〈19〉海は優しくない
シェインはその瞬間、とっさにルテアの肩をつかんだ。そうしなければ、ルテアは飛び込んだに違いないと。
ルテアは蒼白な面持ちでそれを振り払おうとする。けれど、シェインは腕の力を少しも緩めてやらなかった。本心では行かせてやりたいけれど。損な役回りだ。
「飛び込む馬鹿は一人でいい」
ガシャン、と硬質な音が甲板の上に落ちる。一本の剣が、それを固定していたベルトごと放り出された。
それを身に付けていた青年の姿はない。遅れて大きな水音が上がった。
抵抗を続けるルテアに、シェインは厳しい口調で言った。
「俺たちは向こうの船に戻るんだ。船を移動して、早く二人を拾わないと!」
そこで聞き分けのないことを言うほど、ルテアは子供ではない。そう信じ、シェインは手を放す。そして、レヴィシアが落ちた方とは反対側に走った。
そして、ティーベットが舵を取る船へ、はしごを使わずに飛び移る。こちらの船の方が低いのでできたことだが、できれば二度としたくない行為だった。
シェインが飛び乗った衝撃で、船内ではザルツとプレナが転げていた。二人が立ち直りかけたところに、もう一度衝撃がやって来る。
プレナはザルツを押し潰したまま、船室の扉を開けたシェインとルテアに問いかけた。
「二人とも、レヴィシアはっ?」
本当に、嫌な役回りだ。シェインは目の前の美人が卒倒する心配をしながら、そっと告げる。
「海に、落ちた」
案の定、全身の力が抜けて体を大きく揺らしたプレナを、ザルツが受け止める。奥で操舵輪を握るティーベットに向かい、ルテアは痛切に叫んだ。
「ティーベット! 急いであの船の反対側へ回ってくれ!」
「あ、ああ」
動揺しながらも、ティーベットは素早く舵を取る。その急激な揺れに耐えながら、ルテアは歯を食いしばった。無力な自分を苛むように。
※※※ ※※※ ※※※
――痛い。冷たい。
目も鼻も口も耳も、どんなに拒絶したくとも、海は容赦なく押し入って来る。体内の僅かな空気も搾り取るように侵食する。
あまりの苦しさにガボ、と大きくむせると、吐き出したものは光の球となってレヴィシアから遠ざかった。
死への恐怖と突き刺さる冷たさ。強張った体は石のように海の底へと沈んで行く。
海って優しくないと思った。
志も目標も、戦う意味もすべて抜け落ち、水に溶けてしまう。
ただ、苦しい。死にたくない。それだけを思った。
細かな泡の輝きは、無情にもレヴィシアを置き去りにして浮上する。何もかもがレヴィシアを見捨てて離れて行く。
そんな中、異質な流れが起こった。その力が背中に加わると、体が大きく旋回する。
海の中であまりにも微小な自分を、すっぽりと包んでくれる何かをおぼろげに感じた。意識も曖昧なくせに、何故かそれをユイだと思った。
それは、死の間際に自分が描いた幻で、今も浮上する夢を見ているのだろうか。
パチ、パチ。
――うっとうしい。
パン。
――痛い。
どうして殴られるのかもわからず、レヴィシアは腹を立てて目を覚ました。
理由を尋ねようとして、とっさに声が出なかった。レヴィシアに覆いかぶさるようにして、プレナが視界を埋め尽くしている。その顔にいつもの笑みはなく、涙を流しながら顔をぐしゃぐしゃに歪めている。
「気が……付いた?」
かすれた声。プレナの後ろには、みんなの顔があった。
「う……」
返事をしようとして、体中の臓器が飛び出すのではないかと思うほどにむせた。体をよじってそれに耐えたけれど、苦しくて涙が止まらなかった。そうこうしているうちに、段々と記憶が蘇って来る。
「あ、あたし――」
海に落ちたのだ。それを助けられた。ここはみんなが乗って来た船の上のようだ。
理解すると、起き上がろうとした。プレナは服がぬれるのも厭わずにレヴィシアを抱きとめる。この細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、プレナは力を込め、今まで聞いたこともないような甲高い声を上げて号泣した。
仲間をこんなにも心配させた、自分の浅はかさを申し訳なく思う。
そうして、何気なく上を見上げると、そこには怒りと安堵とを綯い交ぜにした、複雑な面持ちのザルツがいた。彼はぼそりとつぶやく。
「戻ったら、絶対に殴ってやろうと思ってたんだがな」
このお小言さえも今は嬉しい。
「ごめんね。それから、ありがとう――」
この後、レヴィシアの拘束具は壊しました。




