チョコレートコスモス
息を深く吸って、止める。早鐘のように鳴る心臓の音がうるさい。今から、私は長い間ずっと恋慕っていた人に別れを告げる。
「リンウッド様、私はあなたの事をもう愛してはいないのです。だから、婚約を破棄させてくださいませ。そして、どうか妹のことを幸せにして欲しいのです。お願い致します」
その言葉を聞いたリンウッド様の鳶色の瞳は一瞬だけ揺れたけれど、すぐに切り替えて、そうか、と言った。これですべてが上手くいく。邪魔者は消えるのだ。一度目の人生で私は失敗したのだ。だから、今度は間違えないように生きてきた。諦め切れないくらいずっと好きだったけれど、気持ちに蓋をした。今度は彼に幸せになって欲しいと、私はそう思っているのだ。
私には前世の記憶がある。その頃の私はどうしようもないくらいリンウッド様のことをお慕いしていた。でも、リンウッド様が好意を寄せているのは婚約者の私ではなく、その妹のエリシャだった。
エリシャもリンウッド様のことを想っていたので、二人は相思相愛だった。ただ、早く生まれただけの私が、二人の障害だった。私はリンウッド様に釣り合うべく自分を追い込んで知識も、マナーも、ダンスも完璧であろうと努力をした。美しく見える角度、美しく見える表情を研究し、そのすべてを彼のために使った。彼のためにならない雑音を何度も消した。裏で赤毛の魔女と呼ばれていることも知っていた。それでも、リンウッド様のためなら何でも出来た。彼の想いを成就させること以外なら、何でも。
私は良い婚約者だったはずだ。リンウッド様とエリシャが出会うそのときまではきっと理想的な婚約者だったと思う。2人はひと目で惹かれあい、恋に落ちた。あんな目をするリンウッド様をわたくしは初めて見た。そして、心の奥にどす黒い火が灯った。
エリシャはとても可愛らしく、素直で、誰からも愛される子だった。甘え上手でわがままなところをみんな笑って許し、それを喜んだ。父も、母も、使用人も、リンウッド様も妹のことを大切にし、優先した。私は妹のことを愛しているように演技をしていたけれど、内心ではとても疎ましく思っていた。エリシャが生まれた日には、その赤くて小さい手を握って慈しんでいたはずなのに、いつの間にかその気持ちは消えていった。
私が流行り病で寝込んだ時、エリシャの学園での卒業式だった。父も母もリンウッド様もその場に向かい、私は広い部屋でひとりきりでゴホゴホと咳をした。侍女のアイネがいてくれたら、と意味のないことを考えた。彼女はもういないのに。私は高熱でうなされながら、リンウッド様がお見舞いに来てくれないかと期待した。でも、その日、リンウッド様は妹を家まで送り届けた後、私には会わずに帰っていった。
私の胸の中の黒い火はいつしかぼうぼうとと燃え、抑え切れないくらい大きい炎となった。今思えばとても愚かだったけれど、私はその日からエリシャの存在を徹底的に無視した。
それまでの私はエリシャが欲しいといえばぬいぐるみもリボンもドレスも宝石もすべて譲ってきた。そうすると良い姉だとまわりの人たちが褒めてくれるからだ。良い姉でいればみんなから好かれる。エリシャに優しくすればすべて上手くいく、それが私の短い人生で学んだ処世術だった。
そんなことも出来なくなるくらい、私はエリシャに対して憎しみを感じていた。妹さえ居なければ、リンウッド様は今でも私のことを見ていてくれたはずなのに。今まであげたものは全部、必要ないからあげても良かった。みんなが褒めてくれるし、別にいらなかったから。でも、リンウッド様だけは絶対に譲りたくなかった。
そんな想いが積み重なってとうとう私は正気を無くした。あの日からずっとエリシャを無視し続けた。エリシャはいつも泣きそうな顔でお姉様、と私に声をかけた。私はエリシャがそこにいないもののように扱った。それを見るたびに両親は顔を顰めた。私はそんな両親のことも無視した。
そして、ある日、リンウッド様が私を訪ねてきた。二人でお茶をするなんて久しぶりで浮かれた私は丁寧に時間をかけて着飾った。リンウッド様の好きな水色のドレスに翡翠のネックレスとイヤリングを合わせた。結い上げた髪が大人っぽく、素敵なレディに見えたはずだ。
しかし、リンウッド様は私の服には何の感想も述べずにどうしてエリシャを害したのだと詰って来た。その目にははっきりとした嫌悪が浮かんでいた。
「あの子が気に入らないのです。私のものをすべて奪っていくあの子が、みんなの愛をひとりじめして、それを当たり前の顔をして享受していることがどうしても許せなかったのです。私だって、みんなから愛されたかった。あなたに優しく笑いかけて欲しかった」
「だから、エリシャの部屋の香に毒を混ぜたのか? 君は冷静な人間だと思っていたけれど違ったようだね。さて、エリシャを害そうとした罪をどうやって償う? 今ならば元婚約者として修道院送りで済むように取り計らっても良い。ただし、もう二度とこの地には足を踏み入れるな」
「あら、あの香のことがわかってしまったのですね。ええ、そうです。私がやりました。でも、ひとつだけ覚えていてください。私はあなたを愛しています。この想いは私だけのものです。例え、リンウッド様でもそれを邪魔しないでくださいませ。愛しています、リンウッド様。ずっとずっと、憎しみと嫌悪であなたの心においてください。これが私の気持ちです」
私は隠し持っていた小型ナイフで躊躇いなく自身の喉を掻き切った。冗談みたいな量の血が吹き出して彼の顔を汚した。ヒューヒューと空気が漏れるばかりで声も出なかったけれどなんだか気分が良かった。もちろん、とても熱くて痛い、でも、今までこれよりも痛いことはたくさんあった。ずっと、心が死ぬような辛い思いをしてきた。ああ、これで少しはリンウッド様の心に私が残れば良いなと考えた。そして、世界は真っ暗になった。
◇◇◇◇
目が覚めると、私は自室のベッドの上にいた。確かに喉を掻き切って死んだはずなのにどうして、と思った。近くにある鏡台の前に立つと、燃えるような赤毛に翡翠の瞳の私がいた。でも、記憶よりもかなり幼かった。まだ、学園にいた頃のように見える。
「どうして……?」
私がぽつりとこぼすとノックの音が聞こえ、どうぞと応えると侍女のアイネが入ってきた。その姿を見て懐かしさに胸がいっぱいになった。アイネは私が唯一信頼する侍女だった。でも、私が17歳になった年、彼女は病気の父親の面倒を見るために暇乞いをしてきた。
嫌だ、と言いたかった。けれど、今までずっと私に献身的に仕えてくれたアイネの切実な願いを却下することは、どうしてもできなかった。だから、久しぶりに彼女に会えてとても嬉しかった。そして、これは死にかかった私が見る幸せな夢なのだと考えた。
「おはよう、アイネ。今日の朝食は何かしら?」
「ローズマリーお嬢様の好きなパンケーキですよ。珍しい果物をいただきましたのでそれを煮詰めたジャムもお持ちしました」
「あら、美味しそう。飲み物は紅茶が良いわ。何も入れない熱い紅茶にして」
「勿論です。そう仰ると思ってご用意いたしました」
アイネはいつだって私のして欲しいことを先回りして準備してくれた。幼い頃から私自身に仕えてくれた。そんなアイネのことを私は母のように姉のように信頼していた。血の繋がった家族よりも温かい交流を彼女は私に教えてくれた。
一度だけエリシャが優秀なアイネを欲しがったことがあったが、その時アイネはキッパリとそれを断った。私の主人はローズマリーお嬢様だけだと言ってくれた。その言葉は今でも私の宝物だ。アイネは優秀で何でも器用にこなした。そして、私を励まし、慰め、温かく見守ってくれた。
だから、アイネがいなくなった17歳以降の生活はとても味気なく孤独なものになった。新しい侍女はエリシャのことを溺愛し、私に対してとても冷淡だった。仕事をしないわけではないが明らかに手を抜いていた。陰で私の悪口を言っていることも知っていた。それでも、まわりから我儘な姉と思われたくないので我慢した。そんな私にとって縋れるのはリンウッド様だけだった。
こういうことが積み重なり、私は妹のことを次第に疎んでいったのだ。勿論、人前では優しい姉のふりをした。でも、1人になった時にじわじわと妹への負の気持ちを発散出来ずに悶々としていた。
◇◇◇◇
目覚めた日から何日か過ぎて、これは夢ではないと理解した。私の人生は巻き戻されたのだ。私はその事実に落胆した。また、目の前で運命の恋に落ちる2人を見なければいけないのだろうか。私の努力はどうなるのだろう。それとも、前回と同じ結末を迎えることになるのだろうか。そうならないためにも、もうリンウッド様のことを諦めよう。この世界に神様がいて、わたしの時間を巻き戻したのならきっとあの結末が気に入らなかったのだ。
だから、今度は自分の想いを殺してリンウッド様とエリシャが結ばれるように行動することにした。命を絶った19歳までの記憶は私の中に残っていた。だからこれから行われる淑女教育や学園で学ぶ知識は全て頭の中にあった。まだ成長期の最中なので筋肉のつき方が甘く踊りは下手になっていたがそれ以外のことは完璧にこなすことができた。前回は机に齧り付くように必死で勉強していたのに今度はアイネと笑いながら刺繍をし、詩を書き、楽器を演奏した。あまりに出来すぎて不審に思われないようにいつも少しだけ手を抜いた。
そして、エリシャが欲しがるものは何でも与えて優しく微笑んだ。元々いらないのだから何も思わなかった。そして、両親が気まぐれに何か欲しいものがないかと聞いてきた時には私には何もいらないので恵まれない子どもたちのために寄付してあげてくださいというと両親は少しだけ居心地の悪そうな顔をした。
前回は両親からそう聞かれた時は目についたドレスやアクセサリーなどを買って貰っていたがどうせすぐにエリシャが欲しがるのだから何を買っても無駄だった。だが、寄付をすればエリシャに譲らなくても良いし、恵まれない子どもたちも少しだけ助かる。そういうことをする度に両親はローズマリーは心が優しい自慢の娘だと言い、使用人たちもそれに頷いた。
唯一、エリシャだけは不満顔だった。お姉様はずるい、と前回なら言わないようなことを良く口にしていた。お姉様ばかり勉強ができてずるい、楽器が上手くてずるい、素敵な婚約者がいてずるい。
その幼い言動にため息が出たが、エリシャはまだ14歳なのだ。幼いのも仕方がないだろう。まわりから溺愛される妹だったが前回よりは上手く立ち回れていないように見えた。両親も私に少しだけ優しいように思えた。もしかすると私自身も前は頑なすぎたのかもしれない。すべてを諦めたことでそれが和らいだのかもしれない、と思った。
そして、アイネの父親が病気になる前に定期的に病院に通わせ、悪いところがないか医師に診てもらうようにした。アイネはそれに対してとても感謝していた。私がアイネに長く仕えて貰いたいので当たり前だと伝えると彼女は大きな目から涙を流してありがとうございますと言った。
今日はリンウッド様とエリシャが顔を合わせる日だ。運命の歯車が回る日。リンウッド様との関係は前よりは温かいものになっているように思えた。彼に好かれようと常に気を張っていたがそれをやめたことが良い方向へ向かわせたのかもしれない。前の人生で良かれと思っていたことはすべて裏目に出ていたのだ。
私は今度はリンウッド様とエリシャの縁を結び、他の人と結婚しようと考えていた。リンウッド様のことは、命を絶つくらい愛していたから、この先のことを考えると辛かったけれど、私1人の我慢で2人が幸せになれるならそのほうがきっと良い。前回の私は歪んだ愛をリンウッド様に押し付けていた。でも、本当に相手のことを思うならば身を引くべきだったのだ。妹を毒殺しようとなんかせずに彼への想いを捨てて2人の気持ちを祝福するのが正解だったのだ。
「今日はリンウッド様にお会いできるのね。楽しみだわ。ねぇ、お姉様、リンウッド様はどんなものがお好きなの?」
透けるような白い肌にうす桃色のドレスを着た妹がそう言った。美しい黄金の髪、そして桃色の瞳はまさに妖精のようで我が妹ながら美しいと思った。私の赤毛に翡翠色の目も美しいとは言われるが、ややつり目なこともありきつい印象を与えるようだった。両親のどちらの要素も2人とも受け継いでいるのに全然似ていない姉妹だった。
「リンウッド様はミルクを入れた紅茶とチーズのサブレがお好きよ。ちゃんと用意してあるわ。テーブルクロスも彼の好きな水色にしたからきっと喜んでくださるわ。それに、可愛い未来の義妹にも会えるのだからね?」
「うふふ、そうかしら? リンウッド様ってすっごく素敵な方だって聞いたわ。お会いしたかったのに騎士学校に通う間は外泊禁止だなんてそんなの酷いって思ったのよ。姉様は何度か会いに行ったのでしょう?」
「ええ、一応婚約者ですからね。でも、きっと彼はエリシャのことを気に入るわ。だって、エリシャはとても可愛いもの」
私は心にもないことをペラペラと喋り続ける。妹に対して苦言を呈せばまわりがどう思うかなんて火を見るよりも明らかなので彼女のことは兎に角、おだてて褒めてお世辞を言った。そんな私をみてアイネは苦笑していた。もしまたアイネが暇乞いをしたとしても今度は彼女の父親を屋敷で面倒みようと私は考えていた。そうすればアイネは私から離れることがないからだ。彼女の献身を私は知っているのでこの先もずっとそばにいて欲しいのだ。
「一応? 酷いなローズマリー。僕はこんなにも君に尽くしているのに」
「……あら、リンウッド様、ご機嫌よう」
「わぁ! 初めましてリンウッド様、私、エリシャと申します」
「初めまして、エリシャ嬢。聞いていた通りの美しい女性だね」
「まぁ、リンウッド様ったら。お上手なんですから」
エリシャは頬を染めてリンウッド様を見つめた。そして、リンウッド様はエリシャをじっと見つめてから微笑んだ。美しい2人が見つめ合う姿は物語の一場面のようだった。でも、前回とは少し違った。エリシャの瞳に宿る熱は変わらなかったが、リンウッド様は優しく微笑んでいるけれど、運命の恋に落ちたようには見えなかった。
前はあんなに、エリシャのことを恋しいという目をしていたのに。でも、ここで変な態度をするわけにもいかず私は紅茶のカップに手を伸ばした。そして、わざと自分のスカートを汚すように落とした。
「あら、すみません。はしたない所をお見せしてしまいましたわね。このままだと恥ずかしいので私はこれで部屋に下がらせて頂きます。エリシャ、リンウッド様をちゃんとお持て成しするのよ?」
「ええ! わかりましたわ、お姉様。私にお任せください」
「ローズマリー、火傷などはないかい? 君の美しい肌に跡が残ったら大変だ」
「いえ、もうぬるくなっていたので大丈夫ですよ。席を外すことになって申し訳ありません。エリシャとどうかゆっくりお過ごしください」
最近のリンウッド様は変だ。まるで私に好意を持っているかのように振る舞う。前はもっと義務的だった。それでも、前にエリシャに向けていたような情熱的な目はしていなかった。彼が私に優しくするたびに期待をしてしまう。また、同じ結末に向かうかもしれないのに、今度はもしかしたらと考えてしまう。
やっぱり私はリンウッド様のことが好きなのだ。自分でも愚かだと思う。あんなに蔑ろにされていたのに馬鹿みたいだ。
「胸が、苦しい……」
「ローズマリーお嬢様、気分が良くなるミントのお茶を用意しました。すっきりしますよ。どうぞ」
「ありがとう。良い香りね」
それからはリンウッド様とのお茶会に度々エリシャが同席するようになった。エリシャは前回と同じく彼に惹かれ、アプローチをしていた。それを私は咎めることなく見つめていた。そんな私にリンウッド様は何も言わなかった。
「ねえ、お姉様。私、リンウッド様のことを慕っております。だから、私にリンウッド様を譲ってください。だって、お姉様はリンウッド様のことをそこまで好きじゃないみたいですし、それなら婚約者が私にかわっても大丈夫ですよね?」
「……そう。それはお父様とお母様にお話したの?」
「ええ、リンウッド様さえ良ければそうしても良いと仰ってたわ」
前回はそんな展開にならなかったのに、と思った。それで済むならこじれなかったはずだ。いや、でも私がリンウッド様のことをどうしようもなく好きできっとそれを許さなかっただろう。あんなに冷たくされても死を選ぶほど愛していたのだ。
その日はリンウッド様に観劇に誘われていた。エリシャがどうしても行きたいと駄々をこね、私は仕方ないわねと彼女に譲ることにした。元々、少し咳が出ていたのでゆっくり休もうと思っていたのだ。アイネが良く効くという苦い薬と一緒に甘い蜜楓を煮詰めたシロップを持って来てくれた。砂糖や蜂蜜とはまた違う香ばしさがあってとても美味しかった。うつらうつらとしているとアイネがドアをノックしてから入ってきた。
「お嬢様、リンウッド様がお見舞いにいらっしゃいました」
「あら、観劇はどうしたのかしら? もう始まっている時間だと思うけれど……」
「お嬢様にお会いしたいとお待ちになっているのですがどうされますか?」
「こんな姿だし、でも、断るのも失礼かしら?」
「ローズマリーお嬢様はどうされたいですか?」
「それは……」
「お呼びしましょうか?」
「……ええ。ありがとう、アイネ」
部屋に入ってきたリンウッド様の隣にはエリシャがいた。彼女は私の見舞いに来たことが不満だったようでこちらを睨んでいた。
「ローズマリー、大丈夫かい?」
「リンウッド様、ご心配をおかけして申し訳ありません。観劇は行かなかったのですか?」
「君が心配でね。これは喉の痛みに効くという飴だから良ければ食べてくれ。それじゃあ君の顔も見たし今日はもう失礼するよ」
「えっ? リンウッド様お帰りになるのですか? せめて食事だけでもご一緒しませんか?」
エリシャがリンウッド様の腕にしなだれかかりながらそう言った。
「いや、やめておくよ。婚約者が苦しんでいるのに楽しく過ごすなんて申し訳ないからね。君もお姉さんが具合が悪いのだから少しは心配したらどうだい?」
嘘つき、と思ったけれど心配しなかったのは前回の彼だ。私が病気になってもエリシャの卒業式を優先して顔も見なかったのに。どうしても恨めしくなってしまう。あの時、私の心は真っ黒に塗りつぶされたのに、と思ってしまうのだ。
どうして今回の彼はエリシャと恋に落ちないんだろう? どうして私に優しくするんだろう。諦めたいのに欲が出てしまう。彼の心が欲しいと思ってしまう。
「リンウッド様、エリシャはリンウッド様を元気付けたいと思っているのですよ。だから、あまりいじめないでください」
「お姉様……、そうですわ! 気分転換になるかと思ってお誘いしましたの。でも、リンウッド様がお嫌でしたらやめますわ」
「今日はやめておこう。僕も少し感情的になっていてすまなかった。それでは、失礼するよ」
リンウッド様が出ていくとエリシャは顔を真っ赤にしてこちらに向かってきた。
「お姉様! 酷いわ。体調不良なんて言ってリンウッド様の気を引いて! それに早く婚約者を変える話をしてください」
「本当に体調が悪いのよ、うつるといけないからあまり近付かないで」
「そのわりにはリンウッド様がきた時は元気でしたわね? まあ、良いですけど。早くリンウッド様に婚約のことをお話ししてくださいね?」
「わかったわ。次にお会いする時にでもお話するわ」
なら良いですけど、と言ってエリシャは出て行った。前回はもっとお淑やかだったが今回は少し気が荒いように感じる。少しずつみんな変わっている。それでも、愛したらきっとまた辛い思いをする。それならエリシャに譲って他の誰かと一緒になった方が良い。感情で行動したら、また私は激情に駆られてとり返のつかないことをしてしまう。
リンウッド様が持ってきた綺麗な青い陶器に入ったうす緑色の飴は甘酸っぱくてとても美味しかった。彼はどんな気持ちでこれを選んだのだろうか。次に会ったら、婚約者を変えることを伝えないといけない。今度は正解を選ぶ。だってあの2人は運命の恋人なのだから。その飴を舐めているとなんだか幸せな気持ちになって私は目を閉じた。
数日後、陶器の中の飴が全て無くなった日、私はリンウッド様に会う予定だった。婚約破棄を言い出すことを考えるととても緊張した。彼を思うと甘酸っぱい飴の味が浮かんだ。前回には渡されることのなかった私への気遣いだった。
全く省みられなかった前回を思えば私は充分幸せだった。だって、リンウッド様は私に対して冷たい目をしなかった。具合が悪くなればお見舞いに来てくれた。私に花を送ってくれた。パーティーで私の手を1番に取ってくれた。ヒールの高い靴に足が痛むことに気付いて休ませてくれた。綺麗な音のオルゴールを送ってくれた。その全てが、私に取っては宝物になった。叶わぬ想いでも、それでも嬉しかった。あまりにも嬉しくて何度も涙をこぼした。人前で泣くことなんてないのに、私は1人になってからリンウッド様のことを思って泣いた。
愛しているのだ、文字通り死ぬほどに。でも、この想いはリンウッド様を幸せにはしない。恋慕う人の幸せを祈れなかった私は死ぬことでしか愛を証明できなかった。でも、今なら寛容な姉で、聞き分けの良い婚約者で、優しい娘でいられる。尽くしてくれるアイネだっている。私は幸せだ。だから、リンウッド様のことを望んではいけない。また、リンウッド様のことを望んでエリシャに嫉妬して彼に愛されたくて酷い行動を起こさないようにしなくてはいけない。今度は行動で愛を示す。それは誰にも理解されないとしても、それで良いのだ。私は今もリンウッド様を愛している。私自身がその事を受け止め、理解すれば全ては上手くいくのだ。大丈夫、前よりも作り笑いが上手くなった。本当に妹の幸せを思う姉の演技も出来る。
ええ、私はローズマリー・フェルトマン。誇り高きフェルトマン侯爵家の娘で慈愛に満ちた姉、そして模範となるべき貞淑の具現化なのだ。どんな伴侶を押し付けられたとしても、その相手のために尽くす事が出来る。リンウッド様の為じゃなくて自分の為にそうする事が出来る。ちゃんと愛を注げるはずだ。
こちらに近付いてくるリンウッド様の美しい鳶色の瞳に見惚れた。何もないはずなのに口の中で甘酸っぱい味が広がった。
「こんにちは、リンウッド様。今日は庭園に行きませんか?私の好きな花が咲いたのです」
「ああ、良いよ。君がそんな風に言うのは珍しいね。今日はエリシャ嬢はいないのかい?」
「エリシャは今日はお友達とお茶会なのです。可愛らしい子ばかりで今度のデビュタントを楽しみにしているのですよ」
「そうなのか。エリシャ嬢ならきっと素敵な相手が見つかるだろう」
リンウッド様はエリシャの事を気にしているようだった。やっぱりこうなるのかと落胆する気持ちと、これ以上苦しくならなくて済むという安堵が混じって目の奥がチカチカとした。
「……それは、リンウッド様のような方ですか?」
「うん? それはどういう意味だ?」
「あの……、突然に思うかもしれませんが、リンウッド様、私はあなたのことを何とも思っていないのです。だから、私たちの婚約を破棄させてください。そして、どうか妹のことを幸せにしてください」
「そうか」
「はい。どうかお願いいたします」
「ひとつ聞いても良いかい? 何故、そこでエリシャ嬢の名前が出るんだ?」
「それは、リンウッド様自身がおわかりなのではないですか? だって、あなたは妹と相思相愛なんですから。それが真実の愛なら私との婚約は破棄した方が絶対に正しいのです。私はあなたの事を何とも思っていないのです。だから、愛も、家格も全て妹が私の代わりになります。だから、妹を幸せにしてください。お願いします、どうか、どうかお願いいたします。これだけが私の願いです」
「ふむ、とりあえず先程君の言っていた花を見に行こう。君から何かに誘われることは初めてだからね。僕はずっと寂しかったよ。君は素晴らしい婚約者だけれど、甘えてはくれなかったね」
「それは……、私にはエリシャのように甘えたりは出来ませんでした。あなたに幻滅されるのが怖かったのです」
「そうか。それで、どの花なんだ?」
「この暗い色の花です。チョコレートコスモスといって珍しいものなんです。薄紅のものとは違ってベルベットのような深い赤です。私はこの花が好きで数年前から育てていました。とても、可愛らしくて健気な花なんです」
「綺麗な花だな。君がこういうのが好きだと言うのは少し意外だった。君はヘーゼルの花のような控えめなものが好きだと思っていたが」
「……そうでしたか? わたしはコスモスとクチナシが好きなんですよ。まあ、覚える必要もないとは思いますが」
「ふうん、そういえばさっきの事だけど」
「えっと、どの内容ですか?」
「君と僕が婚約破棄してエリシャ嬢と結び直すというものだよ。それはご両親も了承しているのか?」
「ええ、リンウッド様さえ良ければすぐにと言っていました」
「そうか。それならその機会は一生ないな」
「え? どうしてですか?」
「僕には君という素晴らしい婚約者がいるからね。エリシャ嬢はあくまで義妹だ。そんな風に見たことなんて一度もない」
「それよりも、何故いつも君は僕とエリシャ嬢を結び付けようとするんだ? 僕のことを愛しているのに」
「愛していないと、申し上げました」
「それは嘘だろ? 君の目はずっと僕を見てるじゃないか」
「そんなこと、ありません」
「ある。君はいつだって僕のことを期待した目で見ている。なのに口ではエリシャ嬢に譲ったり諦めると言う。その矛盾がどうしても気になるんだ」
「それなら、もうあなたの事を見るのはやめます。だから、どうか婚約を破棄してください。お願いします」
「嫌だ。絶対に離さないよ。君がいるかぎり僕は他の女性と結婚するつもりはない」
「どうして、わかってくれないんですか? もう、あなたと一緒にいることに疲れてしまったのです。お願いします。私を解放してください」
「どうして僕のことを拒絶するんだ? いっそ僕自身を傷付ければ君への想いを信じてもらえる? 前に君がそうしたように、ね?」
「……どうしてそれを、ご存知なのですか?」
喉がカラカラに乾いて声が掠れる。リンウッド様の翡翠色の瞳が昏い光を宿していた。どうしてリンウッド様がそのことを知っているのだろう。あれは、前回の人生のことなのに。
「君がね、前に僕の前で命を絶った時、心が震えた。温かい血が身体中にかかった時、僕は後悔した。こんなにも愛されていたのに気付かなかったことにね」
「リンウッド様はあの時のことを覚えているのですか?」
「ああ、忘れられない。君の愛の証明だ。その後、僕は君の後を追った。その瞬間まで君よりもエリシャ嬢のことを想っていたのに魔法が解けたようだった。いや、実際に魔法が解けたんだ。君は気付かなかったかもしれないが彼女は魔女だ。君も前回は赤毛の魔女と呼ばれていたね。でも、そういうあだ名ではなくてエリシャ嬢は本物の魔女だ。君の人生が巻き戻されたのも彼女の力によるものだ。彼女は手に入るはずだった僕の死と邪魔に思っていた君の死を見てやり直しを決意したんだろう。でも、もう彼女は力を失った。だからきっと今までとは周りの反応も違うだろう。強大な力を失うことがわかっていても彼女はやり直しを選んだんだ。僕にとっては幸運だったけどね。目が覚めた時に驚いたよ。そしてまた君に会えた歓びに身体が震えた。君が僕に愛を証明した日を越えてから結ばれようと思っていたけど邪魔も多い。だから、今日はこのまま僕の気持ちを伝えさせてね。前は君に対してあまりに不誠実で酷い婚約者だった。でも、今は君に相応しい伴侶になれるはずだ。大丈夫、跡継ぎが出来ればエリシャ嬢も諦めるだろう。その時の彼女の反応が楽しみだ。君と僕を一度不幸にした罰は受けてもらわないとね。さぁ、ローズマリー。こちらにおいで。この先ずっと大切に愛してあげるよ。君の好きな花で庭をいっぱいにしてあげるからね。ほら、口を開けて?」
リンウッド様はどこからか取り出した陶器の器から飴を取り出して私の口へと運んだ。口の中に甘酸っぱい味が広がった。私は勘違いをしていた。妹のことも、リンウッド様のことも。運命は複雑に絡まり合ってもう元には戻らない。それなら、私は彼を受け入れても良いのだと思えた。頭がぼんやりとしてもうそれ以上考えられなかった。リンウッド様の顔が近付いて来て、私はそれを受け入れた。
視界の隅にチョコレートコスモスの深い赤色が見えた。花言葉は恋の終わり、そしてうつり変わらぬ気持ち。私の心は結局、ずっとリンウッド様のものだったのだ。
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