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楓はその声の方向に振り向いた。そこには、息を切らして肩を上下させている、亜紀の姿があった。亜紀は歩道橋の下、渋谷駅西口の出入り口前で娘が歌う『Yesterday』を聴いていたのだ。楓はその姿を優良が歌いだす前に確認していた。楓は、亜紀が自分の娘との思い出をたどり、そしてここへたどり着いたのだと思った。
亜紀はゆっくりと娘がいる方向へと歩き始めた。楓が見た亜紀の表情は、娘を心配する母の印象が強くなっているような気がした。
「お母さん…何で…?」
優良は近づいてくる母に対して、疑問を投げかけていた。しかし、それが本当に疑問の意味が込められているのか、楓には懐疑的に思えた。
「優良…だって、私はあなたの母親よ…」
「嘘よ、だって私のこと嫌いなはずじゃない」
「嫌いじゃないよ…大好きよ」
楓は、亜紀が言った“大好き”という言葉こそが、亜紀が優良に対する本当の気持ちなんだと思った。楓はその瞬間、強い安堵感を感じた。
「大好きなの?」
優良は、亜紀がその言葉を言った後、大粒の涙をこぼして自分の母親の元へと駆け出した。二人は、互いに体を寄せて両手できつく二人の体を抱いた。
「よかった…」
楓はその二人の姿を見て、小さくそうつぶやいた。亜紀が優良のことを愛してることを伝えたらそれでいいことなのだと、楓は考えていた。
「お母さん、ごめん…私、お母さんに来てほしかったから、自分を見てほしかったから…」
「もういいの!全部わかってるから!」
楓が二人の姿を眺めていると、歩道橋の上に優良を探していた、大久保と高山、吉田、葛城がやってきた。
「楓さん、僕、楓さんの見立ては間違えないと踏んで、皆さんに連絡しましたよ!」
楓が渋谷に向かったというのを、優良を探していたみんなに伝えたということであった。
「みなさん、ありがとうございました」楓はそう言って、頭を下げれば、優良の先生である吉田と葛城は「こちらこそ、生徒を救っていただきありがとうございました」と言うのだった。
楓のもとに高山が近づいてくる。高山はうっすらと笑みを浮かべて、楓の頭を軽く小突いた。
「カウンセラー失格!1人のクライアントへの過剰関与等」
「はい、反省してます…」
臨床心理士の資格を持つ高山が言ったことは、まぎれもない事実であった。楓は今回、優良を救いたい一心で、優良の1つ前の父親である西田に勝手に会いに行き、母親に対しては、明らかに感情をぶつけることをやってしまった。これは、カウンセラーとしてはやってはいけないことである。
「でもね、松島先生…」
「はい」
「あなたは、感情的になったかもしれないけど、あなたの言葉には、全部あなたの本心が入っていた。自分の気持ちに正直だった。だから、ここまで当事者たち動かしたんじゃない?」
楓は急な高山のほめる言葉に、どう返していいか分からなくなった。
「私はね、あなたみたいなカウンセラーも必要なんじゃないかって思うの。あなたは、いいカウンセラーね」
高山のその言葉を聴いたとき、楓はカウンセラーとして少し失いかけていた自信を取り戻した気がした。そして、何より優良を救えたこと、優良の誤解を解き、優良と亜紀の関係を修復できたことがよかったと感じていた。
楓は、優良と亜紀が長く抱き合っている姿を見ながら、カウンセリング記録に書くことを考えていた。
・カウンセリング記録 (Cl:三島優良)
先週より部屋に閉じこもり、希死念慮を見せていた。月曜日に一度、優良が通う高校の校内にて面談を行うも、よく火曜日に「自殺する」と言って失踪。渋谷駅周辺で、三島優良担当の松島楓が発見する。
三島優良が今回見せた行動は、本当に母親が自分のことを嫌っているかどうかを確かめたものと考えられ、母親が姿を見せ、「好きだ」と言ったことにより収まった。
三島優良は、幼いころから母親の結婚、離婚を繰り返し経験されており、母親に不信感を抱いていたもの。そして、他人への信頼も構築しにくくなったものと思われる。今回、母親の愛情を確認できた優良は、他人との信頼構築が上手くできるようになることが、次のステップだと考えられる。 Th:松島楓




