〈16〉予期せぬ事態
レヴィシアは馬車の中でガシャン、と車輪が停止した音と振動で驚いて目を開けた。
まだ出発してからいくらも経っていない。休憩などではないはずだ。
不安を顔に出さないように、レヴィシアは正面のニカルドを見る。すると、彼は抑揚なく言った。
「降りるぞ」
「え?」
レヴィシアは肩を押され、半ば転がるように馬車から降りた。人払いされたのか、周囲に民間人の姿はなかった。そして、出発時には大勢いた警護の兵士の姿もない。
その代わり、レヴィシアの眼前にあったものといえば――。
「ふ、ね……」
それは、二階建ての家くらいの大きさをした中型の船だった。漁船ではないらしく、上質の木材と華美な設計の帆船だ。一見して財産家の娯楽船かと思ったけれど、潮風に煽られている旗に白百合を象った紋章がある。
その模様は、レイヤーナの国旗だった。
「遅かったね。待ちくたびれてしまったよ」
ねっとりとした嫌な声がレヴィシアの耳に届く。あの、グレホスとかいうレイヤーナ兵だった。
船の前に部下を残し、グレホスはおもむろにレヴィシアたちに歩み寄る。
そこでようやく、レヴィシアはこの船によって自分が押送されるのだと気付いた。
確かに、陸路を行くよりも襲撃の危険は少ない。そう判断し、ニカルドは私情を抜きにしてレイヤーナ軍の提案を受け入れたのだろう。
それは、レヴィシアにとってまったく予期していなかった事態だった。自分の顔色が蒼白になっているだろうと自覚したけれど、どうにもできなかった。
そんなレヴィシアを、グレホスは嘲笑う。
「おや、怯えさせてしまったね。震えているよ、かわいそうに」
それでもにらみ付けるレヴィシアに向かって、グレホスは歪んだ笑みを浮かべている。そのまま手を伸ばし、彼はニカルドの部下の間からレヴィシアを引き寄せる。その手は腰をなぞり、ぴたりと這うように添えられた。全身にぞくりと嫌悪感が走り、レヴィシアは思わず身をよじる。そのままグレホスがレヴィシアを歩かせようとしたので、レヴィシアはその場で足に力を込めて抵抗した。
ささやかな抵抗を試みたレヴィシアに、グレホスは小動物をいたぶる獣のような陰湿な目を向ける。
「あまり手をかけさせないでくれるかい?」
いきなり足元をすくわれ、視界が揺れた。かと思った時には体が浮き、グレホスの肩に担がれるはめになった。グレホスはそのまま歩き出し、船へと続く板の上に足を下ろす。
「やだ! 放してよ!」
下手な抵抗が裏目に出た。脚をばたつかせるレヴィシアに、グレホスの揶揄を含んだ声がかかる。
「暴れると海に落ちるよ。縛られたままで泳げるのかな?」
実を言うと、縛られていなくても泳げない。
もっと正確に言うと、泳げないのかどうかもわからない。泳いでみたことがないのだ。
心配性の父は、レヴィシアを危険な場所へ近付けたがらなかった。浅いところで水をかけ合う程度にしか、水辺に入った記憶がない。
水面は青く、見るからに冷たそうで、底は果てしなく深い。波の音と共にレヴィシアの血の気も引いて行った。
急におとなしくなったレヴィシアに、グレホスは満足げだった。
「そうそう、いい子だ」
ついでにまた、余計なところを撫でられた。真っ赤になって涙ぐむレヴィシアだったけれど、グレホスはお構いなしに船の上に下り立った。続いてニカルドたちも乗り込む。
船内は出向に向けて動き出す。碇が上がり、港と船を繋ぐ板も外され、船はゆるゆると動き始める。
レヴィシアはもう、祈るしかなかった。
※※※ ※※※ ※※※
「っ!」
明らかに動揺して肩を震わせたルテアに、ザルツが声をかける。
「どうした? 何かあったのか?」
ルテアは望遠鏡片手に、窓枠に手をかけたまま、その縁に頭を打ち付けて平常心を取り戻そうとしていた。
「な、なんでもない」
「……行けそうか?」
「ああ。問題ない。ただ、ちょっと一部に殺意が芽生えただけ……」
窓枠をつかむ手に、妙な力がかかっている。一体、何を見たのだろうか。
「それにしても、ザルツの読み通りだったな」
ルテアが気を落ち着けるようにつぶやくと、ザルツは厳しい面持ちを崩さずに、唇を開いた。
「馬車の準備は見せ付けるようにしていたくせに、替え馬がいなかった。急いで走らせれば馬を潰してしまうはずなのに。そうすると、馬車を急がせる必要がない――だとすれば、あれは囮ということだ」
「なるほど」
そして、ザルツは嘆息する。
「失敗は許されない。今更言うことでもないが、頼む」
その傍らにいた、泣き腫らした目をしたプレナも、祈るように手を組んだ。
「お願いね……」
後方支援のザルツとプレナは、正直、付いて来たところで役に立たない。本人たちも自覚しているはずだが、待っていられなかったのだろう。総勢六名、手狭だ。何を隠そう、ここは船室である。
揺れる海の上、彼らは一晩ここで過ごした。レイヤーナ兵が船に乗り込むよりも先に潜んでいる。
ユイは神妙な面持ちで押し黙っていたかと思うと、弓を握る手に力を込めてつぶやいた。
「絶対に取り戻す。命に代えても」
すると、ユイの隣にいた青年がユイの背中をどついた。
「アホ。そんなゴタイソウなもん、代えなくていいっての。お前はいちいち重たいなっ。心配しなくても余裕で助けられるって。ほら、もっと気楽に行くぞ」
クオルの父親、シェイン=マクローバである。背中に透かし細工の施された長剣を帯び、鮮やかな赤毛に中肉中背。もともと傭兵であり、腕は確かだ。
彼はルヴェラを探しながら町中を徘徊し、そのままシェンテルまで足を伸ばしていたのだった。ザルツたちにルヴェラのことを報告してた時、血相を変えて飛び込んで来た息子たちに事情を聴いたという次第である。
「――無駄口はそれくらいにしろ。向こうは出港準備も整ってる。気、引き締めろ」
巨躯を窮屈そうに屈め、ティーベットが吐き捨てる。彼は操舵席にいた。
ティーベットはもともと大工である。木材の運搬等のため、船舶の運転技術も必要とされることがあり、最低限の操縦はできるのだった。
ユイは彼の背中に視線を向けたが、ティーベットは決して目を合わせようとはしなかった。
「そろそろか。いちにのさんでやるぞ。ティーベット、準備はいいんだろ?」
シェインが確認する。ルテアはテキパキと携帯槍を組み立て始めた。
「ああ。船なんて久し振りだけどな。一通りの説明は受けたし、なんとかしてやる」
「向こうの船は一般的な帆船だが、この船は違う。それに気付いてないなら、勝機はある」
ザルツの声に、一同がうなずく。
そうして、ユイ、ルテア、シェインの三名は顔を見合わせ、確認し合う。ルテアは息を大きく吸い、口を開いた。
「いち、にの、さん!」
そのかけ声と共に、ザルツが勢いよく船室の扉を開いた。
潮風が狭苦しかった室内に吹き寄せる。それに逆らうようにして、彼らは外へと飛び出して行った。三人はそれぞれにロープを外し、碇を上げ、帆を指示通りに調節する。
ティーベットは神妙な顔付きで操舵輪を握り締めた。
「よし、行くぞ!」




