〈28〉囁く声
体が震え、プレナは身を守るようにして肩をすぼめたけれど、その手が離れることはなかった。逆に力が加わり、横道へ誘導されて行く。それに逆らう勇気がなかった。
そんな彼女を、彼は嘲笑う。
「レヴィシアに一人歩きは危険だって注意しながら、自分の心配はしていなかったんだろうね。少し、迂闊なんじゃないの? 内情を知る僕にとって、あなたほど利用価値のある人間はいないのに」
「利用……」
渇いたのどでつぶやく。すると、耳元でクスクスと笑い声がした。
「この状況で、ただで帰れると思う?」
プレナはようやく、その声のする方に顔を向けた。本当はその場に崩れ落ちてしまいそうなくらいに足が震えていたけれど、懸命に自分を保つ。
一見穏やかなその顔は相変わらずだった。闇のように吸い込まれそうな瞳もそのままだ。
ただ、違いがあるとしたら、それは服装だ。彼は以前のような黒衣ではなく、モスグリーンのコートを羽織っていた。そのことに、妙な違和感を感じる。
彼――リッジ=ノートンに、プレナは問う。
「あなたはまだ、ザルツの命を狙っているの?」
傍目には、二人は仲良く肩を組んで歩いているようにしか見えないだろう。すれ違う人々も、特別な視線は向けなかった。少しくらい青ざめた顔をしていても、気付かれない。
「……私を利用して、ザルツを誘き出すつもりなの?」
声が震え、体が強張る。けれど、リッジはうなずかなかった。
「出来ればそうしたいけど、ザルツさんは動くかな?」
「え?」
「あの人は、罠だとわかっている誘いに乗るかな? あなたのために、自らの命をさらすかな? 彼にとっての最優先は改革のように思えたけど」
リッジの言葉は相変わらずだ。聞きたくないことばかり、心の奥の部分に響く。
「じゃあ、どうして……」
リッジはプレナを見て、満足そうに笑った。
「ザルツさんだけじゃない。もう一人、あなたをエサに誘き出せる人間がいるからね」
「あ……」
「サマルさん、後方支援だけど結構厄介なんだよね。ザルツさんのやり方は、サマルさんに頼っている部分が大きいし、彼がいなくなれば計画の遅滞は間違いない。消えてもらった方がいいかなって」
「兄さんを……」
ギリ、と心臓が痛んだ。緊張と負の感情に、体が悲鳴を上げる。
段々と気分が悪くなって来た。寒気と眩暈がする。朦朧とする意識の片隅で、リッジの声は柔らかく響いた。
「あのさ、ザルツさんは罠だとわかっている誘いには乗らないって、僕は思うけど、実際はどうなんだろうね? こればっかりは、本人にしかわからないから――」
返事をする気力もなくなって来た。けれど、リッジは言う。
「試してみたくない?」
いけないと思いながらも、考えがまとまらない。リッジのささやきが頭の中を支配する。
「もしかすると、僕が考えるよりもずっと、彼にとってあなたは大切な人かも知れない。あの落ち着き払った顔が崩れるところを見たくない? あなただって、本当は確かめたいんじゃないの?」
プレナは蒼白な顔でかろうじてリッジをにらみ返した。その程度で怯む相手ではないけれど、せめてもの抵抗だった。
リッジは嘆息すると、もう一度穏やかに笑った。
それを最後に、プレナの視界でリッジの姿が歪んだ。歪んで溶けて、混ざり合い、闇色に染まった。
後のことはわからない――。
※※※ ※※※ ※※※
そこは薄暗く、明かりさえも乏しい。
気が付いた時、寝かされていたのは、わらの上だった。プレナは慌てて飛び起きる。
頭が痛くて、気分が悪かった。ぼんやりとする意識の中で、必死に状況を考える。
ここは納屋のような小さな小屋のようだ。ほこりっぽい。武器になるような農具などは一切なく、あるのは桶とわらだけだった。床はむき出しの土で、少し肌寒い。
立ち上がって扉を開こうとしたけれど、やはり開かなかった。
その物音でプレナの意識が戻ったと知れたのだろう。カンテラを手にしたリッジが鍵を外し、扉を開けた。
「お目覚めみたいだね。でも、今晩はここにいてよ。食料と毛布は用意しておいたから」
一方的に言うと、毛布と麻袋を中に放り込む。けれど、プレナがほしいのはそんなものではなかった。
「待って! 明かりを置いて行って!」
帰してほしいと泣いて頼んだところで、リッジには通用しない。それに比べたら、明かりくらい難しい要求ではなかったはずだ。リッジは満足そうに笑った。
「明かりがないと、考えも悲観的になるよね。でも、僕もこれしか持ってないから、ごめんね。がんばって」
絶対にわざとだ。楽しそうに笑っている。かと思えば、ぴたりと笑うのを止めた。
「信じていれば平気だよね?」
この時、初めてわかった。試されているのは自分の方なのだと。
「……そうね。あなたに慈悲なんて期待しても仕方がないんだわ」
精一杯のプレナの強がりが、リッジの何かに触れたのかも知れない。リッジは再びゆっくりと笑顔を作ると、言った。
「じゃあ、君のそのがんばりに、僕も報いてあげなくちゃね」
「え?」
「君が選んだ方を助けてあげるよ」
「どういう……こと?」
「最愛の人か、血を分けた兄か、君が選んだ方を助けてあげる。選ばなかった方を、僕が殺す。君は誰と幸せに生きて行くのかな?」
あまりのことに、プレナは言葉が出なかった。口もとを押さえ、がたがたと震えてしまう。
その姿を冷めた瞳で見やると、リッジは扉に手をかけた。
「あ、自決なんてしたら、二人とも助けないからね。一晩、悩んで決めるといいよ。じゃあね」
バタン、と扉が閉まる。錠の音が遅れて響く。
外では話し声がした。リッジが見張りを雇ったのだろう。話が通じる相手ではないことだけは確かだ。
プレナは目を閉じた。止め処なく涙があふれる。
レヴィシアは独りの夜、何を思ってそれに耐えたのだろう。まっすぐな彼女なら、助けが来ると疑うこともなく過ごしていたのだろうか。
けれど今、この夜の先に大切な人の死があるかも知れない。彼らが死ぬようなことがあれば、リッジの思惑通りに組織は立ち行かなくなる。
ただ、それ以上に、リッジは自分たちが苦しむ姿が見たいのではないかと思えた。ただ殺すだけでは済ませられない、と。
それほどまでに、彼自身も傷付いたのだろう。だからといって、許せることではないけれど。
そして――どちらかを選べという。
選べるはずもないのに。いっそ、自分が死にたい。
なのに、それを許してくれる優しさが、リッジにはなかった。
二人を助けようと思うのなら、生きて逃げ出すより他に道はない。
ただ、それができる自分であれば、こんなにも苦しくはない。
無力を嘆いている時間はない。
プレナはドアを叩いた。
「誰か! お願い、開けて下さい!」
窓がないせいで姿は見えないけれど、向こう側に気配はある。プレナは必死で呼びかけた。無駄だとわかっているくせに、他にできることが思い付かなかった。
「助けて下さい! お願いします……っ」
やはり、リッジを恐れるのか、見張りは何の反応も見せずに、プレナの声は虚しく闇夜に消えて行った。




