〈17〉奪還へ
逃げ場のない海の上では、誰もレヴィシアにうるさく言わなかった。海に飛び込むような仕草でも見せれば話は別だったかも知れないが、レヴィシアにそんなつもりはなかった。
馬車のような小刻みな振動ではなく、船の大きなうねりが不安で仕方がない。
地面が恋しい。こんな安定感のない場所は嫌だ。空を見上げ、飛び交うカモメになりたいと思った。
今頃、みんなはどうしているのだろう。ここから飛び立って、すぐにでも会いに行きたい。
そんなことを思うと、牢に入っていた時よりも苦しくなった。足場の揺れは、心さえも揺さぶってしまう。
泣けば嘲られるだけだ。だから、レヴィシアは必死で我慢した。けれど、彼ら兵士はレヴィシアを見ていなかった。
「――なんですかね、あの船?」
「漁船ではないようだが。 個人所有の遊覧船か?」
「あれ、確か港に停泊してあった船です。でも、誰も乗り込んでいなかったような……」
レヴィシアはそんなものに興味はなかったけれど、なんとなく顔を向けた。
白い船体の小振りな船が、この船を追いかけるようにして走行している。一見しただけでは真新しいとしかわからない。ただ、帆の形が少し尖っていて、張ってある角度も変わっているような気がした。
小振りだと船体が軽く、速度が出るのだろうか。船に疎いレヴィシアには、それ以上のことはわからない。
「速い……」
その小型船は、レヴィシアの視界から消えた。このレイヤーナ船の向こう側を併走している。そして、わき腹に衝突する寸前まで近付いたようだ。
「ぶつかる!」
誰かの声が響いた。
レヴィシアも思わず目を閉じたけれど、衝突の衝撃は想像よりも小さな揺れだった。拘束されていてバランスを取りにくいレヴィシアでも、転倒することなく踏みとどまれた。
ぶつかったというよりも、わき腹をかすった程度なのだろう。
グレホスが向こうの船体を覗き込もうと船の縁へ近付く。けれど、次の瞬間にはみっともなく絶叫して尻餅を付いた。
「なっ!」
一筋の矢がこちらに向かって放たれた。当てるつもりで射たのではないだろう。矢は大きく外れ、マストの向こうに消えた。
グレホスは、自分に向かって矢を番える相手に直面し、取り乱したのだ。
「き、奇襲だ!!」
そんな声が上がり、混乱の波が押し寄せる。訓練された兵士も、予期しなかった襲撃に慌てふためいていた。指揮官の統率能力のなさが窺える。
襲撃者は低所という不利な位置から次々と矢を放つ。その矢は弧を描き、光を受けた鏃がきらめきながら甲板に降り注いだ。威嚇射撃だ。
レヴィシアは邪魔にならないように後ろに下がった。すでに、その矢が誰のものであるか、わかっている。そこにいる。来てくれたのだと、体の奥から感情があふれて体が震えていた。
早く顔が見たい。腕の中に飛び込みたい。
応戦しようと弓を持ち出し、矢を番えたレイヤーナ兵の肩に矢が突き刺さる。レイヤーナ兵は悲鳴を上げて弓を海に落とした。
そんな光景を尻目に、レヴィシアは更に船の縁をそっと移動する。少しずつあの小型船の方へ近付いた。
「っ!」
そんなレヴィシアを、衝撃から立ち直ったグレホスが抱えるようにして捕まえた。無言で自分の方へ引き寄せる。この男は、自分の身を守る盾としてレヴィシアを捕まえたのだとすぐに感じた。グレホスの体温と震えが背に伝わって、ひどく不快だった。
「放してよ!」
暴れて抵抗を試みると、近くでトン、と軽快なひとつの音がした。
そんな小さな音が、波もカモメの鳴き声も凌駕して存在感を示した。船尾の方だ。
その音だけで、その少年の身の軽さが知れた。一見すると、少女のような優美な顔立ちをしているけれど、その表情に柔らかさはなく、戦いに身を投じる覚悟と厳しさがある。
「ル――っ!」
思わず名前を叫びそうになった。それを何とか押し留める。兵士に聞かせたくない。
細身の短槍を小脇に挟んだルテアは、軽くうなずく。
矢で注意を引いている隙にはしごを引っかけ、上って来たのだ。
「子供が一人……だと?」
気に障る発言だが、声を発したニカルドを無視し、ルテアはグレホスをにらみ付けていた。槍を振るい、構え直すと、もう一人の人物がはしごを上って来る。
「いやいや、一人じゃないから。保護者付き。もっとも、無責任な保護者だから、何しても止めないけど」
シェインはレヴィシアに笑って手を振ってみせた。余裕振ったさまが兵士の癪に障る。
「よ、久し振り。もうちょっとの辛抱だから、がんばれよ?」
レヴィシアはうんうん、とうなずく。仲間の存在に、胸があたたかいもので満ちた。
ニカルドは眉根に深くしわを刻んでシェインをにらむ。
「海路を選ぶと、最初から読んでいたのか?」
「あ、説明は面倒だから、機会があればうちの参謀殿に訊くといい」
「……あの船はなんだ?」
「あれ? う~ん、詳しく知らないけど、キャルマール王国製の船みたい。今回、金に糸目付けなかったからなぁ」
その人をくった口調に、ニカルドは舌打ちした。両脇の部下もすでに臨戦態勢である。
その時、二人の襲撃者の背後から、もうひとつの影が躍り出た。
潮風に煽られてなびく長髪を払い除け、甲板に下り立った三人目の男は、暗い目をしていた。
そばに踏み込みたくないと思わせる空気をまとっている。それほどに、彼は強く深く憤っていたのだ。
「っ……」
レヴィシアは叫ぼうとしたけれど、声にならなかった。ただ、嗚咽のようなみっともないものがこぼれただけだった。
我慢していたのに、その顔を見た途端に涙がにじむ。
そんなレヴィシアを安心させようと、ユイは戦地であるはずの船上で、その時だけは穏やかに微笑んで見せた。
「もう、大丈夫だから。すぐに行く」
やっと、そこに帰れる。
ユイが来てくれた。もう、怖い思いもつらいこともない。
レヴィシアはそう、自分を落ち着けた。
彼女たちの活動資金の謎については、今後語られます。
あの船は、売りたがらない持ち主に、金を上乗せし、更に脅すようにして買い取りました。切羽詰っていたもので(笑)
ちなみに、シェーブルよりも隣国キャルマールは造船技術が進んでいますので、高性能です。




