お姫様の本音
お姫様視点。
前半と後半の温度差で風邪引かないよう気をつけましょう。
――息苦しさを感じたのは、いつからだったのか。もうそんなことは覚えていない。
ただ、バクバクと鼓動を打つ心臓が今にも弾けそうで、体内を巡る血流が今にも噴き出しそうで、上手く吐き出せない呼気が今にも爆ぜそうで、怖かった。大きな怪我や重い病気の経験がない私が、『死』というものを最も身近に感じたのはあの瞬間だった。全身を脈動する『生』の感覚、これが失われることがすなわち『死』なのだと思うと、息苦しさは一層増した。
『――姫様もかわいそうにねえ。相手方の都合で一方的に破談にさせられて』
『――顔に泥を塗られて、汚名まで着せられて。傷つかない方がおかしいわ』
また、この声だ。
誰かと誰かの話し声。話題は決まって私のこと。頭に響く。ガンガンと響く。痛くて辛くて苦しくて、体の自由もなくなって、呼吸すらもままならない。
『――あの領主様に逃げられるなんて、どんな王女様なんだろうな』
『――そりゃ決まってるだろ。外も中もよっぽど醜悪に違えねえさ』
――うるさい。
――うるさい、うるさい、うるさい!
なんで私が、憐れまれなくちゃいけないの。
なんで私が、嗤われなくちゃいけないの。
私は、傷ついてなんかいない。
私は、逃げられてなんかいない。
だって私は元から、この結婚に乗り気じゃなかった。伯爵様はいい人だけれど、あの顔だけはどうしても受け付けなかった。それでもお父様とお母様の決定だから、これは王女としての運命なのだと思って異を唱えることなく受け入れた。
だから婚約破棄の知らせを聞いた時は、飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しかった。伯爵様も想い人と結ばれると言うし、これは両者にとって幸せな結果なのだと、本気でそう思った。
――なのに、どうして。
『うるさい……うるさいっ……!』
声は消えない。途切れない。憐憫と嘲笑の陰口が、どこへ行っても付き纏う。
――ううん、声だけじゃない。誰かの視線も感じる。好奇の目で、見られている。
嫌だ、怖い、気持ち悪い、見ないで。
憐れまないで、嗤わないで、怒らないで、失望しないで。
感情も、顔も、グッチャグチャになっている。みっともない、恥ずかしい。
自覚する。そしたら、ああ、また、呼吸が乱れる。苦しい、苦しい、苦しい。
必死の思いで、やっとの思いで、ようやく駆け込んだのは自室だった。
汗を吸って重くなったドレスを脱ぎ捨てると、僅かに心が軽くなった気がした。照明も点けず、カーテンも閉めて、暗がりの中でベッドに飛び込み、頭から毛布を被る。
目を閉じて、耳をふさぐ。大丈夫、大丈夫。ここは私の部屋、私だけの部屋。誰もいない、誰も話していない、誰も見ていない――私しかいない。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。焦っちゃいけない、意識してもいけない。自然に、いつも通り。
――そうだ、マンガを読もう。物語に浸っている間は、現実の嫌なことを忘れられる。
あるいはここで、もう一度外へ出るという選択をしていれば、もしかしたら私の未来は変わっていたのかもしれない。
けれど、その仮定には何の意味もない。過去の話だから、というのではなく、そもそも私にそんな選択肢はなかった。『今』と『未来』は、『過去』の延長線にしか存在しない。あの頃の『今』、私は自らの境遇に立ち向かえるような『過去』を積み重ねてはいなかった。
わかっている。自分が辛い現実から逃げたことくらい、自分自身が一番よくわかっている。
わかっているから、自己嫌悪して、その現実が直視できなくて、また逃げ出す。より奥へ、より深くへ、より遠くへ、より闇へ。
気づいた時には、人々が喜び、楽しみ、愛する世界には戻れなくなっていた。暗い部屋の中から出られなくなっていた。
後悔する。いつもそうだ。取り返しがつかなくなってから、ああしていればこうしていればと、悔やんで恨んで涙を流す。そんなこと、できるはずもないくせに。
お父様もお母様も、原因の一端として責任を感じているのか、部屋から出るよう強く言ってはこなかった。使用人も、アンネを除いては近寄らなくなった。
その優しさが、痛かった。その心遣いが、苦しかった。本当は、無理にでも外に引っ張り出してほしかった。助けてほしかった。そうでないと、私は一生、ここから出られないだろうから。
無為に過ぎ行く日々の中で、私がしたことといえばマンガとイラストを描いたことくらい。マンガの方はアンネに頼んで即売会などで売ってみたけど、どれくらい売れたのかは怖くて訊けていない。自分の作品に需要があるのかないのかもわからないまま、それ以外にすることもないから描き続けている。
そんな生活を続けて九年か十年になろうかという頃、お父様から提案があった。それは異世界から来訪者を召喚して私と結婚させるという、あまりにも博打が過ぎる作戦だった。そもそも召喚されるのが女性だったらどうするつもりなんだろうか。まあ、女性の来訪者はほとんどいないって話だけど。
私はそれを、肯定も否定もしなかった。どんな人間が現れてどうなろうと知ったことじゃない。むしろ『どうにかなってしまえばいい』とさえ思っていた。そうしたら、良くも悪くも現状から抜け出せるかもしれないから。
召喚された来訪者は、背が高くて顔の怖い男の人だった。年上だと思っていたのに、年齢を聞いたらまさかの年下でそりゃもう驚いた。初対面時は間違いなく体目当てだと思ったから、咄嗟に即堕ち二コママンガの一コマ目にありそうな台詞を口走ってしまったけれど、今となってはアレは黒歴史以外の何物でもなくなっている。恥ずかしいぃ……
彼はチンピラじみた見た目に反して、穏やかで我慢強い人だった。そうじゃなきゃ、十年近い時を経て惨状と化した私の部屋に、平然と何時間も居座るなんて真似ができるはずがない。時折顔を顰めていたから、彼にとって決して居心地のいい環境ではないはずなのに、文句の一つ、苦言の一つ、説教の一つも口にしない。
さらに言えば、彼は本来几帳面で整理整頓にこだわる性質なのだろう。彼は自分が手に取って読んだマンガは、作者別やジャンル別、発売日順に綺麗に並べていた。そんな彼が散らかり尽くしたこの部屋を快く思うはずもないのに、こっちについても何も言及しない。
内心でどう思われているのか、怖かった。怒ってる? 嗤ってる? 蔑んでる? 見下してる?
生じた疑心暗鬼が、かつてのように私の体を蝕んだ。肺が押し潰されて呼吸ができなくなるあの感覚がひどくなる前に、耐えかねて尋ねた。こんな汚い部屋にいて不快に思わないの、と。
『あん? あー……まあ、全く思わないって言ったら嘘になるけど』
彼は、答えた。
『それは、アンタと一緒にいない理由にはならねえよ』
……この言葉の意味は――真意は、私には未だにわからない。
でも、なんとなくだけど、救われた気がした。だって彼があまりにも自然に、当然のように言うものだから。こんなダメな私でも、誰かと一緒にいていいんだって、そう思えた。
当然、疑問もあるし、疑念もある。
一番わからないのは、そもそもどうして彼が私と一緒にいようとするのか。お父様に頼まれたから? それが最も妥当な線、だとは思う。と言っても結婚や王位に興味があるようには見えないし、私に不埒な視線を向けることもない。責任感強そうだから、城に住まわせてもらっている義理で、ってところじゃないかと思っている。
でも、もしそうじゃなかったら?
本当は何か別の目論見があって、それに利用されているだけだとしたら?
それでもいい、と思っている。そんなの嫌だ、とも思っている。
私は彼に期待している。彼なら私をどうにかしてくれるんじゃないかって、そんな身勝手な希望を押し付けている。期待が膨らめば膨らむほど、それを裏切られ、割れて弾けてしまうのを恐れて、疑心も同時に大きくなる。
全部、彼の言う通りだ。身勝手で、人間不信。そんな自分が大嫌いで、なのに行動を起こす勇気も根性もない。どこの夢見るお姫様だって話だ。いやまあ、実際お姫様ではあるんだけど
嫌われても仕方がない。理性ではそう言っている。けれど、
「寂しいよ……」
昨日、彼が早々に立ち去ってしまった部屋の中は、信じられないくらい広く感じた。
ほんの何日か前までそうだったはずなのに、今では一人でいるのが怖い。他人と時間を過ごす、その窮屈な暖かさを知ってしまったから。
明日も来るって、彼は言っていた。でも、それは本当に?
嘘かもしれない。気が変わるかもしれない。嫌だ、嫌だ、寂しいのは、一人は嫌だ。
どんな形だっていい。早く、早く、私に会いに来て――
「突入――――!!!」
「ワアアアアアアアアアアアア!!!」
!?
な、なになになに!? 何が起きたの!?
勢いよく開け放たれた扉の向こうから姿を見せたのは、軍配を手にしたエプロン姿の彼と、雄叫びを上げて猛然と迫るアンネで――ってなんでこっち来てるの!? ちょっ、怖い怖い怖い!!
「確保ォ――!!」
「ひゃああああああ!?」
「連行――――!!!」
「了解――!!」
私を簀巻きにして抱えたアンネはそのまま部屋の外へ――え、外へ!?
待って――待って待って待って! 部屋の外に出たら、人の目が――!
「隊長ォ! このお姫様、引きこもりの分際で生意気にも抵抗しやがりますぜ!」
「捨て置け! どうせすぐに疲れて動けなくなる!」
言われた傍からもう疲れていた。お腹攣りそう。
というか、彼らのこのノリは何なんだろう……言動の割に悪意は感じないけど、無駄なハイテンションに恐怖を覚える。
いや、というかなんで連れ出されてるの私!? 今さっき「どんな形でもいい」とは言ったけど、さすがにこんな形はノーサンキューだよ!
「やめてぇ……! 外は、外に出しちゃダメ……! 中に……中にぃ……!」
「隊長ォ! このお姫様、処女のクセになかなかエロいこと言ってますぜ!」
「気を散らすなクソメイド! 作戦行動中だぞ!」
「やめてっ……ん、ふっ! あ、は……ぁ、う、あぁ!」
「隊長ォ! このお姫様、未通女にしてはエロい声で喘いでますぜ!」
「――オマエ、マジで一回黙っとけ、な?」
「――……サーセン」
それから無言の時間が続き、誰ともすれ違わないまま辿り着いたのは、
「……大浴場?」
「洗浄――――!!!」
「了解――!!」
「え、あ、待っ――ひゃあんっ!?」
アンネの素早い手つきでネグリジェとパンツを剥ぎ取られた。
待って待ってダメだって! 彼のことを男性として特に意識してはいないけど、だからって全裸姿を見られるのはさすがに――ってもういない! 早い! え、いつ脱衣所出て行ったの!? 全然気づかなかったんだけど!
私を浴場に押し込んだアンネも、いつの間にメイド服を脱いで濃紺のワンピース水着姿を晒していた。たしか来訪者に人気の高い『スクール水着』とかいう種類の水着だったと思う。あんなダサい水着の何がいいのかはサッパリわからないけれど。
彼女は石鹸と手拭いを持ってこちらに迫り、
「姫様……私も、本当はこんなことしたくないんです。でもあの男の考えに陛下が賛同しちゃったから、一使用人の立場としては逆らうこともできず……!」
「な、何その言い訳じみた御託はっ」
「というわけなので、これから私が何をしても、それはぜーんぶあの来訪者のせいってことで、悪しからず!」
「そ、そんなわけな――あは、あはははは! やめ、やめてっ……!」
「まーったく姫様は、こんなにけしからんものをぶら下げておいて、それを前面に押し出さないでどうするんですか。宝の持ち腐れですよー?」
「くっ、くすぐっ――あひ、ははっ、きゃはははっ!」
「うーわ、柔らかっ。なにこの弾力……えぇ……すっご……永遠に揉めるわ……」
「やめっ、はひっ、も、やめてよおおお!!」
どことは言わないけど一部を重点的に、全身隈なく洗われた。
垢も汚れも綺麗に落とされた頃には、まるで即堕ち二コママンガの二コマ目のように、力なく地面に横たわることになった。
私、あんなに不衛生だったのに、すっかり綺麗にされちゃった……
やっぱり来訪者には勝てなかったよ……