える時に笑おう。
『うん!通話した時みたいに寝坊するなよ~笑』
またまた光の速さで来た返信を見て、あたしは改めてそう思った。
ふと、カーテンを開けて窓の外を見てみる。
あたしが大阪にいた時は雨だったけれど、こちらの空は茜色に晴れ渡っていた。
あちらの空は、どうだろうか。
今は晴れているといいな、と思うあたしは、
あの子のいる場所と同じ空を、遠く離れた地で今日も眺め続ける。




