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 優良の家を離れた楓は、吉田と別れた後、電車を乗り継いで一人のベテランカウンセラーのもとへと向かった。カウンセラーは自分が担当しているカウンセリングを、目上の第三者の視点から見てもらい、検討していただくというスーパービジョンというものを、月に一度は行わなくてはいけない。カウンセリングの枠内で、カウンセラーとクライアントの関係性の中だけでは、見えていないところがあるからだ。

 楓のスーパービジョンを担当しているのは、名門の帝都東大学で特任教授をしている、米田俊郎先生である。

楓はこの人のことを米先生と呼んでいた。

 米先生は、いつも通り優しい顔で楓のことを向かいいれてくれた。米先生の自宅はいつもコーヒーのにおいが充満していて、そのコーヒーを飲みながら楓は米先生といつも話している。

「今月、クライアントさんに何か変ったことは?」

「特に良好といった感じですね」

米先生に見てもらっているカウンセリングケースは、うつ病を発症して2年くらい経つ40代女性のものである。楓はこのカウンセリングを1年以上行っている。最初と今では見違えるほどこの女性の状態はよくなっている。

「それでは、逐語を見せてくれないかね」

「はい…」

そう言って、楓は自分のバッグを開きファイルを取り出した。そのファイルから厳重に管理していた数十ページに渡る用紙を取出し、米先生に渡す。

逐語というのは、カウンセリングでのカウンセラーとクライアントとの会話を文字に起こしたものである。文字に起こしたと言っても、カウンセリング中はICレコーダーなどを持っていないので、ほとんどの場合カウンセラーの記憶が逐語となることが多い。カウンセラーはその時の場面で会話を記憶していることが多く、慣れるとほとんど記憶している人がいたりする。ICレコーダーは事例研究などを行う時、持ちいれることもあるが、その時はしっかりとクライアントさんの許可を取ることになっている。

「う~ん、これを見る限りはよさそうだね…」

「はい…このまま回復してくれればいいのですが」

米先生が頷きながら、楓の話を聴いていた。

「何か、このままよくなるためには、この女性に気付いてほしいことはあるかい?これは触れなきゃいけないということとか…」

楓は、そう言われるとしばらく考える。そして、楓の心の中で引っかかっていたことを米先生に言った。

「息子さんのことですね…息子さんも、お母さんのことをようやく受け入れようとしているみたいですし…」

「そうだね」

 このクライアントさんも、母子家庭のため女手一つで息子を高校生まで育ててきた。息子の学費だけは確保するために、毎日夜遅くまで働いていたらしい。なかなか、息子と遊ぶ時間も取れない中で、自分の養育が正しいのか悩んでいたみたいだ。そして、中学生になった息子に反抗期が訪れた。反抗的な息子に、クライアントさんも不安が爆発して、うつ病を発症してしまった。

 反抗期が訪れたということは、クライアントさんの養育は上手くいっていたのであった。楓は、そのことを間接的に伝えることができたらと考え、息子さんとも話す機会を持った。息子さんも自分を責めていたところがあった。楓が息子さんとの話す機会が持てたことで、家庭の中で少しずついい変化が起こったみたいだ。

「今日は、少し元気がないね?」

楓が帰り際になって、米先生が訪ねてきた。

「いや…何でも」

楓は、笑ってごまかす。少し元気がないというのは、図星である。

「このケースはうまくいっているのに…何かうまくいってないことでもあるかい?」

「まあそんな感じですかね…」

楓は、米先生に返す。

「あまり、無理しすぎないようにね…カウンセラーは精神疾患になりやすい職業でもあるんだから、特に君みたいな優しすぎる人間はね…」


 帰りの電車の中で、米先生の最後の言葉が頭の中をグルグルとまわり続けた。“楓はカウンセラーにしては人間的に優しすぎる”この言葉を言われたのは、今日が初めてではない。カウンセラーにできることは限界があるということを知っておくべきだが、楓はたまに歯止めが利かなくなるということもある。

カウンセラーとしては致命傷らしいが。

 電車の中で、携帯を見ていると、国会のニュースが目に入った。会期を延長している国会は、また与野党のけんかで大騒ぎになったみたいだ。いつものことかと思って、楓は物思いにふけっていると、優良の家庭のことや先ほどのうつ病の女性のことを考えていた。共通するのは、母子家庭で母親は忙しい。優良の担任をしている吉田は、行政からの押しつけで、毎日出張や書類作りなどをしており、優良と会話する時間が取れないと嘆いていた。だれかサポートしてくれている人がいたら。なぜだろう?なぜ、こんなに子どもたちから大人たちを奪っていくのだろうか?楓が小さいころは、いろんな大人たちが楓を助けてくれたし、叱ってくれた。楓がこの仕事をしてみると、現在の子どもたちをサポートしてくれる大人の少なさが目につく。

 自宅がある港区で電車を降りた楓は、その足で永田町へ向かった。道のりはかなり長いものであったが、気づくと楓の目の前には、大きく横に長い建物がある。楓は叫んだ。

「誰が、こんな世の中にした!」

楓の声は、夜の永田町にこだました。


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