〈18〉あと少し
ここからは白兵戦。相手はたった三人だ。
けれど、ニカルドは優位であるとは到底思えなかった。自分たちの能力をとても過信できたものではない。
レイヤーナ兵たちはおずおずと剣を抜き、少しずつにじり寄る。けれど、自分から率先して飛びかかるつもりなどないように見えた。様子を窺っている。
すると、不意に少年がゆっくりと頭を傾けた。かと思うと、次の瞬間には足にバネでも仕込んでいるのかと思うような跳躍で前方に動いた。一振りした槍の柄が、レイヤーナ兵の頭上をかすめる。
その動きに驚いたレイヤーナ兵は体勢を崩した。少年は流れるような動きで槍をひるがえし、槍の柄頭でレイヤーナ兵の鳩尾を突く。華奢な少年だが、隊服を着ただけのレイヤーナ兵よりも場数を踏んでいるようだ。動きにためらいがなかった。
動揺した兵士たちは隊列も何もなく、思いのままに逃げ惑う。ニカルドは、グレホスの提案を呑んだ自分を蔑むしかなかった。
動揺を通り越し、錯乱したレイヤーナ兵の一人が、少年に向けて剣を構え、大声で何事かをわめきながら突進する。
「止せ!」
ニカルドの声も虚しく、少年の足は地を離れ高く跳躍する。槍を甲板に付き、レイヤーナ兵の頭上を跳び越すと、その背を蹴り付ける。そして、息を詰まらせて前に倒れ込んだレイヤーナ兵の頚椎にひざを叩き込んだ。白目をむいて倒れるレイヤーナ兵に付き合うことなく、少年は軽く飛びずさって地面に降り立つ。
あどけなさの残る顔で、そんな戦い方をする。それも、表情ひとつ変えなかった。
子供だからと手加減も油断もできたものではない。
レヴィシアはルテアの戦いを見て、少なからず驚いた。
素早さを活かし、小手先の器用さで戦っていた風だったのに、今では相手の動きを読み、動いている。少しずつ、何かが変わって来ていた。
「おー、すっげ。派手だなぁ」
緊張感なく笑っているシェインに振り向きもせず、ルテアはレヴィシアを捕まえているグレホスをにらみ付ける。シェインは嘆息すると、ニカルドを見据えた。
「レヴィシア嬢ちゃんを返すなら、オレたちは無駄に暴れないけど。どうする?」
ニカルドは、この状況をどうにかできると思うほどに愚かではなかった。
少年ですらこれだけの戦いをする。後の二人がそれ以上であることも理解していた。
どうしようもない。
わかっているくせに、それを明確に聞きたがる。
失態の責任は自分が取る。それだけだ。
特別失って惜しいものもない。自分の部下と、愚かな上司を持った者たちの命が残れば儲けものだ。
「わかった。解放しよう」
小さなざわめきが起こった。赤毛の青年が軽く口笛を鳴らす。
「お早い決断で。さすがというか、なんというか」
ニカルドはそれを無視した。そうして、グレホスに視線を投げる。
「そういうことだ。放して頂きたい」
怯えたグレホスは一瞬、ニカルドに何か策があるのだと信じていたようだった。その真意を読み取ろうとして、その瞳の奥には言葉以上の意図がないことを知る。探ろうとすればするほどに、そこには海の底のような虚無が広がるばかりだった。
「そ、それでどうするとっ? それでは、私たちに残されるのは、功績ではなく失態ではないか!」
レヴィシアはその怒鳴り声に顔をしかめた。それを、ニカルドは表情もなく諭す。
「命が残る。それでよしとされるべきでは?」
グレホスが屈辱で震えている。それがレヴィシアによく伝わった。
正直、じれったい。さっさと、この不快な腕をどけてほしい。
そろりとグレホスを見上げると、土気色のゆとりのない顔で彼はつぶやく。
「違う……そうじゃない。終わり? 違う。まだだ。まだ、ここに……」
グレホスは船の縁を更に下がって行く。レヴィシアの足はほとんど甲板から離れていた。
「やだ!」
持ち上げられた体はうまく力が入らないけれど、それでも抵抗する。肘でグレホスの腹部を押すと、彼は恐ろしい形相でレヴィシアをにらんだ。彼の目は狂気じみていたけれど、ユイたちがすぐそばまで来てくれているから、少しも怖くなかった。
「往生際が悪いんじゃないか?」
ルテアが一歩前に出る。すると、グレホスは唾を撒き散らして吠えた。
「動くな! それ以上近付いたら、この娘を海に落とす!」
はったりではないと示そうとしたのか、グレホスは敵の顔を順に見た。
彼の脅しに動揺したのはルテアだけだった。ユイは無言のまま、嫌な空気を放っている。シェインは嘆息した。
「駄々こねてないで、あの人見習ってよ。悪あがきは時間の無駄だ」
「黙れ!!」
そんな光景を眺めながら、ユイは普段よりも数段低い声を吐き出した。
「もういい。斬る」
「うわ」
ニカルドはグレホスに愛想を尽かしたのか、助け舟を出すつもりもなさそうだった。ただ、傍観している。
「それくらいにしておかないと、このニイさんキレると怖いんだって。こっちの坊ちゃんも、手が付けられないし」
シェインの親切な忠告は軽口としか取られなかったのだろう。グレホスはうるさいとわめき散らした。
レヴィシアは心底イライラして来た。こんなにも震えているくせに、まだ虚勢を張る。付き合いきれない。早く放してくれればそれでいいのに。
グレホスはユイたちの危機感を煽ろうとしたのだろう。レヴィシアを抱えた状態のまま、その首に手を伸ばす。けれど、正面の敵を見据えたままだったので、隙だらけだった。レヴィシアはその手に思い切りかぶり付く。
「っ!!」
グレホスはとっさのことに悲鳴を上げ、レヴィシアの胸倉をつかんで後ろに放り投げてしまった。恐怖と怒りで平静を失っていたグレホスは、レヴィシアの体が放り出された後のことを予測できなかった。
華奢なレヴィシアは吹き飛び、船の縁で背中を強打する。
一瞬、息が詰まり、目の前が暗くなった。
「レヴィシア!」
ルテアの緊迫した叫びが、どこか遠い。
ほんの刹那の出来事だったと思う。その、意識が遠のいたほんの少しの時間の直後に、船の揺れと背中で滑るような感覚があった。レヴィシアは、今まで体験したことのない浮遊感を味わう。それは、ひどく心地の悪いものだった。
海に投げ出されたのだと、頭の端ではわかっていた。
けれど、拘束されている体には為す術がなかった。
ただ、落ちる。




