青色はとまらない
「こんにちは。今日も精が出ますね」
真っ黒な長い髪をなびかせて彼女はそう言った。話しかけられた男は恥ずかしそうに目を伏せながら会釈をしてその場を足早に去っていった。
それは彼女が着ていた真新しい制服とかつかつと小気味好い音をたてていたパンプスといういでたちに萎縮したから、というわけではない。また彼が清掃員だと一目でわかるような薄緑のようなぼんやりした青のような色のつなぎを着て、それによく似合うモップを手にしていたことが原因ではない。もちろんそれらも少しは関係しているのだけれど、本質的な部分は別なところにあった。
彼が〝メロス症候群〟患者だったからだ。近年世界中で報告されるようになった先天性の病で有効な治療法や原因が未だ解明されていない難病である。文字どおり親友のセリヌンティウスを救うために走り続けたメロスのように常に歩き続けなければいけないという冗談のような奇病だ。立ち止まれば数分としないうちにたちまち患者の生命活動も停止してしまう。
この病気の不思議なところは体を移動させ続けなければいけないが、それは自らの運動によるものでなくとも問題はないということである。つまり彼自身が動かなくとも場所を移動できるものであれば体を移動させているとみなされ、メロス症候群の症状は起きない。
この厄介な病気のために男は常に歩き続けなければいけなかった。ビルの清掃の仕事中、すれ違った際にわざわざ労いの言葉をかけてくれたあの心優しい女に言葉を返せなかなかったのもそのためだ。仕方ないことだと半ば諦めにも似た気持ちで男は頭を切り替えた。
◇◆◇◆◇
翌日、いつも通り会議室で掃除をしているとふと机の上に青色のファイルが置かれたままになっていることに気がついた。午後の会議の忘れ物だろうか。忘れ物ならすぐに持ち主が取りに来るだろうし変に触らないほうがよさそうだと特に気にもとめずにいると、外の廊下からかつかつとパンプスの音がした。こちらに近づいてくるようだ。扉が開いたので反射的に入口の方に目をやると、女子社員が軽く息を切らして中に入ってくるところだった。
「すみません、忘れ物を……」
その声に聞き覚えがあったものだから男は少し戸惑う。そういえば、こんな声の女に昨日挨拶をされたっけ。ようやく思い出して、彼女にファイルを手渡してやる。
「お仕事お疲れ様です」
「あ……ありがとうございます」
女はほっとしたのか安堵の表情を浮かべて大事そうにファイルを胸に抱きしめた。
その姿を横目に男は黙々と作業を続ける。女はそんな彼の様子に何かもっと言いたげだったけれど諦めたのか軽く頭を下げて会議室を出て行った。
女の足音が遠ざかっていくのをききながら、男は誰に聞かせるでもなく深いため息をついた。
もしも自分が病気を持っていなければ、立ち止まって少しくらいはたわいのない話ができたかもしれない。小粋なジョークを飛ばして彼女を笑わせて「こんなところで立ち話もなんだから」とお互いの連絡先も交換できたことだろう。くだらない内容のメールを一日に何度も繰り返して、花金のディナーに誘うことだってあり得なくはない。そこで二人で美味しいご飯とお酒を楽しんで親しい関係になることだって夢物語じゃないはずだ。
でもそんな簡単なことが男にはできない。話したくとも男は歩き続けなければいけなかった。話をしながらたえず動いている男をきっとあの女は不審がるだろう。そしてその視線を自分は居心地悪く感じるにちがいない。今まで幾度も経験してきたことだ。そんな思いをするのはもうたくさんだ。
いつもならこんな小さなことなんて気にせずに仕事に没頭できたはずなのに、その理由がわからないのが歯痒かった。
◇◆◇◆◇
「おはようございます」
ロビーの掃除をしていると、不意に誰かに挨拶をされた。顔を上げなくてもわかる。その少し低い声には聞き覚えがあった。
「おはようございます」
なんの感情も込めずにそう挨拶を返す。こんなしがない清掃員に毎日のように挨拶をしてくれるなんて感心な人だとは思うけれども、そっけない態度をとることしかできなかった。
もし顔を上げたらきっと目があう。そうしたら黙っているのは不自然だからと「今日は天気がいいですね」なんて言葉からきっと世間話に発展するにちがいない。そのあいだも歩き続けなければいけないのに、彼女はそんな自分をどう思うだろうか。
挨拶なんていいから黙ってどこかへ早く行ってくれと願ってしまう自分に気づき、男は自己嫌悪に陥る。
そんな思いとは裏腹にすれ違うたびに女は挨拶をしてくる。他の社員は清掃員が掃除しているのを見ても大抵黙って通り過ぎるので、彼女の評判は他の清掃員の間でもかなりよかった。
「今どきあんないいお嬢さん、なかなかいないよ」
「時間のあるときには挨拶だけじゃなくて、こんなおばさん相手でもお喋りもしてくれるしねえ」
「あんな子がうちの息子の彼女ならいいんだけど」
休憩室でそんな話を小耳にはさむたび、男は女に後ろめたくなった。こんな病気さえなければ、ほかの清掃員と同じように彼女と話ができたかもしれないのに。きっと愛想のない暗い男だと思われたにちがいない。
今まで周りからの評価なんて気にしないように生きてきたのに、妙にあの女のことになると思い悩んでしまう。まさか彼女に好かれたいとでも思っているのか。そんな考えが頭をよぎって男は自嘲した。
◇◆◇◆◇
木枯らしの吹きすさぶある日、男は仕事のために屋上へと向かった。空気の冷たさに耳が痛くなり顔をしかめる。
春や秋なら屋上も悪くはないのだけれど、真冬になると風も強いうえに寒さで作業がしにくいため敬遠される仕事のひとつだ。そういうものは一番下っ端の男のところに回されてくる。気の強い中年女性ばかりの職場だから致し方無いと腹をくくって作業を進める。
居心地の良い場所とはとても思えないけれどこっそりと訪れる社員は少なくないようで、空き缶やらビニール袋がところどころに置かれたままになっている。それを拾い集めていると、転落防止のフェンスにもたれて空を見上げている人がいることに気付いた。目を細めてよくみてみると、思わずあっと声が漏れた。
あの女だ。いつも笑って明るい表情をしているけれど、今目の前にいる彼女はぼんやりとしていて憂いをたたえていた。
「ああ、こんにちは。お仕事お疲れ様です」
彼女も男に気付いたのかすぐさま口角を上げて挨拶をする。その様子が何か無理をしているように感じられて、男は不思議に思った。
「こんにちは」
また口だけで挨拶を済ませ、作業に戻ろうとするといつもとは違って彼女がなおも話しかけてきた。
「無口なんですね。お喋り、苦手ですか? 」
彼女からきいた挨拶以外のはじめての言葉に男は戸惑った。どうやって答えるべきかと考えあぐねていると、彼女がまた空を見上げはじめた。
せっかく話すチャンスが訪れたのに、それをみすみす逃すのは嫌だ。男は焦って咄嗟に思いついた言葉を口にした。
「にっ……苦手、じゃないです。あの、ちょっと事情がありまして」
「事情? 」
怪訝な顔をされるかと思いきや、女は男をまっすぐに見据えていた。好奇に満ちたものではなく、ただ次の言葉を待っているだけの無邪気な目だ。その視線に背中を押されてか考える間も無く男はこたえる。
「病気なんです。メロス症候群っていう、知ってますかね」
「体を移動させ続けないと死んでしまうっていう、あの病気? 」
はい、と男は頷いた。
言ってしまった。何も考えずに、オブラートに包むこともしなかった。口にしてしまってから失敗した、と男は後悔する。急にこんなことを言われたら彼女はきっと戸惑うだろう。かえってくる言葉はきっと同情。
「可哀想に、大変ね」
「くじけちゃだめだよ」
「病気なんかに負けないで」
そんな言葉、ききたくもない。
しかし彼女はそう、とだけ答えた。そして何も言わず、フェンスにもたれていた体を起こして迷うことなく歩き始める。
こんな男となんて関わりたくも無い、か。ある意味同情の言葉よりもみじめだな。俯いて男がまたため息をつきかけたその時、女の足音がぴたりと止まった。
近くに感じる気配におそるおそる顔を上げると、男のすぐ隣に女がいた。そして男の歩く速さに合わせてついてくる。
「わたしが止まってたら、話しづらいですよね。気づかなくてごめんなさい。
一緒に歩いたらお喋りしやすいかなって思って。迷惑ですか? 」
驚いてしばらく男は何も言えなかった。今までそんなことを言ってくれる人はどこにもいなかった。同情の言葉を投げかけるか、奇妙なものでも見るような視線で男を刺すかのどちらかだ。
彼女の行動は経験の無いことでどう反応したらいいかわからなかったけれども、自分の頬が緩むのを感じた。
それから屋上をゆっくりと一周するあいだ、二人はたわいのない世間話をした。今にも飛び上がりそうなくらい嬉しくて、胸がほんのりとあたたかくなるような幸せを感じた。男が口にしたくだらない冗談に彼女は気持ちよく笑ってくれたし、女が話してくれる会社の噂話は男には関係のないことだったけれど馬鹿みたいに面白かった。
ぐるりと一周し終えるころには女の頬と耳は寒さのせいで真っ赤になっていた。おそらく自分のも同じだろうと男は思った。二人して雪遊びをしてきた子どものような顔をしていて、彼女が上司に怒られるのではないかと男は心配になった。
「じゃあわたし、そろそろ戻りますね。お仕事頑張ってください」
「長いこと引き止めちゃってすみません。お仕事頑張って」
扉の奥に消える彼女の後ろ姿を見送って、男は小さく息を吐いた。周りの空気を白く染めるそれは失望ではなく安堵と幸福感でできていた。
◇◆◇◆◇
作業のために屋上へ行くと、そこにはあの女がいた。そしてぼんやりと空を見上げている。そんな日がずっと続いていた。とくべつ屋上で作業がなくても彼女がそこにいるのではないかと思うといてもたってもいられなかった。そしてたいていの場合彼女はそこにいるのだ。
なにを考え、なんのためにそこにいるのか、知りたいという好奇心だけが燻っている。それに耐えかねて、男はおそるおそるきいてみた。
「わたしね、青が好きなんです」
青? とおうむ返しをする男の顔が面白かったのか女は少し笑った。
「こうして空を見上げていると青に吸い込まれていく気がするんです。冷たくて爽やかで落ち着いた青に手を浸してみたくて、こうやって手を伸ばすんですよ」
そう言って彼女は歩きながら手をのばした。当然空には届かない。ふざけているのかと思ったけれど、彼女は真剣だった。
「でもどうやっても届かない。飛行機で雲の上に行ってもわたしは青にはなれないし溶け込むことも触れることすらできないんです」
あまりにも悲しそうな彼女の表情に男は胸が痛くなった。できることなら両手いっぱいの青を彼女にプレゼントしたかった。そうしたら、すこし無理をしているようだった女の本当の笑顔を見られるかもしれない。
「空以外の青じゃだめなんですか? 」
空はあげられなくても、他のものなら。そんな期待をこめて彼女の反応をうかがう。
「一番好きな青は浅縹っていうんです。うっすら緑と青を混ぜたような色で、やわらかくてやさしい色なんですよ」
「あさはなだ、ですか」
忘れないように口の中で何度も繰り返す。響きだけでもこんなにきれいなのだから、きっと色自体も美しいのだろう。
「何に使われている青なんですか? みてみたいです」
ぽろりと口にした言葉に女は躊躇するような素振りを見せたあと、ためらいながらも男の腕にそっと触れた。
びくんと男の心臓が飛び跳ねた。今にも飛び出してしまいそうで、緊張で頭痛がした。何が起こったのかと男の頭はめまぐるしく回転する。
「ちょうど、このつなぎの色にそっくりです。わたしの一番すきな青」
自分のことをすきだと言われたわけでもないのに、男は赤面した。うっとりと男の腕を撫でる女の表情は恍惚としていてとびきりきれいだった。空は手に入らなくともこの青だったら、彼女にあげられる。男はその青に包まれている自分を誇らしく幸せに感じた。
◇◆◇◆◇
あくる日も、またあくる日も男と女は屋上をぐるりと一周まわっていた。はたから見たらそれはなんとも滑稽にうつったことだろう。でもそれはお互いにとっては立派な逢瀬で、幸せ以外の何物でもなかった。
男に肩を抱かれた女は「青に包まれてるみたい」と充足感に満ちた声でささやいて男に身を任せた。男は女の細い肩を抱きながら、彼女は自分のものなのだと感じていた。もしこのつなぎを脱いだら彼女は自分を変わらず愛してくれるのかと不安に駆られてもいた。でもこの関係を壊すつもりはなかったし、女が望むのであればこの青を手放すまいと決めていた。
「空を見たいのなら屋上でなくてもいいんじゃないですか? 階段のそばの窓でもどこでも空は見えるのに」
こんな寒いところにいて風邪をひいたら大変だと、彼女を心配する思いからでた言葉だった。
「屋上じゃないと飛べないじゃないですか」
なにを当たり前のことを言ってるんだ、とでも言うように女はそう言った。その言葉に男は震えた。
「飛ぶって、飛び降りるってこと? 」
自殺願望、という言葉が頭をぐるぐると駆け巡った。
「人は死んだらお星様になるんだってよくいいますよね。星になれるのなら空にだってなれると思うんです」
彼女はさも楽しそうにそう言った。でも男の怯えたような表情に気づいて安心させるように手を男の顔にそわせた。
「飛び降りようと思ってるわけじゃありません。ただ飛びたいってだけ」
その言葉の意味がわからなくて男は頭を抱えそうになった。
「仕事も人間関係もなんの問題もありません。でも、完璧じゃない。失敗することもあるし辛くて泣き明かした夜もあります。
そういうときに、すべてを投げ出したいって思うんです。仕事も友達も家族もないところで蹲って、ただじっとしていたいって」
女は男の顔をやさしく撫でてそっと微笑んだ。
「でも現実はそうはいかないでしょう。じっとしていたくても仕事はあるし朝は来るんです。投げ出したいけれど失いたくもないんです。飛ぶことに失敗したら今までのように仕事ができなくなるし、周りを失望させて迷惑をかけて、人生設計も狂うでしょう。それが嫌なんです。
立ち止まりたいのにまた走り出せなくなるのが怖くて、コースアウトしたくなるんです。それがわたしにとっての飛ぶってことなんだと思います。
ここに来て空を見上げながら飛んでいる自分を想像して、わたしはいつでも飛べる、いざとなったらすぐ飛べるって確認してるんですよ。
……ああ、安心してくださいね。でもそれをすることはきっとありません。わたしには選択肢があるんだよって確かめたいだけなんです」
そういうこともあるでしょう? と彼女は言った。男は何も言えなかった。飛ばないけれど自分が飛べることを確かめて安心するという女。
ああ、自分に似ている。男はそう思った。この病を抱えて、立ち止まりたいと思うことは何度もあった。立ち止まった瞬間、自分はこの世からいなくなることができる。それでも男は歩き続けた。脇腹が痛くなっても、息切れのせいで呼吸が苦しくなっても、彼は止まらなかった。いざとなったら立ち止まれる、どんなに苦しいことがあってもそこから逃れる手段がある。それが彼にとってどんなに救いだったことか。
形は違えど、自分とあの女はそっくりだ。
「もし君が飛ぶことになったら、俺も一緒に飛んでもいいですか」
男に言えるのはそれだけだった。女はこくりと頷いた。そのまま飛び続けて二人で空の青に溶け込めるかもしれない。たとえ落下したとしても二人が地面に到達したときに二人の命は尽きるだろう。そのときは星ではなく、空になれたらいいと思う。
男は女の愛した空になりたかった。女は男と一緒に大好きな空になりたかった。それで十分だ。他には何ひとついらない。
◇◆◇◆◇
「おばあちゃん、それなあに? 」
ショッピングモールの屋上にある小さな遊園地は家族連れで賑わっている。子供たちの弾けんばかりの笑顔がそこには溢れていた。そんなところで一人、端のベンチに腰掛ける女は少しばかり目立っていた。藍色のワンピースを着て毎日のように訪れる彼女は子供だらけのそこでは異質で奇妙にうつり、変わり者だと街の噂になっていた。
孫の付き添いでもなく、楽しそうな子供たちの様子を見るためでもない。ただそこに座って空を見上げ、時折首から下げたネックレスを愛しそうに撫でるのだ。それを不思議がって話かけてきた少年に女はにっこりと微笑んだ。
「これはね、わたしの旦那さんなのよ」
人間なわけないじゃん、と少年は口を尖らせてそう言った。嘘つきだと笑われたけれど、女は気にしなかった。だってそれは事実だったから。
メロス症候群だった男は還暦を迎えるすこし前に亡くなった。彼が立ち止まったからではなく、また別な病に冒されたからである。男はどんなに辛い治療であっても決して立ち止まろうとはしなかった。入院する際には体がその場所に留まることのないように電動式のゆりかごのようなメロス症候群患者専用のベッドに揺られていた。それでも彼は女にベッドのスイッチを切れとは言わなかった。少しでも長く彼女と一緒にいたいという思いが彼を突き動かしていた。
「俺が死んだらきちんと青い空になるから、君も心変わりして星になんてならないでくださいね」
夫の言葉を女は今でも懐かしく思い出す。
彼は亡くなる前から墓を作らないダイヤモンド葬というものを望んでいた。遺骨を墓に納めずに人工的に合成してダイヤモンドにするという新しい埋葬法である。足の悪くなった女に墓参りの苦労をかけたくなかったのだろうと解釈して、女は夫の優しさにむせび泣いた。
夫の死から六か月後、完成したダイヤモンドを手にした女は再び慟哭した。男は小さな青いダイヤモンドになって帰ってきたのである。女の愛した空をプレゼントすることはできなかったけれど、男自身が女が一番すきだといった浅縹の宝石になった。これほど深い愛情がこの世にあっただろうかと、それが自分に向けられていたのかと、夫の気持ちに涙せずにはいられなかった。
男は立ち止まったら死んでしまう病気だった。ダイヤモンドになった今も、立ち止まったら死後の世界でも死んでしまうかもしれない。ずっと歩き続けてきた彼のことだから、動いていないと落ち着かないだろう。だから彼女は今日も立ち止まれない。
「わたしはもう飛びませんよ。あなたと一緒に歩いていきます」
そう石にそっと語りかけて、ダイヤモンドをかざした。雲ひとつない大空が浅縹の石に透けてきらめいている。——女の欲しかった空は彼女の手の中にある。