不死の贄
不死の神へ捧げ
その命永遠に
肉となり骨となり共に。
『不死の贄』
長く、長く伸ばされた黒髪はその痩せた肢体の、つま先程に達している。何も映さない漆黒は蒼白の肌を囲み彩っていた。
不死の神へと捧げられる御子。鎖で神柱へと繋がれもう幾日も経過している。
そのエメラルドの様な瞳は、ただ静かに目の前の人物を見据えていた。御子が見据えるは、御子の護衛である男。
男は戦で負傷し、職を失ったところを神殿の神官長に拾われて護衛としてここに在る。
男は感謝し誓いを立てた。神官長へ、御子へ、そして不死の神へ絶対の忠誠を誓うと、強く。
――しかし、あぁ愚かにも男は疑いを持ってしまった。
御子と男が初めて会ったそのとき、御子はかすかに微笑みを形作り、細い腕を伸ばして優しく男の頬に触れた。
唇がかすかに何かを発しようと動く、が、その美しいであろう声が聞ける事はない。
御子の声は、潰されている。御子は声を消された。
男がエメラルドの様だと言った、その瞳もまた、消されている。嵌められた宝石の如く何を映すわけでも無く、ただ光を湛えて所在無げに揺らしていた。
男はその時から、自身の信じてやまなかった世界が崩れるさまを実感したのだ。
信じていた神、敬っていた神官長、御子のその実態に。
神殿は生贄として御子を残酷に飾り立て、不死の神へと捧げようとしている。
父の様に慕っていた神官長が、贄としてこの様な子供をむごたらしく傷つけている。その事実に男はただ憤り、周りの全てを疑った。
そして、この無垢なる御子のみが男の心の支えとなっていった。
――しかし、あぁ愚かにも護衛の男は御子に恋をした。
男は御子に花を与え、歌を聴かせ、自身を語った。
御子は何も言わずにただ微笑みを男へ向けている。
いつしか二人寄り添い、ただゆっくりと空を眺めて過ごす時間が増えてゆく。
ここは神の間。
神柱に繋がれた御子を中心にぐるりと空間は広がる。仰ぎ見れば、そこには設けられた窓から少しばかり青空が見える。
男は、この絶望的な空間において、その青空だけが希望であると思えた。
男は静かに高鳴ってゆく胸に、決意を固めた。
「いつかお前をここから連れ去ろう」
その言葉に、御子は珍しく反応を見せた。少しばかり顔を上げ、小首を傾げておかしそうに微笑んでみせるのであった。
男は思う。こんなにも清廉な汚れ無き、善に満ちた人間は見た事が無いと。
御子は命を慈しむ。
どんな者にもその手を伸ばし、愛でる。憎しみなど、いやしさなど、微塵も孕んでいないのであろう。
何故このような人間が鎖で柱に繋がれなければならないのだろうかと、考えた。
結論はすぐに出る。
清廉だからこそ、繋がれたのだと。
神へ捧げられし御子。
汚れ無き、その心だからこそふさわしい。
「あぁ、残酷な事だ」
男は神と、その神を信じる者達を憎んだ。
ある日。
御子の繋がれる間に踏み入ると、男はすぐに異変に気が付いた。
以前、御子に与えてやった小鳥が、血に塗れて死んでいる。御子は手に小鳥を乗せたまま、男を見上げた。
「なんということだ……誰がこのような事を」
男には大体想像が付いていた。神殿の者達は皆、自分が御子にあれこれしてやるのを良く思っていないようであったからだ。
「大方、神官共が嫌がらせにやったのであろう? 気にするな。その鳥はお前に可愛がられていた間、しあわせであったろう」
言葉を理解しているのか、いないのか。御子は不思議そうに首を傾げて、男を見上げた。
男は考え込んだ。
もしかして、御子は生死の概念が無いのだろうか。死ぬという事も、どういうことなのかわかっていないのかもしれない。
男は尚更強く強く、思った。
自分が連れ出して、外の世界を、生を知らせてやらねばと。
神殿は、日に日に静寂を増して行った。
男は皆がこの御子に対する残酷な日々に、行いに、やっと罪を感じ恐れて逃げ出したのだと思っていた。
しかしある噂を耳にする
――不死の神は人を食らうと。
不死の神に恐れて内部の人間が減るのは、男にとって好都合であった。御子を連れ出しやすくなる。
もう男の決断は固かった。
「俺は神から、お前を奪う」
もう長い間、ずっと計画を練っていた。
今がその時だと――男が御子の鎖へ手を伸ばした、時。
「ならぬ!!!!」
しわがれた老人の声が、叫びの様に神の間へと木霊した。振り返れば、そこには神官長が立っていた。
「全てを失ったお前を息子の様に育ててやった恩を忘れたか!!!」
男はゆるく首を振った。
「感謝している。俺を拾ってくれたことも――素晴らしき御子と出会わせてくれたことにも」
神官長の顔が歪み、唾を飛ばしながら叫び、よろよろと駆け寄るも、その鈍すぎる動きは間に合わなかった。
男は御子の拘束を素早く解いた。
御子は、解放された。
状況を理解できないのか、御子はきょろきょろと辺りを見渡した後、無垢な笑顔で男の顔を見上げた。男は強く頷いて見せる。
「ならぬ!!! あれを世界に解き放ってはならぬ!!! 殺せ!!! ころせえええええええええ!!!!!」
神官長の絶叫が轟き、数人の足音が駆け込んでくる。
飛び掛かってきたその素早さに、しかし男は怯まない。隠し持った短剣を振り翳し、男達を葬り去った。
やはりもう神殿にほとんど人は居ない様であった。皆不死の神に食われるのを恐れ、我先にと逃げ出したか。
躊躇はしなかった。
男はよろめく神官長の腹に剣を振るった。
「俺は恐れぬ! 不死の神などに、屈してなるものか!!! こいつの手を取り、世界の果てまでも生きてやる!!!」
男が天に剣を掲げ、勢いよく放つ言葉に神官長は絶望に塗れ枯れた声を絞った。
「馬鹿者が……お前は、今に……絶望を見るぞ……」
言葉尻がすぼみ、潰えたその言葉に男は耳を貸さなかった。
ただ、御子はゆっくりと老人の死にかけている体に近付き、膝を折った。神官長の乾いた頬に手を添え、声を絞る様に唇を揺らした。
男は動揺していた。
「お前……今までこの様な目にあってもなお、神官長を慕っていたのか……?」
慈愛、無垢、向けられるその残酷なまでの優しさに、男は胸を締め付けられるような感覚に溺れた。
神官長の額に唇を寄せ、御子は静かに口付けた。
ぽたり、と落ちた雫は御子の涙で――
「お い じ ぞ う」
男は。
今までの生で、
聞いたこともないような、醜悪な音を聞いた。
“おいしそう”
理解が追い付かない。男の脳は、思考を、停止していた。
老人の顔が、御子と呼ばれた者の涎で、ぽたりぽたりと濡れてゆく。
だらしなく開けられたその唇は、美しい御子の造形には、背筋が凍るほどに不似合であった。
神官長は御子に目を向けずに、ただ男へと視線を投げた。
「これこそが、不死の、神」
男は、自身の立っている地面の不安定さを感じた。男は、自身の記憶を疑った。
「俺は夢でも見ているのか……?」
御子、は老人に食いついた。
「俺は、神殿に騙されていたのか……? 御子を守ると言われていたこの神殿の真実は、不死の神を封じていたと言うのか……?」
男は、自分自身を失っていった。
「俺は、何者だ」
「それとも神殿も俺も最初から不死の神を封じていた……? 俺が、おかしくなって、御子だという、幻想を見た……?」
神官長はもう語らない。凄惨な音が嫌でも男の鼓膜に響いた。
「それとも、御子は狂っていたのか。仕打ちに耐えられずに、狂ったというのか」
ふと、いつの日か御子、の手の上で死んでいた小鳥を思い出す。
「あぁ……あれは、お前が食べたのか……?」
その言葉に答えるかのように、御子、は顔を上げた。
そしてゆったりと男に近付く。
頬に手を添え、慈愛に満ちた微笑みで小首を傾げて見せた。
「お い じ ぞ う」
“おいしそう”
これは、御子の愛であった。
紛れも無い愛であると、男は感じた。
恍惚とした表情の御子は、神々しく、男ははじめて神を知る。
「俺も、愛している」
ある日の事、旅人は夕暮れの丘に佇む一人の人影を見つける。
夕日を眺め、そのエメラルドの様な瞳にオレンジを照らす。長い黒髪を揺らし、幸せそうに微笑んでいた。
その白い手は、男の手をしっかりと握っていた。
男の手首から先は、無い。
-end-