第二章/第二話「僕らはいつだって理不尽な空に閉じ込められたまま」
入道雲とずっと広がる水色が懐かしい。
ノアと俺に通り雨を食らわせた空は、感覚をどこかに忘れてしまいそうになる不気味さを与えてくる。逃げるのも隠れるのも許さないらしい。
ハーフであるノアの明るい髪は綺麗だと思うし、よく笑うところも、きちんと話を聞いてくれて誤魔化さずにはっきりと返事をくれるところも、俺は気に入っている。ノリもいいし、慈悲深い。ノアの隣は居心地が良かった。新田ノアという名前も容姿もカッコいいと思うし、日本とアメリカ、両方の文化を受け入れようとしている姿勢は素敵だと思う。
ノアにはいいところがたくさんある。
「ぬぎやま、一体どうしたんだ」
俺はノアに“ぬぎやま”と呼ばれていた。樟山という苗字から来ているらしい。最初は確かに戸惑ったが、今では気に入っている。
それなのに。
「ちょっと、ぼーっとした」
今はこの話をするべきではない。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。
「さっきの僕の話、聞いていたか?」
落ち着け、いつもの俺でいなければノアに不信感を抱かせる。どうあったとしても、今の時点ではどうにもできない。状況の把握よりも先に、俺は落ち着きを取り戻さなければいけない。
冷静さを失うとまた判断を間違うかもしれないから。
「悪い、聞き逃したよ」
「……ぬぎやまは、秋学期が始まったら真面目に学校に行くのか?」
「当たり前だろ、笑わせるつもりか?俺はサボらないぞ」
軽く笑って見せたいのに声が出なかった。さっき入ったばかりのカフェの店内のいつもする珈琲のいい匂いすら感じられない。目の前のカフェオレの味は全くしなかった。
「前に言っていた通り今まで沢山サボったから、か?」
「あぁ、そうだ。ノアはサボるつもりなのか?」
「僕もサボらない、ぬぎやまが学校に行くなら僕も行くよ」
それ、俺がいないと。
「俺がいないと来ないってことか」
「違うよ、秋学期は手を抜く生徒も多いから」
確かにそうだ、前半の春学期と違って手を抜くやつが増えると教授は話していたし、夏休みの生活習慣や気分が春学期の時のものに戻らずサボってしまうやつもいるだろう。
「そうか、ノアがそんなわけないよな」
ノアは学校のことで悩んでいるのだろうか。どうしてだろう。なにを助けて欲しいのだろう。彼は、1年生の中でもゼミの中でもグループの中でも人気がある。悩みの種は学校の中だとはまだ思えないが、ここで彼がこの話をするのはどうしてかも気になる。
世間話の一環と、そう理解していいのだろうか。人は自分の頭の中でより考えていることを話す。そういう風に見えるし、そういう傾向にある。例えばカフェオレのことを考えている人はカフェオレという単語が多く出るだろう。俺はそう考えて、人の話を聞くようにしていた。
とにかく彼の悩みを探るべきだ。俺はどうしてもさっきの音を先輩の時に聞いた音と同じように捉えている。もちろん確信も証拠もない。それでもこの可能性を無視できない。
自分の今の意見だ、受け止めよう。受け入れる必要はない、一度あるかもしれないとできるだけ客観的に。人の意見を聞くように、誰かと話し合うように。
自分の考えに一度、俺は自信を持とう。彼女の時のようにまた取り零すわけにはいかない。
「なぁノア、大学まであと2週間もあるだろ。俺はバイトと勉強ばかりであんまりいい思い出を作れていないんだ。よかったらどこかに遊びに行こう」
「ぬぎやまがそんなことを言うなんて、驚いたよ。大歓迎」
「よかった。じゃあ、俺の思い出作りに協力してくれ」
ノアは大きな口をあけて笑った。わかったよ、というように頷く。嬉しそうなノアの顔を見て、俺もほんの少しだけ嬉しくなった。
俺たちはそれから何をするか話し込んだ。行きたい場所もやってみたいこともたくさんあった。
その間ノアの声は途切れることなく聞こえていた。聞こえていたのに、音が途切れないかと集中してしまう自分に追い詰められた。気のせいだと思いたいと何度も思った。この可能性をどうにもできない自分に苛立った。
やっぱりあの機械音は悲鳴だ。聞かなかったことになんてできない。
少し本屋に立ち寄って観光雑誌を購入してから家に帰ると、兄貴が母さんと話していた。兄貴は、母さんの叔父さんの会社で働くことになるようだった。兄貴の母さんへのまっすぐな感謝の言葉が聞こえて何だか安心した。玄関の靴は綺麗に揃えられていた。
自室に戻ってベッドに飛び込む。ふと窓の外を見ると、月に雲がかかっていた。夕方の通り雨を降らせた空と変わらない不気味さをどこかに感じた。空はいつも理不尽で意地悪だと睨み返してやった。
それからノアと河豚を食べに行く日まで家とバイト先を行き来するいつもの生活を繰り返した。ノアを知っている他の友人に話を聞いてはいたが、何の情報も得られていなかった。焦りのまま誰かに聞いても、揶揄われるだけだった。俺が危惧していることを話すこともできない上、一番ノアと仲がいいのは俺だった。
身体がだらしなくなっている気がして今晩はバイト上がりにランニングに出掛けた。いつもと違うことをすると気持ちが晴れるのだと会長様は日記に残していた。こういうことを指しているのかはわからないが、やってみる俺はまだ彼女に救われている。
もし会長様が俺の立場だったらどうしただろうか。
近くの大きな池の周りを半分走ったところで息が途切れてきた。中学のころは1周くらい余裕で走れたのに、今はもう1kmで足を止めたくなる。見っとも無い体からの弱音を受け入れて、座った。虫の鳴き声が聞こえる。水筒の蓋を開けると、アルコールの類の匂いがした。ため息をついてお茶を飲む。何だか、石鹸の味がする気がしてならない。匂いのせいだ。
気のせい。この石鹸の味は気のせいだと思えるのに、ノアのあの音は気のせいじゃないと言い切れるようになっていた。俺はこの間あの音がどこかで聞こえないかと、耳を澄ませることが何度も会った。近くに居ないと聞こえないことは薄々わかっているのに。それでもあの時、目の前に居なくても彼女のあの音が聞こえたから。
俺は彼女の死を受け入れられない。
彼女を救えなかった俺はどうして生きているのかとずっと疑問に思ってしまう。解消する方法はない。
ノアのあの機械音が受け止められない。けれど声を遮るあの音はきっとまだある希望を示している。そう思いたい、思わせてくれ。ノアは生きてくれる、ゆっくり彼の心を癒していける。会長様の音が、最期の時に聞こえたのもまだ希望があるからだ。
「会長様」
彼女をいつか救えるように、彼を今救わなければいけない。救えなければいけない。彼と過ごした大学での楽しい時間を、小学生に戻ったようなあの時間を失いたくない。
水筒をポケットに押し込み、立ち上がる。走り出した。息を切らせながら走った。
払拭したかった、彼も彼女のように死んでしまうだろうという頭の端の思考を。






