〈14〉クランクバルド
リレスティ領主、クランクバルドの屋敷は、迷うことすらできないほどにわかりやすかった。ただ屋敷を見据えて歩けばよかった。
高台にある屋敷へ行くには坂を上がらねばならない。なだらかな坂道を歩く。早朝であるため、特に人とは行き違わなかった。そのまま振り返ると、思わず声がもれた。
「うわぁ、いい眺め」
さっと吹いた風が髪をなびかせる。レヴィシアはそれを押さえながら町を一望した。
色とりどりの屋根。整えられた貴族の庭園と、贅を尽くしたその屋敷。商店や旅館の雑然とした並びも見える。白を基調とした外観の『白鹿亭』は遠目にも確認できた。
そうして、少し顔を曇らせる。
同じ部屋にいたユーリは、自分が抜け出したことに責任を感じてしまわないだろうか。落ち着いたらきちんと謝ろう。
それから、心配してくれているだろうユイのことを想うと、やっぱり苦しかった。できるなら一緒にいたかったし、頼っていたかった。
でも、今回ばかりは駄目だと言われてしまいそうな気がした。
レヴィシアは腹に力を込め、唇を結んでその景色に背を向けた。ただ、今は前に進むだけだ。
そして、その先にはそびえ立つ豪邸があった。
その外観は、古典芸術のようでいて、洗練された近代美でもあった。いくつもの棟に分かれた白亜の壁に濃紺の屋根。厳重なレンガ造りの塀と重そうな門。その隙間から見える屋敷の敷地は、完璧に整えられていて、まるで楽園のようだった。屋敷の入り口は遠いのか、窺い知ることはできなかった。
以前に、ルイレイルという町で領主の館に出入りしていたが、明らかに格が違う。桁違いの、城のような屋敷だ。こんな邸宅に住まうのは、一体どんな人たちなのだろうか。
きっと、傲慢で嫌な人種なのだろうな、と思う。
この屋敷の片隅に、囚われた人々がいる。
ここは楽園などではない。
レヴィシアは、父の言葉を思い出していた。
『――きれいなものの裏っ側には闇があるんだ。目に見えるものだけを信じるんじゃないぞ』
注意して見てみると、門番が二人。
二人という数が多いのか、少ないのかわからない。朝からご苦労なことだ。
けれど、あそこに立たれていると、進入できない。裏に回り込もうにも、ここは高台で、隙がなかった。レヴィシアは木の陰でしばらく考え込む。勇んで飛び出したものの、ここは冷静だった。
誰か、来訪者が来て開門した隙を狙うしかない。そう結論付け、レヴィシアはちろちろと木陰から門をうかがうばかりだった。けれど、そんな彼女はしっかりと挙動不審だったのである。
「そこの君、屋敷に何か用かね?」
多分、本当はもっと前から気になっていたのだろう。なるべく待って、それから声をかけて来た。彼は、職種の割に優しそうな初老の門番だった。
「え? あ、あの……」
どうやって忍び込もうか考えてました、とは言えない。しどろもどろになっていると、もう一人の若い門番が言った。
「あ、もしかして、働き口を探しに来たんじゃないのか?」
この青年も、見るからに人のよさげな風貌だった。番兵なのに、陽だまりのような人たちだ。ここは平和なのか、危機感もないらしい。
あどけなさの残る少女のレヴィシアが、まさかレジスタンス活動家だとは思わない二人は、親切そのものだった。
「は、はい」
とっさに適当な返事を返すと、二人の門番は納得し合った。
「そうか。じゃあ、屋敷の一番右の離れに使用人頭がいるから、会って来るといい」
「雇ってもらえるといいな」
怪しまれもせず、中に入れた。
あまりの呆気なさに驚くしかない。レジスタンスに見えなくてよかった、と今は心底思った。
さて、これからどうしようか。
本当に使用人頭に会うつもりはなかったけれど、門番たちの目があるので、とりあえずそちら側に進んで行く。振り返ると、若い番兵が手を振ってくれた。いい人だ。レヴィシアも顔が引きつらないように笑って手を振り返す。
二人が見えなくなると、レヴィシアは改めて気を引き締める。人に見咎められたら、道に迷ったと言うしかない。帰りは、雇ってもらえなかったと言えば通してもらえるだろう。
けれど、レヴィシアはわかっていなかった。
この屋敷の中で人にばったり出会う確率が、レヴィシアが思う以上に高いことを。
朝の慌しい時間、緑を整える庭師。噴水の周囲を掃き清めているメイド。
幾人にも声をかけられ、レヴィシアはとても目立っていた。こっそりのつもりが、だだっ広い敷地は、隠れる場所もない。
冷や汗をにじませながら、レヴィシアはそれでも敷地を歩く。結局、道に迷ったと言えば、親切な人々によって使用人頭のもとへ誘導されてしまう。とても逆らえなかった。
そして、普段ならば出くわす確率の低いような人物にまで出くわしてしまうのだった。
中庭に続くアーケードを歩くと、正面から二人の人が歩いて来る。メイドたちはそろって頭を垂れ、脇に寄った。レヴィシアは身構えたけれど、隠れることはできなかった。場違いな彼女は、途端にぎろりとにらまれる。
一人は白髪まじりの長い髪を豪奢なリボンでまとめた中年の男性だった。絹とビロードがこれでもかと使われた、いかにも貴族らしい出で立ち。
もう一人は、明るい茶色の髪のシニョンと、水色のマーメイドドレスを着た女性だった。年齢はまだ二十代前半くらいだろうか。美しいけれど、逆に言えばそれだけしかないような、そんな印象を受けた。
頭を下げなかったレヴィシアは、こんなにも堂々と眺め倒してもいい相手ではなかったことにやっと気付いた。慌てて頭を下げるが、もう遅い。女性は顔をしかめ、男性は怪訝そうに問う。
「この娘は?」
周囲の者は答えられなかった。それはそうだ。
こうなると、言い訳はひとつだ。レヴィシアは下を向いたままで答える。血の気が引く思いだった。
「あの、あたし、働き口を探していて、面接をして頂きに来たんですけど、道に迷ってしまって……」
女性は面倒くさそうに男性の腕を引く。
「あなた、時間に遅れますよ」
男性は、彼女を甘やかすような柔らかい声で言う。
「少しくらいなら構わないさ。それよりも、君、顔を上げなさい」
嫌とも言えず、レヴィシアはおずおずと顔を上げた。男性は、レヴィシアの頭の先からつま先までを眺めると、うなずく。
「ふむ」
ものすごく、居心地が悪かった。
そんなレヴィシアの感情などお構いなしに、彼はあっさりと言った。
「よし。それでは採用しよう。今すぐ着替えて来なさい。君には特別な仕事を任せよう」
「え!」
思わず声をもらしてしまったけれど、慌てて口を塞ぐ。男性はそんなレヴィシアの様子に構わず、そばに控えていたメイドに指示を出した。
「連れて行ってやりなさい。それが済んだら、すぐにユミラの部屋の前まで来るように」
その一言に、メイドが一瞬顔を強張らせたのを、レヴィシアは見逃さなかった。けれど、この状況では逃れられない。
ルテアを探しに来たのに、ややこしいことになってしまった。今更後悔しても遅い。
メイドに促されるままに歩いた。道中、プレナと同じくらいの年齢のメイドは、ぽつりと独り言のような言葉をこぼした。
「どうして、こんな時期に来ちゃったのかしらね……」
とても尋ね返せる空気ではなかった。




