閑話 地球の少女たち
時系列は誠が異世界転移した直後になります。
ようやくヒロインらしいヒロインが……!
――その光景を見た瞬間から、あたしは嫌な予感がしていた。
教室にあの子がいない。あたしの親友にして将来義理の妹にできたらいいなと常々思っている、あの子の姿がないなんて。
そんなのおかしい。あの子はいつもお兄さんと一緒に家を出るから、学校には遅くとも八時前後に着く。部活や委員会にも属してないから教室以外のどこかにいるはずもない。
病気? 用事? それも考えにくい。だってそれなら、お兄さんから何かしらの連絡があるはずだもの。あの子に何かあったのなら、あの人が何も伝えてこないはずがない。
ということは――つまりは、その逆。
あの子に――尊ちゃんに問題が発生したんじゃなく、お兄さん――誠さんの身に何かが起きたと、そう考えるのが自然で当然。
――でも、それは、そんな可能性は。
あの人は真面目で几帳面だ。たとえインフルエンザにかかって四十度を超える熱病にうなされているとしても、だからこそ真っ先に職場や知り合いなどに連絡をして周囲に迷惑をかけないようにするはず。
そんな誠さんから、何の連絡もないなんて。よっぽど常識から外れた緊急事態に巻き込まれて――
「――ううん」
落ち着こう、落ち着かないと。
そう、そうよ、あたしの考えすぎかもしれない。そもそも何かがあったからって、一友人に過ぎないあたしに一報を入れる必要がないじゃない。学校側にはすでに欠席の連絡をしているのかも――
「――ア、ハハ」
なんて、そんなわけがない。自分の頭に浮かんだ楽観的な考えに、自嘲するような乾いた笑みが漏れた。
知ってる。わかっている。誠さんはそんな人じゃない。尊ちゃんが学校を休むようなら、授業や宿題、配布物のことで絶対に何か頼んでくるもの。あの人はあたしなんかよりもずっと尊ちゃんのことを大切に思っているし、あたしもそんなあの人のことが――って、今はそんなことはどうでもいいの!
それでも万が一、億が一、兆が一、それ以下の確率に賭けて朝のホームルームに臨む。
けれど、
「あら? 横島さん、来てないの? 変ねえ……」
現実は非情だ。
若い新任教師のその呟きで、事態が把握できてしまう。
クラスメイトたちのざわめきが教室内に響く。周囲を鑑みることもなく己を省みることもない尊ちゃんは、クラスの中でもかなり浮いた存在だった。悪い意味で注目されがちなあの子は、けれど授業をサボるようなことは一度だってなかった。彼女たちもそれを知っているから、突然の無断欠席に驚いているんだ。
ホームルームが終わると、すぐに先生を呼び留めた。
「先生! 尊ちゃんのお兄さんから連絡は――」
「もらってないのよ、おかしいわねえ。宝蔵さんは何か聞いていない?」
何も聞いてないから先生に訊いているんですけどっ?
そんな言葉が口から飛び出しそうになるのをぐっと堪える。落ち着いて、努めて冷静に――うん、たぶん無理そう。
「私は何も。――あの、すみません」
「うん? どうしたの?」
「私、これから尊ちゃんの家に行ってきます。今日は無断欠席ってことで、両親にもそう伝えておいてください。それでは」
「え――ええ!? ちょっと、宝蔵さん? 宝蔵さんってば!?」
押しの弱い教師の呼びかけを無視すると、鞄を引っ掴んで教室を出た。決して走らず、あくまで早歩きで校門へと向かう。学校では、というか対外的にはあたしは病弱という設定なのだから。
運よく他の教師と出くわすことなく学校を抜け出ると、すぐさま尊ちゃんの家へと走りだす。少し長めのスカートでよかった、やや走りづらいけど下着が露わになる危険は減るから。
他の通行人の視線が刺さる。名門女子校の制服を着た見た目外国人――正しくはクォーター――の女子高生が、始業時間を過ぎた頃に学校とは反対方向へと全力疾走しているのだから、注目するなって言う方が無理だっていうのはわかっている。でもやっぱり、見知らぬ他人から向けられる好奇の目は気持ちのいいものじゃない。
道中、尊ちゃんのスマホに電話をかけてみる。出るとは思っていないし、実際出なかった。ゲーム機のコントローラーの操作は得意なのに、スマホはいつまで経ってもまともに使えるようにならないみたいだ。
初夏の熱気と久しぶりに本気で体を動かしたことで、体中から汗が噴き出す。制服を濡らして五分ほどで辿り着いたのは、築数十年の木造アパート。階段を上った二階の角部屋の、『横島』の表札の真下にある呼び鈴を押し、扉を叩く。
「尊ちゃん! あたしだよ、華だよ! 大丈夫、何かあったの!?」
一度呼びかけて、少し待つ。
返事はない。もしかしたらここにはいないのかも――と、そう思った直後、
『――――…………は、な……?』
「っ、尊ちゃん!?」
インターホン越しに声が返ってきた。けれどそれは、いつもよりずっと弱々しくて、
『はなぁ……にぃにが、にぃにがあ……』
「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だから。家の中でお話聞かせてくれる?」
『ん…………うん……』
しばらく室内で物音が響いた後、一分して扉が開かれた。
姿を見せたのは、身長140cmにやや届いていない小柄な女の子。丸く大きな目を泣き腫らして、赤みがかった肌をさらに真っ赤にした泣き顔の童顔を見せる彼女は、下着はパンツだけで制服のシャツをボタンも留めずに羽織っているだけと、とても人前に出られるような恰好じゃなかった。
――全裸じゃなくてよかった、と思う。人目がある訳じゃないけど、すぐに室内に入って扉を閉める。
直後、尊ちゃんが抱きついてきた。とめどなく溢れ出す涙がさらに制服のシャツを濡らして、
「にぃにが、にぃにが――みんな、みぃのこと置いて、どこかに……!」
「誠さんに何かあったの? 病気? 事故? あたしにできることなら何でも協力するよ?」
言葉に嘘はないし、大袈裟でもない。あの人のためになるなら何でもしようと思えるし、何だってできる。
けれど尊ちゃんは押し付けた顔を左右に振って、
「……みぃ、知ってる」
「え?」
「みぃ、覚えてる。パパも、ママも、にぃにみたいにいなくなった……にぃにも、パパと、ママみたいにいなくなった……!」
「パパ、ママ――二人のご両親って……まさか!?」
下を見る。玄関には、誠さんの靴が残っていた。
尊ちゃんの体を抱えて家に上がる。まるで泥棒にでも入られたかのように散らかった室内は、間違いなく尊ちゃんが作った状況だろう。
散乱しているのは衣類と小物。彼女が片づけられないのはともかく、単に着替えようとしただけなら、小物を入れる棚の中身までひっくり返す必要はない。ということは、
「誠さんの私物、確認してたの?」
「うん……お財布もスマホも家にあった。なくなっていたのは、にぃにが寝る時に着てた服だけ」
彼女が言うなら間違いない。そして恰好や持ち物はともかく、靴も靴下も履かずに外に出るなんてありえない。
つまり誠さんは、家の中でいなくなったということ。そうなると尊ちゃんの言い分を抜きにしても考えられるのは、
「異世界転移……!」
それは神による一方的な人事異動。
一度召し上げられてしまえば、誰であろうとその後を追う術はない、というのが通説だ。
「やだよぉ……」
――たとえその人が、どれだけ愛されていても。好かれていても。求められていても。
――そんな都合も、感情も、愛情も。「知ったことか」と言わんばかりに略奪する、上位存在の傲慢の結果がこの涙だ。
「みぃ、にぃにと離れるの、いやだよぅ……!」
気持ちは痛いほど伝わる。だってあたしも同じ――ううん、同じだなんて言えないけれど、同種の気持ちを抱いているのだから。
――でも、あたしは。
彼女の顔を、真正面から見られない。彼女の思いを、真正面から受け止められない。
だって、だって。
あたしは心のどこかで、この状況を嬉しく思っている。誠さんとの間に、運命のようなものを感じてしまっている。
――ああ、あたしはこの瞬間のために、こんな姿で生まれてきたんだな、って。
尊ちゃんの体に手を回し、長く艷やかな黒髪を手で梳く。あたしは昔からこれが羨ましかった。母親譲りの金髪が、あたしはそれ以前から大嫌いだったから。
でも、今、あたしは初めて、母から受け継いだものを誇ることができる。
あたしは、知っていた。
転移した人を追うことはできない、なんて。そんなものは所詮通説に過ぎないのだということを。
「――尊ちゃん」
幼子のように泣きべそをかく親友に、あたしはできる限りの笑顔を浮かべて、
「異世界、行こっか」