12)弱さに付け込む鏡
「職員用玄関だと、二階だな」
吉田が少し考え込む。
非常階段には、正直近付きたくない。
「吉田、こっちの階段からいこう?」
わたしは、非常階段から離れた別の階段を指差す。
職員用玄関にも近いし、丁度いいと思う。
階段というだけで、あまり登りたくないけれど。
「まぁ、仕方ないか」
吉田は軽く頷いて、先に登り始める。
わたしはその後ろを、てくてくと着いて行く。
やっぱり、廊下や階段は足音が響くね。
妙にわたしの足音が耳につく。
てくてく
てくてく
てくてく
てくてく
てくてく……
てくてく……
あれ?
「どうかした?」
「ううん、たぶんなんでもない」
思わず後ろを振り返ったわたしに、吉田が立ち止まる。
吉田の足音かな。
わたしの足音が、まるで二つあるように聞こえるの。
だんだん、近付いてきているような。
でも気のせい。
後ろに、何もないしね。
そう思って、階段を上りきって踊り場についた瞬間、わたしは息を飲んだ。
「……っ!」
「幹原?!」
不意に人影が目の端に写ったのだ。
踊り場の横に。
「……あ……これ、鏡……」
ふっと肩の力が抜けるのがわかった。
ここに、鏡なんてあったのね。
全身が写るぐらい大きな姿見が、泣きそうなわたしを写し出していた。
「たまにあるよな、こういう無意味な鏡」
「無意味かな?」
「無意味だろ? 昇降口ならともかく、こんな所に鏡があっても誰も使わないだろ」
言われてみるとそうかも。
昇降口なら、学校に来てすぐ身だしなみがチェックできるよね。
でも、こんな踊り場の壁にあっても、あんまり見る人は少ないかも。
立ち止まって身だしなみをチェックしてたら、いっそ通行の邪魔になってしまいそうな場所だよね。
てくてく……てくてく……
わたしも吉田も立ち止まっているのに、足音が響いた。
そして、鏡の中のわたしが、足を揃えて手を差し出す。
え?
一瞬だった。
鏡の中からのびたわたしの手が、わたしの腕をつかむ。
「幹原っ?!」
焦った吉田の声が響いた。
そしてそのまま、わたしは鏡の中に引き込まれた。
◇◇
「よし、だ……?」
わたしは振り返り、鏡を覗き込む。
でも何も見えない。
わたしが写っているだけだ。
そっと。
鏡に触れてみる。
震える指先が伝えてくるのは、鏡の冷たい質感だけ。
……わたし、鏡の中に引き込まれた、よね……?
いまいち、自信はないけれど。
周囲を見渡す。
よく、鏡の世界は左右逆だと聞くけれど、何も変化がないように見える。
ただ吉田が側にいないだけで。
……ここに、じっとしているわけにもいかないよね?
わたしは、鏡を見つめる。
鏡はただの鏡で、なにも変化がない。
しんと静まり返った校舎に、わたしは歩き出した。
吉田が見つかればいいんだけど。
とてとてと、頼りないわたしの足音だけがここにある音で。
静かすぎて、耳が痛くなる。
……鏡から離れたけれど。どこに行けばいいのかな……。
学校に閉じ込められて、さらにわたしは今、鏡の中に閉じ込められたんだと思う。
この場合、どうすればいいんだろう。
鏡を壊すのは、なんとなく、怖い。
二度とここから出られなくなってしまいそう。
とてとて、とてとて。
薄暗い廊下を、一人で、歩く。
あの幽霊の声は聞こえない。
でも。
すごく、心細い。
たった一人で校舎の中にいることが、どうしようもなく怖い。
ぎゅうっと唇を噛み締めて、わたしは頭を振る。
立ち止まってても、出れないのだから、先に進まなくちゃ。
階段を登り、吉田と目指した職員用玄関へ向かう。
二階の突き当たりは職員室で、わたしは中を覗いてみる。
やっぱり、誰もいないね?
当たり前なのだけれど、心細さが増してゆく。
職員用玄関は、わたしが来た時と変わらず、片方のドアが開いていた。
出られる?
どきんっと、心臓が跳ねた。
どきんどきんと鼓動を早める心臓と共に、わたしの足も速まって。
わたしは、職員用玄関のドアの側で立ち止まる。
ここから、出る?
左手を、そっと、開いているドアの外に出す。
弾き返される事なく、わたしの手は外の空気に触れた。
でも。
……吉田は、今どこに?
ここが鏡の中なら、吉田がいないのは当たり前だ。
でも、わたしだけがこのまま外に出ちゃって、いいの?
『いいんじゃない?』
心のどこかで、そんな声が聞こえる。
一秒でも早く、わたしはここから逃げ出したかった。
だから、そんな心の声に、従いたくなる。
吉田なら、大丈夫。
吉田なら、一人で、この校舎から逃げ出せる。
『そうよ。貴方さえいなければ、吉田は怪我もしなかったのよ』
そうだ。
わたしさえいなければ、吉田はきっと無事だった。
『どうして、学校に戻ってきたの? 吉田一人なら、こんなことにならなかったのに』
わたしが忘れ物をとりに戻ったから。
先生に怒られるぐらい、いいじゃない。
こんなことになるなら、阿野先生に、怒られるほうを選べばよかった。
『吉田は、何でも出来るよね。でも、貴方は……』
吉田は、何でも出来る。
霊に対処も出来る。
傷の手当だって、きっと一人で出来てた。
わたしは、何も出来ない。
『ねぇ。どうして吉田の足を引っ張るの?』
どうしてだろう。
どうして、吉田ばかりに頼って、何もできないくせに一緒にいるの?
『早く、吉田を開放してあげようよ。ここから消えましょう?』
そう。
吉田を自由にしてあげなくちゃ。
早くわたしは消えなくちゃ。
わたしは、吉田の邪魔ばかり。
ふらりと、足が職員用玄関に吸い込まれる。
外に出れば、吉田は自由。
――み――ら――っ
遠くで、何か聞こえる。
でも、なんだろう。
もう、よく分からない。
――幹原っ!!
「っ!」
吉田の声に、ハッとする。
目の前の出口がぐにゃりと歪んだ。
引き込まれそうになって、わたしは慌てて後ろに下がった。
瞬間、ガシャンと何かが割れる音と、目の前の景色がバラバラと崩れ落ちる。
まるで鏡が割れたかのよう。
「幹原っ!」
「よし、だ……?」
気がつくと、吉田がわたしを抱きしめていた。
わたしの足は、今にも階段を踏み越えようとしていた。
「正気に戻ったか?」
ぐっと吉田がわたしを引っ張り、階段から引き離されて壁際に連れられる。
「わたし、なんで……」
「鏡の前で立ち止まったと思ったら、急に倒れたんだよ」
わたし、気を失ってた?
鏡の中にいたのは、夢だったの?
「あっ、鏡?!」
目の前の鏡は、粉々に砕け散っていた。
「ぶっ壊した。幹原が急に立ち上がって、階段に向かったんだ。目が虚ろで、俺の力でも抑え切れなくて」
「覚えてない……」
あのまま、職員用玄関から出ていたら。
わたしは、階段から落ちていたのかな。
「幹原」
吉田が、いつに無く真剣にわたしを見つめてる。
わたしを掴む腕に力を込める。
「吉田?」
「お前は、邪魔なんかじゃない」
「え……」
「うわ言のように呟いてた。邪魔だ、足手まといだと」
「わたし、鏡の中で言われた事を、こっちでも呟いていたの……」
「聞いてくれ。俺は、お前がいるから、正気を保っていられるんだ。邪魔だなんて思わないでくれ」
ぐっと引き寄せられて、わたしは吉田に抱きしめられた。
吉田の胸に頬が当たって、心臓が、激しく鳴っているのがわかる。
「絶対に、死なないでくれ」
耳元で囁くように、吉田が呟く。
わたしは、吉田の背に手を回し、こくりと頷いた。




