見えない恐怖に立ち向かう勇気
見える恐怖があるとしよう。
例えば、クモ。
トコトコ、と家の中を自由気ままに歩き回っていれば怖いだろう。
私ならば、紙にクモを乗せて外に逃がす。
このように、見える恐怖は自分で何らかの方法を用いて取り除くことができる。
しかし・・・・・・・・・。
見えない恐怖は、どうであろうか。
例えば、コロナウイルス。
ウイルスは目には見えない。
それから、誰が感染しているか分からない。
この分からない恐怖は、人の正常な感情や思考を狂わせてしまう。
「あの人は咳をしているから、コロナに感染しているかもしれない」
「県外ナンバーの車だから、コロナに感染しているかもしれない」
冷静に考えれば、そんなことはないということは誰しも分かるはずだ。
このように見えない恐怖に怯えているのだ。
恐怖はありもしない事実を生み出し、本来はやってはいけない行為をさせてしまう。
「なんで、あんなこと言ったのだろうか・・・・・・・・・」
「あんなことしなければよかった・・・・・・・・・」
後悔することはできるが、取り返しがつかない。
そもそも、テレビや会話の話題に「見えない恐怖」が毎日のように挙がっているのだから、怯えても仕方がないのかもしれない。
しかし、見えない恐怖は永遠のものではない。
ある時点をみれば、苦しいのかもしれないが、物事は必ず良い方向になるようにできている。
そして、「苦しい」ということで埋め尽くすだけではないと思う。
「見えない恐怖のおかげで、手洗いの習慣が身についた」
「見えない恐怖があったからこそ普段、分からないことが見えてきた」
最終的には、苦しい思いをしたが、こんな学びがあったといえる日が必ずくるのではないか。
しかし、ここで注意しておきたいことがある。
それは、「見えない恐怖に怯えてばかりであった」ということではいけないことだ。
見えない恐怖に何らかの形で立ち向かう必要があるのだ。
ここでいう立ち向かうという意味は、決して難しいことではない。
「予防のためにうがい、手洗いをする」
「できるだけ人混みは避けて、マスクをする」
多くの人が当たり前のようにやっていることだ。
しかし、「見えない恐怖」に立ち向かっている姿なのである。
見えない恐怖に立ち向かう勇気ある行動ではないかと思う。
終わり