閑話 誰も知らない彼女
この話でとりあえず一区切りになります。
その瞬間、オレは驚きを隠せなかった。
女性と手が触れたことに、じゃない。オレはそこまでウブじゃあない。それくらい、妹の親友に何度もやられた。
だから問題はそこじゃなく。
彼女と手が触れ合うその瞬間まで、そこにいたはずの彼女に全く気がつかなかったという事実――それにこそ、オレは戦慄していた。
いや、それどころか――なんだ、コレ?
目の前にいるはずの彼女に、焦点が合わない。間違いなく視界の中央にいるのに、認識するのはその周囲ばかり。手が触れていなければ女性であることすらわからなかったほど、相手の姿が見えていない。
……というかこの人、いつまで手に触れたまま――ああいや、違うか。
「すみません」
オレの方が手を離せばいいんだ。何となく手に取ろうとしただけで、買うつもりなんか微塵もないんだから。
「あっ、えっ!? そん、こちら、こそっ!」
対する相手も、そう言ってマンガから手を離した。いや、遠慮なく手に取ってくれていいんですけど。
……それにしても、彼女の声もまた不思議だ。何を言っているのかは正しく理解できるのに、どう言っているのかはちっとも聞き取れない。抑揚、緩急、音域、音圧、呼吸――等々、個人を特定できる要素の全てが、僅かたりとも耳に入ってこない。
彼女は一体何者――って、あれ?
消えた。いつの間にかいなくなっている。そんな馬鹿な、少し意識を逸らしていたとはいえ、真正面にいる相手の動きに気づかないワケが――
「あの」
「――うおぉっ!?」
と思ったら、真ん前にいた相手に声をかけられた。
え、どういうこと? まるでオレが気づかなかっただけでずっとそこにいたかのような――あ、もしかしてそういう魔法か何かか? 他人に気づかれにくくなる、って感じの。
「こ、このマンガ――」
「え、っと……どれのことですか?」
「こ、この『ニャンニャン堂』先生のマンガ……!」
……なんか、改めて他人が口にしているのを聞くとすごい響きだな、ルーニャのペンネーム。
ちなみに想像に難くないが、本人曰くペンネームは本名の『ニャ』の響きから命名したらしく、猫が好きとかそういうことではないらしい。
「そ、その……あなたも欲しい、んですか……?」
……あー、なるほど。
一冊しか置いてないこのマンガを、取り合いになることを恐れてんのか。オレが引いたんだからそのまま取っていってもいいのに、律儀な人だ。
「いえ、オレは大丈夫ですよ。そもそもこの本すでにあるんで――」
「えっ!? も、持ってるんですか!? 前回の即売会で十数冊しか用意されてなかったのに!?」
――あっれ、これちょっと待てよ……
もしかして――同好の士だと思われてる?
「いや、オレは――」
「ど、どの作品が好きですか!? わたっ、わたしはですね! 『監獄艦の看守王子』がですねっ、地位も名誉も全て捨てて主人公と一緒に海上に脱出する王子様が――!」
ヤベえよ語りだしちまったよ……
オレの耳に届くのは彼女の言葉だけで、声や挙動に乗せられた感情は窺えない。彼女がどんな思いなのか、オレには察することができない。
けれど、
「――そこで主人公が本当に自分が王子様に相応しいのかっていう葛藤をですね、グイッと、こうグイッと! 抱き寄せて抱き寄せて――きゃあああ! あんな、あんな情熱的に抱き寄せて、み、みみ、耳元で『お前は俺のものだ』って囁くのがもう――えへへへへ、か、カッコよすぎて、もう、もう……!」
もう言葉だけで、よっぽど好きなんだろうな、ってのがひどく伝わる。
……というかこの人、たぶん今まで、同じ趣味の仲間に出会ったことないんだろうなあ。好きなものの話題で熱くなるのは誰しもあることだとは思うけど、オレの反応を待たずに一方的に語り続ける様子からして、好きなことを語る機会に恵まれていないんだろう。
ちなみに彼女が熱く語っているその作品、ルーニャが描いた中ではオレも比較的好きな方だったりする。恋愛模様は全く突き刺さらなかったけど、アクションシーンが多くて少年マンガみたいな感覚で読むことができた。あとショタキャラが妙に多かった。
「――そしてラスト手前の、王子様を遠ざけようとしてひどいことを言うその口を、強引にキッ、キキキキスでふ、ふさ、塞いで……! もう、ニャンニャン堂先生の作品は本当に――」
「……あの、その本買ってきたらどうスか」
「――え、あっ、そ、そうですね! ちょ、ちょっと待っててください!」
……え、待つの? オレ、どこの誰かもわからない、自分からは認識することもできない謎の相手を待っていなきゃいけないの?
なんてことを思っている間に、相手はいなくなっていた。本がなくなっていたから会計に――ん?
ちょっと待てよ、彼女の力があれば誰にも気づかれないまま盗むことも可能なのでは――
「あ、あの……」
「おっ!? あっ、はい!」
相手の人が戻ってきていた。いや、早くね? 本当に会計通した?
「そ、そのう……」
「?」
「あ、の……ですね」
また言葉の羅列に見舞われる――そんな予想に反して、彼女の口数は減っていた。
……あー、なるほど。間を挟んだことでクールダウンしたのか。冷静になって自分の言動を思い返した結果、一人で盛り上がっていたことに気づいて恥ずかしくなったんだろう。
さっさと消えてしまいたいと思っているけれど、「待ってて」と言ってしまった手前放置するわけにもいかず、とりあえず話しかけたけど言葉が見つからず――って感じだろうな、きっと。
……オレの側から何か言った方が、収まりがつきやすいか。
「好きなんスね、その人の作品」
「……っ!」
「正直言うと、オレは別にファンじゃないですけど――作品は読んでますし、連れを待つ間でいいなら話しましょうか?」
この手のタイプで一番困るのは、話を終えるタイミングを見失うことだ。特にやることもないオレとしては彼女の話に付き合うのも吝かじゃないが、際限なく一方的に捲し立てられるのは勘弁したい。
オレの提案に、相手は少し時間を置いて、
「……いえ、帰ります。あ、ありがとうございました」
「そうですか」
まあ、そうだよな。見ず知らずの相手と、わざわざ時間を設けてまで話をしようとは思わないか、普通は。――うん、オレは普通じゃねえけど。
そして例の如く、彼女の姿はもうない。近くにいるのか、この場にいないのか、それすらも定かじゃない。
だから、
「――そのマンガ!」
届くかどうかわからないから、せめて声だけは張り上げて、
「好きになってくれると、作者の人も喜びます!」
そんな当たり前のことを、誰とも知れない相手に向けて叫んだ。
それは、衝動的な行動だった。
どういう側面であれ、ルーニャを評価してくれる人がいる。そのことを嬉しく思えたから。
「……なーにデカい声で騒いでんですかあ?」
「お、アンネ。マンガは買えたか?」
「それなりに。お眼鏡に適うかどうかはわかりませんけど」
片手にはTシャツが、片手にはマンガが大量に入った袋を手にしたメイドが書店の奥から出てきた。それなりの重量があるはずなのに、彼女は体勢を崩すことなく平然と歩き、
「今の、もしかしてさっき姫様のマンガ買ってた人に言ってました?」
「――は? え、オマエ、その人に気づいたのか?」
「ええ、エッッッグい隠蔽魔法でガッチガチに身バレを防いでたんで、むしろ見つけやすかったです。あれ、社会的にかなり立場のある人でしょうねー」
えぇ……なんなのコイツ……能力の高さと思考の単細胞っぷりが噛み合わなさすぎるだろ……
「どんな人だったんだ?」
「さあ? 魔法の効果で私にもハッキリ見えた訳じゃありませんし、しかもフードまで被って物理的にも顔を隠してましたから。……唯一わかることといえば、他国の人だってことでしょうか」
絶対とは言えませんけど、と付け加えたアンネにその理由を問う。
彼女は答えた。
「髪、綺麗な青色だったんですよ」
やったっ!
やったやったやったやった――――やったあぁっ!!
もう手に入らないと思っていたニャンニャン堂先生の既刊、ギリギリで手に入れることができたよお〜!
この半年間、任務で他国に行く度に隙を見つけては書店を巡って、それでも見つからなかった幻の作品! 今まで訪れる機会のなかった大本命、先生の出身地であるアルデルスでも残り一冊だったなんて! 貴重な休暇を全部費やしてまで探しに来た甲斐があったよう!
甘々なイチャラブかな? それともちょっと切ない感じ? もしかして前に後書きで言及してた逆ハーレムものかも? ああん、楽しみすぎるよ~!
早く読みたいなあ。でも、わたしがこういうの読んでるって他の人に知られるわけにはいかないし……半年も待ったんだもん、あと数日、城に帰るまで辛抱するくらいどうってことないよ!
次の即売会の新刊も楽しみだなあ。また二冊出したりするのかな? そしたら合わせて一気に三冊も読めちゃうよ! み、みんなの前で思い出してニヤニヤしちゃったらどうしよう!?
……でも、そっか。即売会があるってことは、
「さっきの人も、来るのかなあ……」
どういう人だったんだろう? 本人はファンじゃないって言ってるし、ニャンニャン堂先生はマイナーだから、作品を目にする機会もそんなにないはず。そもそもあんな怖い顔の人が、明らかに男子受けの悪そうな少女マンガをどうして読んだりしたんだろう?
家族が――ううん、あの人は来訪者だったからそれはないよね。じゃあ友達か、あるいは恋人か、とにかく知り合いが持っていた可能性が高いかな。
「そういえば――」
男の人に触れたのなんて何年ぶりのことだろう。驚きのあまり固まっちゃったけど、相手の人は全く動じてなかったみたいだから、きっと女性の扱いに慣れているんだろうなあ。恋愛経験も豊富なんだろうなあ……羨ましいなあ……
「……はぁ」
わたし――――何やってるんだろう。
「あ、ラピス隊長っ!」
「うひゃあっ!?」
考え事をしているところに急に声をかけられ、思わず飛び上がってしまう。
背筋を正し、マンガを外套の内側に隠して、そちらへ振り返る。そこにはわたしと一緒にこの国に訪れた、副官の女の子がいて、
「ど、どうされたんですか、おかしな声を――も、もしかしてどこか具合が悪いのですか!?」
「えっ、あっ」
「どどどどうしましょう! た、隊長のお体に何かあったら、なんてお詫びすれば――!」
やっ、やめてよぅ! そんなに瞳を潤ませて、まっすぐな目で見ないでよぅ! そんな畏敬の念を向けられたら、わたし……わたし――
「フフ――心配するな、私は何ともない」
――精一杯、見栄張って強がるしかないじゃない!
「ただしルチル、ここではその呼び方はやめるんだ。誰かに聞かれていたら大変だからね」
「あっ、も、申し訳ありません! たい――ええと、お、おね、えさま?」
「そう、それでいいよ、いい子だ」
「あっ……そ、そんな……頭、撫でて……はふぅ」
は、恥ずかしいいいぃぃぃいいいいいい!!
恥ずかしいよう恥ずかしいよう、カッコつけるの恥ずかしいよう。
わたしこんなキザったらしい性格じゃないよう、マンガで読んだ王子様の言動をなぞってるだけだよう、「いい子だ」とか言ってるわたしが人を騙してる悪い子だよう。
ああ……こんなことなら、周囲の目なんて気にしないで素顔のままでいれば――でもそうしていたら由緒ある家の名前に傷をつけるかもしれないし、父上と母上が悲しむかも……うぅ、自分の心の弱さが恨めしい……
「……さて、それじゃあ戻るとしようか」
「は、はひぃ――ぇ、えっ、もう帰るのですか? まだ来たばかりなのに」
「やるべきことは終わったからね。ルチルには休む暇も与えられなくてすまないとは思うけれど――」
「いっ、いえ! 大丈夫です、ルチルは元気ですっ! ――密偵のお仕事って、大変なんだなあ……」
「……ルチル。誰が聞いているかわからないんだから、迂闊なことを口走ってはいけないよ」
わたし、密偵なんて言った覚えもなければ、するつもりもないんだけどな……そもそもそんなの、親衛隊の仕事じゃないし。どこから広まった話なんだろう?
とにかく今重要なのは、速やかに国に帰ってニャンニャン堂先生のマンガを読むこと!
そのためにも、最も気をつけなきゃいけないのは――
「ところでお姉さま、どうしてさっきから外套に手を差し込んで――って、も、もしかしてっ! おな、お腹の調子が良くないんじゃ――!」
「違うから全然違うから大丈夫だから!」
――この純真無垢な副官の目を、頑張って誤魔化し続けないとなあ。
これにて第一章『異世界転移とお姫様』は終了です。
え? お姫様が後半ほとんど出てない? こ、これから出番が増える予定なので……
第二章『シェイティナ王国と女騎士』は、4/6からスタートできればといいと思っています。
つまり未定です! ごめんなさい! これからも頑張ります!