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Full of the moon  作者: 五十鈴 りく
Chapter Ⅱ

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〈27〉フェンゼースの遺児


 エディアと別れたプレナは、複雑な心境のまま、路地をとぼとぼと歩く。喧騒の中、行き交う人々に目もくれず、プレナはゼゼフの勤め先『スパイラルテール』を目指した。

 考え事をしていたせいか、到着は思いのほか早く感じられた。



 そこは、小さな店だった。外観だけならば、そう古くもない。二階はあるけれど、居住スペースのようだった。店は一階だけだろう。赤レンガのような色のテントが軒にあり、その下には青々とした観葉植物が吊るされていた。表には『準備中』の文字がかけられている。

 プレナはその扉をそっと開いた。


「まだ準備中なんですよ、すみませんねぇ」


 人気ひとけがない空間にテーブルが並び、その奥のカウンターから、よく肥ったマスターが愛想笑いを浮かべてお辞儀した。あの隣にいたら、ゼゼフでもスレンダーに見えるだろう。

 プレナも愛想笑いを返した。


「あの、私はここにお勤めのゼゼフさんを尋ねて来たのですが、いらっしゃいますか?」


 目の前の美人と、うだつが上がらないゼゼフとの共通点が見当たらず、マスターは目をしばたたかせた。けれど、すぐに奥へと声を飛ばす。


「おい、ゼゼフ! お前にお客さんだ!」


 奥でガシャーン、と何かをひっくり返したような音が響いた。それから、どこかにぶつかったような鈍い音も数回して、よろよろと疲れた顔をしたゼゼフが出て来た。


「仕事が溜まってる。手短にな」


 マスターの一言に、ゼゼフは首をすぼめて、はい、と小さく答えた。それから、プレナの方に駆け寄ると、何度も頭を下げた。


「お、お久し振りです」

「大丈夫ですか? 何か、お疲れのようですけど」


 すると、ゼゼフはマスターの目を気にしてか、とりあえず外に出た。人のいない店の裏に回る。ちらほらとゴミ箱からもれた生ゴミが落ちていて、臭いも少し気になる。けれど、ゼゼフはそこまで気を回せるタイプではない。

 誰もいないのに、まだびくびくしていた。


「少し、お願いがあるのですが……」


 プレナがそう切り出すと、ゼゼフは更にびくりとした。


「え、えっと、お願い、ですか?」

「ええ。仲間たちが一時的に滞在する仮住まいを探すのを手伝ってほしいんです。あなたと、シュティマさんに」


 それを聞くと、ゼゼフはもじもじと手をいじり、肩を丸めてうつむいた。


「あ、あの、それがですね、シュティマは風邪をこじらせて寝込んでしまったんです。それで、僕も店を抜けられそうにないし……ご、ごめんなさい」


 何度も何度も頭を下げるゼゼフに、プレナは優しく声をかけた。


「そういう事情なら、仕方がないですよ。気になさらないで下さい」


 それを聞いてほっとしたのか、ゼゼフの顔に赤みが戻った。そして、あ、と声をもらす。


「そういえば、シュティマがこんなことを気にしていたんですけど、いいですか?」

「はい?」

「あなたたちの活動資金源って、どうなってるんですか?」


 いきなり、お金の話だ。言ってしまってから、ゼゼフは焦り出した。気を悪くしただろうかと心配になったのかも知れない。


「あ、あの、シュティマは小さい時に強盗に家族を殺されてしまって、だから、民間人から略奪とかは許せないって……。それだけは譲れないから、はっきりさせてほしいって……。す、すみません」


 プレナはそっとかぶりを振る。


「そうですね。活動は金銭援助がなければ難しいでしょう。疑問を持たれたのは当然です。ただ、民間人からの略奪なんて、今までもこれからも絶対にないと、それだけは申し上げておきます」


 それから、ひとつ息をついた。


「活動資金の大部分は、一個人の私財なんです」


 そう告げた時のプレナの表情は硬かった。それでも、ゼゼフはシュティマのために知らなければならなかった。


「……パトロンがいるんですか?」

「『彼』自身がメンバーの一員なんです」


 そうして言葉を切ると、プレナは複雑な色を瞳に浮かべ、つぶやいた。


「ゼゼフさんは『フェンゼース』をご存知ですか?」


 考えるまでもなく、ゼゼフはすぐに思い当たった。


「もちろん、知っています。えっと、ペンとかインクとか、僕も持っています。使いやすくて好きでしたけど、確か随分前に……」

「はい。フェンゼースは日用雑貨を幅広く手がける企業でした。経営状態は良好でしたけれど、八年前、ある事情で店をたたみました。企業としてのフェンゼースの存続を願う大人たちをよそに、フェンゼース家唯一の人間となった、当時十二歳の長男が閉鎖を決め、決行したんです。従業員たちに手当てを渡し、残った財産はすべて『彼』が引き継ぎました」


 ゼゼフはプレナの語る内容に唖然としてしまった。

 フェンゼースの遺児。その資産はいくらなのか、見当も付かない。庶民であるゼゼフとは、年の頃は同じでも、住む世界の違う人間だ。

 本来なら、口を利くことすらなかっただろう。あの中の誰がフェンゼースなのだろうか。

 更に尋ねようとしたゼゼフは、先にプレナに口を開かれてしまった。


「そういうわけです。安心して下さいとシュティマさんに伝えて下さいね」



 プレナは念のためにエディアの家の位置と、ザルツがリレスティに滞在していることを告げると、物言いたげなゼゼフの視線を振り切るようにして背を向けた。

 フェンゼース家の事情を正確に知る人間は、組織の中でもほんの一握りだ。

 当人が話すのではない以上、プレナの口からはこれ以上言えなかった。

 足早にその場を去ると、ため息がこぼれた。こんなところで昔話をすることになるとは思ってもみなかった。


 ――ザルツ=フェンゼース。それが彼の名前だった。


 歩きながら、ぽつりぽつりと思い出される。雨が地面に作る染みのように、それがプレナの中に広がって行った。

 本来なら、いくら歳の近い子供同士でも、一緒に遊ぶなんて有り得なかった。いつも上等の服を着て、難しい本から顔を上げなかった。

 けれど、そばには大人も子供も誰もいなかった。その視線は他のものに興味など示そうとしなかった。

 広い屋敷の中で、顧みられることのなかった一人の子供。

 他人の家の庭に侵入するような、非常識な兄と幼なじみの女の子がいなければ、出会うことすらなかっただろう。それが、今では同じ場所に立ち、共に動いている。

 未来なんて、予測の付かないことばかりだと、プレナは思った。



 そういえば、ゼゼフとシュティマに頼むつもりだった潜伏先のことはどうするべきだろうか。

 一度立ち止まる。けれど、また歩き始めた。

 頼める人はもういないのだから、自分で何とかするしかない。事後報告をして、兄のお小言と泣き言を聞けば済む。


 そうして、プレナはまっすぐにレヴィシアたちのもとへ戻らず、宿の下見と空き家の資料をもらえる斡旋所を探しに足を伸ばした。

 通りは人も多く、何かあれば叫んで助けを呼べる。心配されるようなことはない。

 少なくとも、プレナはそう思っていた。

 けれど、自分の背後にぴたりと張り付くように歩く人の存在に気付いた時にはすでに遅かった。振り向くよりも先に、彼はプレナの肩を抱くようにして寄り添った。その手を払い除けようとして、その指の間に薄い刃が挟まれていることに気付いた。


「っ!」


 さっと血の気が引いて行く。顔を見るのが怖かった。けれど、声を拒絶することはできない。


「そのまま歩いて」


 間違えるはずがない。

 穏やかな口調、感情の読み取れない響き、軽やかな笑い声。

 息がかかるほどの距離でささやく声は、プレナを凍り付かせた。


「どうしたの? 久し振りの再会は、こんな形ではお気に召さなかった?」

 

 ザルツが名乗る姓『ナーサス』は、母方のものです。

 『フェンゼース』が本名ですが、有名なので普段は伏せています。

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