〈29〉二通の手紙
暮れになって、いつまでも戻らないプレナを探しに、レヴィシアとユイは外へ出た。彼女たちに取り残されてしまったエディアのもとに、一通の手紙が届く。
最初、その物音は誰かが帰って来たためなのだと思った。けれど、いつまでも入って来る気配がなく、そのうちに足音が遠ざかった。不審に思って扉に近付いた時、扉の隙間に差し込まれていたセピア色の封筒を見付けた。
一瞬、心臓が強く打った。ひどく嫌な予感がして、見てはいけないもののような気がした。けれど、開けるしかない。
震える手で封を切り、二つ折りにされた便箋を広げた。そこにはこう書かれている。
親愛なるサマル=キート様
あなたの妹さんの身柄を拘束させて頂きました
こちらの要求を呑んで頂けた場合のみ、解放いたします
よって、明日の正午、
リレスティの南にある森の廃屋にてお待ちしております
あなたにとって、彼女以上に大切なものなどないことを
願っております
エディアの手の震えに憤りが混ざった。
「差出人の名前がないなんて、卑怯だわ!」
誘拐犯に誠実さを求めても仕方がない。わかってはいるものの、気に入らないものは気に入らない。エディアは手紙を破り捨ててやりたくなったけれど、なんとか思いとどまった。
「明日って……どうしよう。サマルさん、ここにはいないのに。早く伝えなくちゃ!」
間に合わなかったら、プレナはどうなるのだろう。
一瞬、それを考えた自分にぞっとした。この手紙を握りつぶしても、望むものは手に入らない。そんなことは望んだりしない。
彼女を失った彼の心は、きっと癒せないから。彼女は生きていてくれなければ駄目だ。
そして、ようやくレヴィシアとユイが戻った。
「その様子だと、プレナはまだ帰ってないんだよね?」
うっすらと青ざめたレヴィシアに、エディアはうなずく。そして、手紙を差し出した。
「何、これ?」
不穏な何かを感じ取った二人は顔を見合わせると、手紙を食い入るように見入った。その視線は、短い文章を何度も何度もなぞり、それからようやくエディアに向けられた。
「どうして……っ」
レヴィシアはそれだけ言うのがやっとだった。唇が震えている。ユイも眉間にしわを寄せ、厳しい面持ちでつぶやいた。
「サマルはリレスティだ。でも、指定が明日の正午なら、明日の朝に出発すれば間に合う」
その冷静さを頼もしく感じた。
レヴィシアはユイを見上げる。たった一言がほしかった。
「プレナは大事な人質だから、きっと無事でいる」
気休めでもいい。残酷な言葉はいらない。
レヴィシアは少しだけ頭を動かした。うなずいたつもりだった。
「これって、もしかして……」
ぽつりとつぶやくと、ユイもそれを察していた。
「ああ、わかってる」
二人は納得し合うが、エディアにはわからなかった。思わず尋ねる。
「何をわかっているのですか?」
すると、ユイは短く答えた。
「差出人だ」
「え?」
「うん。きっと、そうだと思う」
エディアがレヴィシアに首を向けると、彼女は意を決したように思いつめた表情と声でその名を口にする。
「リッジ、だよね――」
※※※ ※※※ ※※※
その一方で、夜になっても尚、華やかなリレスティの宿にいたのはルテア一人だった。肝心の二人は、不満げなルテアを残し、情報収集だと言って酒場に出かけて行った。
子供扱いされ、すっかりふてくされてしまったルテアは、イライラしながらベッドに倒れ込む。特別疲れていないから、眠くもない。横になって転がっているしかなく、退屈すぎて頭を抱えていた。
すると、ドアをノックする音がした。ルテアはパッと飛び起きる。
二人が帰ったにしては早すぎる。警戒心が先に立ち、無言で待つと、おずおずと声がかかった。
「ザルツ=ナーサス様、お休みのところを申し訳ありません。少しよろしいでしょうか?」
中年の女性の声だ。宿の従業員だろう。
ルテアが飛び起きて細く扉を開くと、ふっくらとした女性が一通の手紙を差し出した。
「これをお渡しするように頼まれたのですが……」
何の変哲もない、ただのセピア色の封筒。表には何も書かれていなかった。
ルテアにはこれがなんなのかわからなかったけれど、ザルツが説明してくれないことなんて、今までに数多くある。だから、あまり疑問には思わなかった。
「わかった。渡しておくよ」
受け取って、ルテアは扉を閉めた。何度か裏返して封筒を眺めた後、隣のベッドの上に放り、ルテアは再びベッドの上に転がって時を過ごした。
それから、どれくらいそうしていたのか、正確にはわからない。眠くないといいながらも、少し眠っていたのかも知れない。ドアが開く音で我に返った。
戻って来た二人は、酒臭くはなかったものの、ほんのりと顔が赤い。どちらもあまり強くないのだろう。
「たっだいま、ルテア~」
陽気にサマルが手を振る。ルテアは顔をしかめた。
「この、酔っ払いが」
何か有益な情報でも手に入れてご機嫌なのか、単に酒の力なのかは知らないが、とにかく浮かれていた。
「酔ってないって。やだな、置いてったから、怒ってる? だってぇ、ルテアは童顔だから、一緒だと酒場に入れないしぃ」
けらけらと笑っている。心底うっとうしかったので、サマルのことは放置した。ザルツは比較的まともだったので、そちらに向けて言う。
「なあ、ザルツに手紙が来てるぞ」
上着を脱いで壁にかけていたザルツは、一瞬手を止めた。眉根を寄せ、ルテアを見やる。
「手紙?」
「うん、そこ。ベッドの上。宿の人が届けてくれたんだけど」
ベッドの上に視線を止め、ザルツは危険物でも取り扱うような手付きでそれを拾った。そして、裏表を確認すると、眉間のしわをいっそう深くした。
「もしかして、心当たりがないのか?」
ルテアが尋ねると、ザルツははっきりと答えた。
「ない」
ナイフを使わずに、手で封筒の端をちぎった。小さく紙の裂ける音がして、中から封筒と同色のふたつにたたまれた便箋が顔を出す。それを開いた瞬間、彼は顔色を変えた。瞬きもせず、その紙から目をそらさずに固まっている。
明らかに異質な空気を感じ、サマルは酔いの醒めた口調で問いかける。
「どうした? 何が書いてあるんだ?」
声をかけられたことに驚いたのか、ザルツの肩がぴくりと動く。ザルツは時間を稼ぐように、ゆっくりと顔を上げたけれど、すぐに言葉は出なかった。サマルの顔をぼうっと見て、おもむろに手紙を差し出した。
「……お前宛でもある」
「へ?」
戸惑いながらも、サマルはその手紙を受け取った。そうして、その上に視線を落とす。
サマルの反応は、ザルツとは比べようもないほどに極端だった。顔に張り付くくらい、手紙を食い入るように見る。その手は大きく震え、手紙はしわだらけになった。そして、くぐもった、サマルのものとは思えないような声がもれる。
「なん……だよ、これ……」
「サマル?」
ルテアがためらいがちに声をかける。それに答えず、サマルは手紙を勢いよくふたつに裂いた。行き場のない感情がその紙切れに向けられる。ぐしゃぐしゃに丸められた紙切れは、そのまま床に叩き付けられて転がった。
「落ち着け」
冷静なようでいて、それを口にしたザルツ自身も動揺している。傍目にはそれがわかるのに、同じく平静を失っているサマルにはわからなかった。だから、噛み付くように吠えた。
「落ち着けだと? 落ち着けるわけないだろ! こんな……っ」
状況を飲み込めていないルテアだったけれど、この空気の中であの手紙を拾い、繋ぎ合わせることはためらわれた。ちらりとザルツを見やると、彼は細く長いため息をついて言った。
「プレナが拉致された」
「!」
ルテアは必死で言葉を探した。二人を宥められるようなことは言えないけれど、何かを言わなければと思った。
「レヴィシアならともかく、プレナをさらうなんて、一体誰が……」
そこで、ハッと気が付いた。
この二人の弱点を知り、それを利用しようとする人物など、限られている。
「――リッジか」
彼の手口、容赦のない冷徹さ。それを知るから、頭が思考を拒否したくなる。
その時、サマルが突然、壁にこぶしを叩き付けた。
「俺のせいだ!」
その背中に、ザルツが言う。
「隣に聞こえる。騒ぐな。……それから、お前のせいじゃない。エイルルーに残したのは、俺の指示だ」
サマルはいつもの陽気さの失せた顔でゆらりと振り向いた。赤くなった手で、今度はザルツの胸倉をつかむ。その剣幕に、ルテアは本気で戸惑った。
「お前は、こんな時でも平然としてるんだな! けどな、俺はあいつがいなかったら、何をやるにも意味がないんだ! 活動も、どうだっていい! あいつが助かるなら辞めてやる!」
強く揺さぶられ、ザルツの眼鏡がずれた。抵抗しなかった彼に、サマルは更に叫び続ける。
「あの時、お前にプレナを託さなきゃならなかった俺の気持ちが、お前にわかるかっ?」
サマルは、プレナが絡むと感傷的になる。たった一人の肉親だ。大事なのは当たり前だとしても、そこでザルツを責めるのは筋違いだと、ルテアは思う。
ただ、されるがままだったザルツが、その一言でサマルをにらみ返した。サマルの剣幕が、ザルツに飛び火する。
今度はザルツがサマルの胸倉をつかみ返した。お互いがお互いを締め付けるような形になる。
「じゃあ言うが、託された俺の気持ちが、お前にわかるのか?」
押し殺した低い声が、わめくだけのサマルの声よりもずっと背筋が寒くなる。傍観していたルテアでさえそれを感じたのだから、面と向かって言われたサマルは一気に血の気が下りたようだった。腕の力を抜き、うな垂れる。
「悪い……。これじゃあ、八つ当たりだな」
ザルツも無言でサマルから手を放した。ルテアは慎重に声をかける。
「……それで、リッジの要求は?」
訊くまでもないことかも知れない。けれど、外れていてほしいと思った。
「俺たちの命と交換、だろうな」
ザルツははっきりと口にする。
「指定は明日の正午、リレスティ南の森の廃屋だ」
エイルルーにいるレヴィシアたちに知らせようにも、今からでは間に合わない。プレナがいなくなったことで事態を読み取り、こちらにやって来てくれることを願うしかなかった。




