10)思い出
吉田が振り上げた椅子が、思いっきり美術室の窓に振り下ろされる。
ガンッ……ッ!
壁にぶつかるような音を響かせて、窓ガラスは軽く震えた。
でも、それだけだ。
ひびすらも入っていなかった。
「ガラスじゃなくて、壁を殴ってるみたいだ」
「割れそうにないよね……」
三階で教室の窓が開いてベランダに出られたのは、外へは逃げられないからかな?
飛び降りるなんて出来なかったし。
それとも、わたしたちがベランダ伝いで逃げたから、今度は逃げられないようにされたのかな。
わからないけれど、一階の窓からも逃げられないってことだけはわかったよ。
もう一度、吉田が椅子を振り下ろす。
でもやっぱり駄目で、仕方無しに椅子を床に下ろした。
なにか、他に開けれるものとか、あるかな。
ハンマーとか?
でも、男性の力で振り下ろした椅子で割れないなら、ハンマーでも駄目かも。
わたしは、美術室をくるりと見回す。
美術室の壁には、美術部の子が描いた絵や、卒業生達の作品が数多く飾られている。
すごく、綺麗だよね。
普段の授業中は、あまりじっくり見ていなかったけれど。
こんな時だけど、こうして改めてみると、やっぱりみんな上手。
わたしは、壁の絵の一つに手を伸ばす。
表面が少しざらっとしたそれは、吉田の絵だ。
雪の結晶を崩したような、不思議な模様が浮かび上がっている。
吉田が良く使う技法で、塩を絵にかけるとこうなるんだとか。
そもそも、まともに絵がかけないわたしには、遠い世界だ。
うちの学校は、選択教科があって、音楽、書道、美術がそうだった。
音楽は、人前で歌うとか恥ずかしいし、楽器も高いし、選ばなかった。
書道は、音楽よりは敷居が低く感じたけれど、なんとなく、カラフルな美術のほうがいいかなって思って選択して。
そんなに深く考えずに選んだわたしだから、美大目指すレベルの美術部の人たちの絵って、ほんと、すごいと思う。
「その絵、俺のだな」
「うん」
吉田が気づいて、絵に触れる。
「綺麗だよね、吉田の絵って」
「そうか?」
「うん。この、塩を使っている部分。不思議な雰囲気がして、好きなの」
空だったり、服だったり、木々の影にだったり。
絵によって使われている場所は違うけれど、どの絵も綺麗ってことだけは確実だった。
「まぁ、学校で使ってるやつは見ないよな」
「どうして、吉田は塩で絵を描くようになったの? 学校では習わないよね?」
「んー、まぁ、最初はごまかす為かな」
「ごまかす?」
「あぁ。ほら、俺は塩を持ち歩いてるだろ? 普通ないじゃん。
昔はお守りの中に入れておくだけだったんだけど、塩が足りないときがあってさ。
仕方ないから、鞄に塩を袋ごと入れといたら、思いっきり破けてぶちまけちゃって」
「あわわ……」
「背負ったランドセルから塩がぼろぼろ零れてさ。小学生の頃だったから、女子も男子もからかうことからかうこと。付いた仇名が塩男だぜ? あれは凹んだわ」
「それは、辛かったねぇ」
「おう。零れた塩を掃除するのも面倒だったし、家に帰ってからランドセルひっくり返したら、教科書もノートも全部塩まみれ。
ばあちゃんが慌てて巾着縫ってくれてさ。それに塩を入れるようになってからは、零さなくなったんだけどね」
和風の小袋は、お婆様が縫ってくれたものだったんだ。
年季が入っている感じだったのに、綺麗だったのは、きっととっても大事に使っているからだね。
「それでも、やっぱり塩自体を持ち歩いているっていうのがちょっと嫌でさ。
霊の事なんて言えないし。
だったら、俺もばあちゃんみたいに絵に使えば解決するなって」
「じゃあ、絵に塩を使う方法は、お婆様譲りなのね」
「そそっ。ばあちゃんはどっちかというと絵を描くよりも、塩の効果を高めることが目的だったみたいだけどね」
「さっき手に描いていたような?」
「見様見真似だから、間違ってたかもしれないけどな」
吉田の手の平には、まだうっすらと赤い痕が残ってる。
火傷していないって言うけれど、大丈夫かな?
「そうだ。この絵、いる?」
吉田が、壁からひょいっと外して渡してくる。
えぇええええっ?
「そ、そんな、もらえないよっ?!」
「邪魔になるか」
「違う、そうじゃなくてっ、こんな大きな綺麗な絵、貰えないっ」
苦手だけど、美術で描いているからわかる。
絵を一枚仕上げるって、すっごく、時間がかかるんだよ。
吉田がくれようとした絵はB4サイズ。
ノート二冊を並べた大きさだ。
それに、CGと違ってアナログイラストだから、失敗したらそれまでだ。
油絵じゃなくて水彩画だから、上から絵の具を足してごまかす事もできない。
なのにわたしが受け取っちゃうとか、駄目だよ。
「そうか。あぁ、そうだ、ちょっと待ってて。確かこの辺に……」
吉田が壁に絵を戻して、ロッカーの辺りをごそごそ探し出す。
その手には、数枚のイラストやらスケッチブックやらが握られている。
あれ、全部吉田が描いたのかな?
すごい枚数。
「お、あった。これならどう?」
吉田が、一枚のイラストを差し出してくる。
手の平サイズのそれには、夕焼けと、夜空には星みたいに塩を使った結晶模様が彩っていた。
「綺麗……っ」
「面と向かって言われると照れるな」
「だ、だって、この辺の滲み具合とか、柔らかい感じで、でも、夕日はこう、はっきり光って見えるんだもの」
「水彩はぼかし易いんだよね。だから俺はシャープに描くのが苦手。この絵は習作で、いつもよりはシャープに仕上がってると思うんだよね」
「……見分けとか付かないっていったら、駄目かな?」
「いいんじゃね? 俺の絵が好きなら、それでいいよ。褒められれば嬉しいしね」
ふっと笑って、吉田はわたしに絵をくれた。
ここで断るのは、失礼だよね?
せっかくくれるって言うのだから、ありがたく貰ってしまおう。
部屋に飾りたいな。
学校から、出られたらだけど。
わたしは、イラストが折れないようにバックに大切に仕舞い込んだ。