〈5〉ケイゼル橋の攻防
その日、エディアは急いでいた。
家に病身の母親を待たせている。
それでも、薬に食べ物と、買出しに行かなければならない。少しでも節約するため、安く買える店に足を運び、今はその帰りだった。
このご時勢に女性の一人歩きは危険極まりない。現に母親も止めてほしいと懇願した。けれど、仕方がないし、気を付けてはいるつもりだ。
そんなわけで、いくら隣人に看て貰っているとはいえ、母は不安がっている。
だから、エディアは急いで帰ることばかりを考えていた。
疲れていないといえば嘘になるが、それでもまだがんばれる。
今日買い求めた卵や野菜で滋養を付けてもらいたい一心だった。
けれどこの時、大事な荷物を抱えていることも、帰路を急いでいることも忘れてしまうような惨事に遭遇してしまう。
それこそが、彼女の運命だった。
まず気付いたのは、馬の嘶きとひどい喧騒だった。
クォート川にかかるケイゼル橋の上で、争いごとが起こっている。内戦の続くこの国では、すでに珍しいことではない。話には聞いていたけれど、ここまではっきりと遭遇したのは初めてだった。
一台の馬車が橋の中央に止まり、その周囲に応戦する人々がいる。
その地点目がけて、離れたところから雨のような矢が降り注いでいた。
通りかかった瞬間に、伏兵に襲われたのだろう。
橋の上に倒れている人の姿に、エディアは血の気が失せて行くのを感じた。とっさに顔を背けそうになったけれど、倒れている男が身じろぎした瞬間を見てしまった。
「あの方、まだ助かる……」
病身の母を持つ身だからこそ、命の尊さは身に染みている。だから、軽んじることはできなかった。
放っておけば、一生後悔する。
事態の把握もできないまま、エディアは大事な荷物も放り出して衝動的に駆け出していた。
けれど、近付けば近付くほどに、慎ましやかに暮らしていただけの彼女には耐えがたい光景だった。
馬車を守るようにして、深緑色の制服を着た兵士たちが次々に倒れて行く。矢が刺さり、血に染まった箇所が黒い染みを作っていた。
矢の雨は、岩壁の上の茂みの方から放たれている。途切れることがないのは、射手も複数だということだろう。襲撃者たちの姿は時折見えるものの、目もと以外を布で覆っていた。体格から、かろうじて男性だとわかる程度だ。
馬車の御者はすでに事切れている。馬も射られたようで、暴れる馬をなだめることができず、かといって暴れ馬として野放しにもできず、兵士の一人が馬のけんを切り、馬はその場にずどんという音を立てて倒れた。その悲哀に満ちた鳴き声を聞きながらも、兵士たちはその場から逃れようとせず、防戦するばかりである。
何故、と思った。
何故逃げないのか。
次第に、立っていられる人数も減っていた。
エディアはようやく、兵士たちが逃げない理由に気付いた。
彼らは、何かを必死で守ろうとしている。そのせいで、ろくに戦えもせず、逃げることもできないでいるのだ。
守っているのは馬車ではない。馬車さえ盾にしている。
何よりも最優先で守るべきもの、民間人が馬車の陰にいた。
この馬車が襲撃された現場に居合わせてしまった不運な人々。
エディアは、自分にできることがあるのかもわからないまま、ヒュンヒュンと空を切る音を聞きながら矢の雨の中に飛び込んでいた。
「危ない! こっちに来るな!!」
兵士の一人が飛び込んで来るエディアに気付き、矢の刺さった肩を押さえながら叫ぶ。その矢は狩猟用の大きく太い代物だった。
最もエディアの近くにいた兵士が、エディアを突き飛ばすような形で後方に下げる。
よろめいてこけた。顔を上げると、馬車の陰にいた三人の民間人の姿が目に入った。
一人は細面の眼鏡の青年。もう一人は、すらりとした髪の短い女性。そして、彼女に抱きすくめられる形で守られている華奢な少女。一見頼りなげな青年も、二人を守ろうとその肩を支えている。
三人は兄妹なのか、強い絆を感じた。見えない繋がりがある。
エディアと眼鏡の青年と目が合った。青年は強張った顔のまま、とっさにエディアに向かって手を伸ばす。
「こっちに来い!」
うまく立てず、エディアは半ば這うようにして馬車の陰に逃げ込んだ。震えが止まらない。
ガッガッと矢の突き刺さる音が馬車の裏に響き、エディアはびくりと耳を塞いだ。
できることなんて、何もない。何を考えて飛び込んだのだろう。
呆然と、ただ体が冷えて行くだけだった。
「けがはないか?」
近くで声がしたかと思うと、青年はひざを折ってエディアを覗き込んだ。
「は、はい。あの、一体何があったのですか? 何故、こんな……」
言葉が途切れる。のどに嫌な渇きを感じた。
気を抜くと、取り乱しそうだった。漂う鉄臭さに吐き気がする。
自分で飛び込んだくせに、と情けない自分をなじった。
エディアが立ち上がると、青年も一緒に立ち上がる。青年の眼鏡の奥の瞳を見上げると、ひどく悲しい色をしていた。この人も、苦しんでいる。その瞳が、余韻となって胸を締め付けた。
「……俺たちのそばを離れるな。そうしたら大丈夫だから」
青年は、見るからに頼もしいというタイプではない。どちらかといえば細身で、勉強ばかりしていそうな感じがする。
けれど、真剣に彼女たちを守ろうとしているのはわかった。不安を与えないように、精一杯自分を奮い立たせているのだろう。一見冷たい印象を受けるけれど、本当は優しい人なのだと思った。
だから、素直にうなずく。
「はい……。けれど、こんなに人が命を落としているのに、私は何もできないなんて……」
すり抜けて行く命に対し、無力だと感じる。それは、今日に限ったことではないのかも知れない。
母の命も、日々失われつつある。
毎日、吐き出せないでいた思いが、今、あふれ出す。
母の前では泣けない。泣かないつもりが、声が震えた。口もとを押さえて嗚咽を噛み殺すと、その手を涙が伝った。うつむくと、自分の長く伸びた髪が顔を隠してくれた。
けれどその途端、横から手が伸び、エディアの体を抱き締める。
それは、小さくなって震えていた少女だった。彼女もまた泣いていた。その震えは、エディアの比ではなかった。
「ごめん……ごめんなさい。泣かないで。ごめんなさい……っ」
何を謝り続けるのか、エディアにはわからなかった。けれど、彼女が泣くと、エディアも悲しかった。その背中をそっと撫でる。
「私は大丈夫だから、あなたこそ泣かないで。ね?」
けれど、少女はかぶりを振るだけだった。こんな状況なのだから仕方がないけれど、錯乱状態のようだ。どうしたら彼女の不安を和らげてあげられるだろうかと考えた。
そんな間に、青年が少女の肩に手を置き、そっとエディアから引き離した。その耳もとで何かをささやく。すると、少女は身じろぎし、それ以上泣くのを止めた。しゃくりあげながら青年の顔を見上げ、小さくうなずく。
エディアはふと、あれほど響いていた喧騒が次第に小さくなって来たことに気付いた。それだけ人の数が減ったのだと思うと、足がすくむ。
なのに、青年は何を思ったのか、突然馬車の陰から表に出た。矢の威力は、地面に伏している兵士が立証しているのに、青年は恐れなかった。
「危ないわ! 戻って!」
追いかけようとしたエディアの腕を、髪の短い女性がつかんで止めた。
青年が出て来たことで、残った兵士は気を取られ、余所見をしたその瞬間に矢をこめかみに受けて倒れた。ひとり、ふたり、折り重なり、最後に立っているのは青年だけになった。
エディアは悲鳴を上げることすらできなかった。声もなくへたり込む。
少女は、もう泣いてはいなかった。歯を食いしばり、横たわる兵士の姿を見据えている。
その様子は、この光景を心に刻み付けているかのようだった。
そこに寄り添っている女性は、蒼白な顔をして、翡翠色の瞳から一粒だけ涙をこぼした。
矢の雨は止んでいた。
それが意味することを、エディアにも理解できた。
兵士は殲滅され、襲撃者が今から戦利品を回収に来る。この場にいては危険だ。
わかってはいるけれど、動けなかった。誰も動かない。
そうしていると、くぐもった声がエディアの耳に届いた。
「なかなか予定通りとは行かないな」
エディアが勢いよく顔を上げると、布で顔を覆い、大きな弓を担いでいる集団がそろってエディアに目を向けていた。呼吸すら苦しく、ヒュウヒュウとおかしな音がのどから漏れる。
死にたくない。
母を残して、先に死ねない。
生きたいと、強く思った。
その時、覆面の襲撃者の中心にいた人物に、突然少女がしがみ付いた。その人物は、無言で少女の頭にそっと手を置く。
あまりのことに、エディアは状況が飲み込めなかった。そんな彼女の耳に、冷徹なまでに感情のこもっていない声が響く。
「最初に言っただろう? つらくて危険だって。それでも、もう後戻りはできない」
青年は眼鏡を押し上げ、表情の読めない顔を少女に向けた。少女は振り返ると、覆面の人物から体を離した。
青年はそのまま、襲撃者の集団に向けて指示を出す。
「運んでくれ。無理なく持てる程度でいい。射た矢も、使えるものは回収して、後は打ち合わせ通りに」
その言葉が意味するもの。この惨状の首謀者は、何食わぬ顔をしてそこにいた。
襲撃者たちはエディアを気にしながらも、青年の指示通りに動き出す。馬車に群がり、中から金属のぶつかる音が響く。それを背景に、エディアは呆然とつぶやいた。
「あ、あなた方も襲撃者の仲間だというの? あなた方を命がけで守ってくれたのも計算通りで、それを利用したの? 足を引っ張って隙を突くために、人の優しさを踏みにじるなんて……」
何も知らない兵士たちは、襲撃者の仲間とは知らずに、三人を命がけで守った。それを思うと、たまらずに悔しくて悲しくて、エディアの止まったはずの涙が再びあふれる。
「……それでも、こちらに被害を出さずに結果が出せるなら、非道だろうと選ぶしかない。奪った命は、俺たちが背負って行く」
青年の声は抑揚がなく、心の中は知れなかった。
「でも、あなたは本当に巻き込まれただけだから、申し訳なかったと思ってるわ。……ごめんなさい」
女性がエディアに頭を下げる。それがかえって、エディアには腹立たしくて仕方がなかった。
「謝らないで! 少しも悔いていないくせに! 悪いと思っているなら、こんなことできるはずがないでしょう! あなたたちは、こんな惨状が平気なのよ!!」
思わず甲高く叫んだ。
女性は形のよい唇を噛む。顔は色をなくしたけれど、彼女はかろうじて目をそらさなかった。
「必要だったからって、平気なわけじゃないわ。平気な人なんて、一人もいない」
その言葉の真偽はわからない。
「必要? 何が必要だって言うのよ!」
「俺たちは、レジスタンスだ。これから、国を解放する戦いを始める。これはその足がかりだ」
解放。
ふざけるなと思った。
この国を血まみれの国にするつもりなのか。
「レジスタンス? こんなことを繰り返して、何が解放よ。人殺し!」
エディアの叫びを、青年は顔色ひとつ変えずに受け止めた。そして、薄い唇から言葉をもらす。
「……俺たちの気が変わらないうちに、君はさっさと帰った方がいい。じゃないと、口を封じるべきだという声が上がる」
これだけの屍を築いた人たちだ。もう一人くらい増えたところで、ためらいなんてないはずだ。
母のために帰らなくては。
エディアは最後に強く青年をにらみ付けると、きびすを返す。
最後に、赤くなった目をした少女の姿が目の端に映る。
彼女は本当に悲しんでいる。それは事実だ。
泣きながら何度も謝った彼女。
彼女をこんなことに巻き込んだ人が悪いのだ。そんなエディアの心中を知ってか知らずか、その背中に青年の声がかかる。
「計画を立てたのは俺だ。恨みたいなら恨めばいい」
空回る足に鞭打って、エディアはその場を駆け去った。
※※※ ※※※ ※※※
「……これでよかったの?」
レヴィシアは訊かずにはおれなかった。
ザルツは顔の半分を覆うようにして眼鏡を押し上げる。
「ああ。もう構うな。ここからが肝心なんだ。迅速に動け」
ユイは覆面を外すと、うなずいた。そして、レヴィシアに問う。
「まだ、がんばれるか?」
「うん。つらいのはみんな同じだよね。あたしだけじゃないから」
なんとかうなずいたレヴィシアに、ユイは僅かに目を細めた。
つらいのはみんな同じ。なら、一人で泣くのはずるい。
みんなの先頭に立つと決めたのなら、尚更に。
レヴィシアは深く息を吸うと、決意を新たにした。