〈32〉正体
そこは、寂しい場所だった。
ちらほらと芽吹いた緑が、新しい季節の始まりを感じさせるけれど、その廃屋は春などとは無縁に淀んでいた。人通りのない森の中にある廃屋は、館というべき建物だった。貴族の別荘か何かだったのだろうが、すでに打ち捨てられて久しいのだと、一見しただけでわかる。
もとは白かったのだろうと思われる壁にはツタが這い、窓は割れ、最早、人の住める場所ではない。朝だというのに、不気味で仕方がなかった。
馬車から下ろされ、森の中を歩かされたプレナとユーリは、門前でその外観を眺めていた。錆び付いた鉄の門はすでに壊れ、蝶番ごと外れて倒れている。それをリッジは難なく踏み越えた。
「こっちだよ」
プレナもユーリも返事などしなかった。ただ、背後にいた見張りの男に押されるようにして進む。リッジはその先の玄関で、大きな木製の扉に手をかけた。ギギギ、と錆びた嫌な音が響く。全開はせず、隙間から滑り込むように中に入った。
中には大量のクモの巣、ぼろぼろに破れたカーテン、崩れた壁などが幽霊屋敷としか呼べないような状態で存在していた。ただ、朝であるため、差し込む光がおどろおどろしさを緩和してくれている。
ほこりの積もったエントランスを歩く。よく見ると、足元にはたくさんの足跡があった。事前に下見にでも来たのだろう。
そして、正面には大きな階段があった。途中から左右二手に分かれている。
エントランスの奥の階段を、リッジは上がって行く。ゆるく湾曲した階段は、一段ごとにプレナの体力を削る小高い丘のように感じられた。
階段を上り切り、踊り場に立って入り口を振り返る。今にもそこからザルツとサマルが飛び込んで来て、ほこりと血にまみれて横たわる。そんな光景が脳裏に浮かんでしまった。ぞくりと身を震わせ、かぶりを振って、その暗い未来を振り払う。
そんなプレナの様子に気付いたユーリは、無言で彼女の右手を取った。そして、微笑む。たったそれだけのことに、涙があふれるくらいに嬉しかった。
二階の廊下を左に曲がり、リッジはその突き当たりの扉を開いた。
「この部屋がまだマシな方だから、しばらくここで待っててよ」
部屋の中は、確かにきれいとは言いがたいが、下の階ほどには荒れていなかった。火が消えて久しい暖炉、貴婦人の絵画、空っぽの棚、書き物用の木机と椅子、天蓋に幕の垂れ下がったベッド、冬物らしき重たげなベルベットのカーテン、ほこりで白くなった絨毯。
二人が中に入ると、リッジは微笑みをプレナに向けた。
「プレナさん、そろそろ答えを聞かせてくれるかな?」
その一言に、プレナは青ざめつつもリッジをにらむ。そんな様子を、リッジは満足げに眺めていた。
「どちらも選ばない。どちらか一人でも死ぬようなことになるのなら、私も死にます」
その答えを、多分リッジは予測していたのだろう。裏切られなかった予想が、彼にはつまらなかったようだ。大きく嘆息する。
「あなたらしい答えだね。自分はきれいな人間ですって顔でいる。……ねえ、本心をさらけるくらいなら死にたいだけでしょう? 本当は、選べるくせに」
「っ!」
もう、何も聞きたくない。
震えるプレナの手を再び強く握ると、隣にいたユーリは二人の間に割って入る。
「それぐらいになさって下さい。女性を苛めるなんて、悪趣味ですよ」
淡々としたその口調に、一瞬リッジは目を細めた。
「……そういえば、君の名前、まだ聞いていなかったね」
「ユーリ、ですけど」
「そう。ユーリさん、君は部外者なんだから、生きていたいと思うのなら、おとなしくしていてほしいな。……じゃあ、後で」
そう言い残し、リッジは扉を閉めた。二人は部屋に取り残される。表には見張りの男が残ったようだ。
※※※ ※※※ ※※※
室内で、ユーリはプレナの手を放した。そして、そのまま人差し指をこめかみにトントン、と当てる。
「さて、これからどうしようかな」
「どうって……」
ユーリは窓のそばまで歩くと、窓を開けた。光の中をほこりが舞う。それを手で払うと、ユーリは下を眺めた。
「さすがに高いな」
「逃げ出すつもり? でも、リッジがいるんだもの。下手に動くと……」
すると、ユーリはプレナに顔を向けた。彼女はこんな状態だというのに、怯えるどころか平然としていた。
「でも、やれることは試さなきゃね。えっと、じゃあ、まず手始めに――」
※※※ ※※※ ※※※
リッジは屋敷の外に出ていた。待ち合わせの時間は迫っている。
多分、二人だけでは来ない。けれど、他のメンバーを連れて来るなと書いたところで、来たはずだ。特にユイには、陰に潜まれて矢を射られる方が厄介だから、見えるところにいてくれた方がマシだ。相手になるしかないと覚悟している。
リッジは軽く敷地内を歩いた。二人がいる窓を見やる。
女性二人。あの二人はきっと、一人では逃げない。片方を置き去りにはできないはずだ。少なくとも、プレナの性格では。
相変わらずの偽善だと思うけれど、それを貫き通してもらった方が、都合がよかった。互いが足かせになればいい。
見張りとして使っている男は、私闘で殺されかかっていたところを助けてやった。けれど、感じているのは恩ではなく、恐怖だ。だから、そう信用もしていない。危険が差し迫れば、簡単に逃げ出すだろう。ユーリがいて、よかったのかも知れない。
ただ、そう考えたのも束の間だった。
二階の部屋の窓は開け放たれていた。そして、そこから細く裂かれたカーテンやシーツが、結ばれてロープのように垂れ下がっている。けれど、その窓辺には人影があった。茶色が窓の縁に消える。プレナのショールの色だった。
リッジは小さく舌打ちすると、屋敷の中へ戻った。素早く二階へ駆け上がると、見張りの男が扉をダンダンと叩いていた。
「物音がしたんだが、扉の前に物を置いて塞いであるらしくて……」
その言葉を最後まで待たず、リッジは隣の部屋に駆け込んだ。そして、その窓を開くと、隣の部屋の窓までの距離を測る。常人なら跳べる距離ではないが、リッジの身の軽さならば可能だった。
窓枠に足をかけ、途中の壁の僅かな出っ張りを蹴って隣へ跳ぶ。手を窓枠へ引っかけ、それから体を持ち上げるようにして、反動のままに室内へ着地する。黒の外套がふわりと広がり、落ち着いた。
そんな光景に、パチパチと拍手が鳴る。
「すごい動きをされますね。随分と鍛錬されたのでしょう?」
そこには、ユーリがいた。茶色のショールにクリーム色のニット、オレンジ色のロングスカート。それらは、プレナが身に付けていたものだった。彼女は微笑む。
「私とプレナさんは背格好も髪型も似ていますから、遠目で判別するのは難しかったですか? 髪の色も、光の加減で似たように見えますし」
わざと姿を見せ、誘い出したと。リッジは、笑わなかった。
「……君は、何?」
ただの旅行者と言い張るには、彼女は異質だった。今更ながらにそれを思う。
すると、ユーリは艶やかな唇を緩やかに動かした。
「あなたこそ、何者ですか?」
その問いに、リッジは失笑する。
「君に教えても無駄だよ」
「どうせ、わかりっこないから、ですか?」
答えなかった。ユーリは何故か穏やかな顔でリッジと対峙している。そして、その一言を口にした。
「あなたは『 』ではありませんか?」
リッジは思わず、衝動的にユーリに向かって手を伸ばした。彼女を引き寄せ、その背中から腕を首に巻き付け、締め落とす。すると、ひどく呆気なくユーリは崩れ落ちた。意識のない彼女から手を放すと、ゆっくりと地面に倒れる。その様子を眺めている自分の心臓が激しく打っていることを、リッジは自覚した。
リッジは扉の前の机をどかし、ドアノブに絡めてあった布を外すと、見張りの男にユーリを運ばせた。
プレナがもし、すでに仲間たちのもとへ戻ったとしても、ユーリを見捨てはしないだろう。切り札が代わったけれど、やることは同じだ。
ただ、最後にはユーリを消してしまおうと思う。正体はわからないけれど、今後の禍根となるかも知れない。そう思った。
ユーリは常に小さな短剣を持ち歩いています。
素手でカーテンを引き裂いたりは無理です(笑)




