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優良は右手をギターの弦にかけ、小さく深呼吸をした。その優良の横を多くの歩道橋を渡る通行人が通り抜けていくが、優良とそれを見守る楓はそれを気に留めようともしなかった。
楓が真っ直ぐに優良を見守る中、優良がギターの一音を鳴らす。その音には力強さはなく、弱々しいとまではいかない切なさがあった。
通行人は、優良が弾くギターの音が聞こえたのか、一瞬通り過ぎる時にその音がする方向を向くが、さほど気にする様子もなく通り過ぎていく。
優良は、しばらくの前奏を鳴らした後、静かに力強く第一声をあげた。
THE BEATLES、『Yesterday』。
最初の一声は弱く、その後高音へと徐々に上がっていく。
優良の高音が渋谷の街に響いたとき、歩道橋の上を歩く通行人の多くが足を止めた。
楓は、優良のその声を聴いて息をのんだ。
「これほど…」
以前楓は、合唱部顧問の葛城に優良の歌のうまさは聞いており、その歌声も優良の自宅で聞いたことはあったが、これほどまで上手いとは思っていなかったのか、小さくつぶやいた。
優良の歌声は歩道橋の下までしっかり届いていたようだ。バス停でバスを待つ人、東急から渋谷駅のホームに向かっている人までもが優良の歌に足を止めた。中には、スマートホンを優良に向けている通行人も存在した。
優良の歌を食い入るように聴いていた楓の目には涙が光った。歌を歌っていた優良の目にも涙があった。
楓にとって優良とのカウンセリングで出てきた話題は、歌の話というのはあまりなく、どこかへ遊びに行く話や学校に行けたらやりたいことの話であった。歌の話はその校舎で少し出てきたものだ。しかし、楓はある日の訪問相談で、優良の左手の指先が少し硬くなっているのに気づいていた。楓はそれについて聞いたことがあったが、優良は「これが私なんだ…」と言葉を濁すだけであった。
「努力のあかしだったんだ…好きな事だったんだ…やっと気づいた、あなたが訴えていることに…」
楓は歌っている優良をひたすらに見つめながらつぶやいた。
そして優良の『Yesterday』は静かに終わりを迎えた。歌い終えた後に優良は、少しだけ荒くなった呼吸を整えていた。
渋谷にいる人々から拍手が起きた。
「優良ちゃん!」
そんな中、楓の優良を呼ぶ声が響く。優良は楓の方向を向かなかった。
「あなたは、歌っている時が一番あなたらしくいられる…それは、お母さんと自分が仲良かったころの証だから…」
優良は、楓の声を聴いて目を見開いて、顔を上げた。そして、首を横に何度も振る。
「そして、あなたはその時に戻りたいと思っている…でも、本当にお母さんが自分のことが好きなのか、」
「期待してたよ!!」
優良が楓の声を遮るように大きな声を出した。
「ずっと…優しかったから…でもあの人は家にあまり帰らないで、男の人を連れてきて結婚して…その度、私はお母さんを取られた気になって…それでも優しいから期待して、西田が来て、私に暴力振って離婚して…そして、私のこと恨んで何もしない…。やっぱり嫌いだったんだ…私より男なんだ…」
楓は、優良の言葉を聴きながら大粒の涙を流し何度も首を横に振った。
「違うの…違うの…」
「何が違うの!?もう、生きてても…」
「生きろ!私が生きててほしいって、思ってるんだ!」
今度は楓が優良の声を、遮るように大きな声を上げた。
「楓ちゃん…私に生きててほしいの?」
「生きててほしいよ…」
楓はその言葉を言いながら優良に近づいて行った。
「私だけじゃないよ…生きててほしいって思ってるのは…」
楓はさらに言葉を続ける。
「約束した…あなたは、もう助かるよ…」
楓がそうつぶやいたとき、たくさんの人ごみの中から、女性の大きな叫び声が聞こえてきた。
「優良!」




