〈40〉ふたりの道の先
さわりと空気が揺れた。
リッジの殺意が空間を染めて行く。
レヴィシアは監獄で目の当たりにしたリッジの動きを思い出し、最悪の結末が脳裏を過ぎる。
リッジの黒衣がふわりと動いた。その視線の先に、ザルツはいる。
その一瞬の光景が、何故か緩やかに感じられた。けれど、冷え切った体は指ひとつ動かせない。
かろうじて声だけがレヴィシアの思うままに発せられた。
「駄目!!」
その声と同時に、背後にいたルテアが飛び出す。そのルテアよりも先に動いていたユイの蹴りが宙を切った。
舞うように軽やかに机上に着地したリッジは、次の瞬間にはルテアの頭上を飛び越え、その背をつかんで机に押し付ける。動きかけたザルツをユイが止め、背に庇った。
「っ……」
ルテアは胸部を締め付けられてうめいた。その表情を見たサマルがとっさに駆け寄りかけると、リッジはルテアを解放してサマルの腹を深く蹴り込んだ。派手な音がして壁に叩き付けられたサマルは、ぐったりと崩れ落ちる。
「もう止めて!!」
叫ぶことしかできなかった。
そんなレヴィシアに目を向け、リッジはふわりと彼女の視界から消えた。
「え?」
すると、黒いものが首に巻き付いた。それがリッジの腕だと気付いた時には、もがいても解けないほどの力が込められていた。
げほげほとむせ返りながら起き上がったルテアが、レヴィシアを見て凍り付く。
「動くと絞めるよ。それとも、かき切った方がいいのかな?」
ほとんど耳元で声がする。
レヴィシアはようやく、自分の置かれた状況を理解できた。
「レヴィシアを放せ!」
ユイが声を荒らげる。けれど、リッジは眉ひとつ動かさなかった。
「じゃあ、ザルツさんと交換だね」
ロイズはただ、蒼白な顔で放心していた。口は何かを繰り返しつぶやいているけれど、リッジの耳には届かない。
ザルツの足が一歩前に進んだのを見た瞬間、レヴィシアは声を張り上げた。
「駄目! 来ないで!!」
その声に、ザルツは一瞬動きを止めた。そんなさまを白けた風に見つめると、リッジはレヴィシアの耳元でささやいた。
「そう。じゃあ、一番先に死にたくなかったら、一緒に来て」
否応なしに、レヴィシアは手を引かれるままに走るしかなかった。
「レヴィシア!」
部屋を出てすぐ、ルテアの声が追って聞こえた。けれど、答えるゆとりはない。
リッジは瞬時に扉を閉め、服の下から取り出した細長い金属片を鍵穴に差し込み、そのまま放置する。中からガチャガチャともがく音と扉を叩く音、こもった声がした。
そして、リッジは階段を駆け上がる。レヴィシアは恐怖心を感じるよりも、付いて行くのがやっとという状態だった。
二人は出入りを許されていないはずの二階の奥の部屋に飛び込む形となった。
上質の絨毯に、見るからに高級な、長いテーブルと数脚の椅子があるだけの部屋だった。そこには誰もおらず、リッジは内側から鍵をかけた。
部屋の奥へ向かい、リッジは大きなテーブルの端にレヴィシアを押しやった。
「そのまま絨毯の上に座って」
言われるがままに座ると、リッジは服の下から紐を取り出した。その机の脚に、背後に回したレヴィシアの手首をくくり付ける。重いテーブルは、レヴィシアが暴れたくらいでは動かない。だから、おとなしくしていた。
ただ、拘束された理由がわからなかった。
ここで殺すなら、縛る必要はない。
「殺さないの?」
おずおずと口を開くと、リッジは苦笑した。
それは、以前と変わらずに穏やかで悲しげな表情に見えた。
「君のことは、できれば殺したくない。君が一言、もうレジスタンス活動はしないって言えば、僕は命までは取らないよ」
けれど、レヴィシアはうなずかなかった。死にたくはないのに、嘘もつけない。
そんな彼女に、リッジはあきれたのかも知れない。
「そんなに意地を張ったところで、君自身にできることなんて何もないよ。君の……いや、君のお父上の名の下に人を集め、民衆の支持を得る。そのために君は利用されているだけだ」
レヴィシアは身動き取れないながらも、必死でかぶりを振った。
「そんなことない! あたしは利用なんかされてない。自分の意志で、自分のやるべきことを選んだの。だから――」
そんなレヴィシアに、リッジは嘆息する。
「本当に君は……」
スッと目を細めると、リッジは片ひざを絨毯に埋める。それから手を伸ばし、レヴィシアの細い首筋に触れた。
「っ!」
レヴィシアは声もなく体を震わせ、目には驚きのあまり涙が滲んでいた。
それをリッジは嘲笑う。
「ほらね。君はこれくらいのことで怯えて震えが止まらなくなるくらい、普通の女の子なんだ。君のお父上みたいな屈強な男でもできなかったことが、どうしてできると思うんだ?」
それでも、レヴィシアは精一杯虚勢を張った。
「そ、それとこれとは違うよ」
「違わないよ。……レヴィシア、君はね、守られることに慣れてる。どんな危険からも守られて来たから。けど、それを自分の力だと思っちゃいけない。君がここまで来れたのは、君を守る存在があったからだ。君自身は非力だと、僕はそれを知ってほしい。自覚して、無茶は止めるといい」
その言い分は正しい。それは事実だと、レヴィシア自身が認めている。けれど――。
強情なレヴィシアに、リッジはぽつりとつぶやく。
「そんな風に守られて来た君だから、こんな状態でもまだ諦めない。助けが来るって思ってる」
そうして、リッジは立ち上がった。レヴィシアから離れ、扉の前でもう一度振り返る。
「じゃあ、その防壁を排除してみよう。そうすれば、君もそう強気ではいられないだろうから」
「え……」
「ユイさんはなかなか厄介な人だけど、不意を突けばなんとかなる」
カチン、と音を立て、リッジは扉の施錠を指先で解く。そして、レヴィシアに再び顔を向けた。
「今に飛び込んで来るだろうね。その時が、あの人の最後になる」
そう言って、リッジは笑った。
笑える内容ではない。レヴィシアはぞくりと背筋が寒くなった。
けれど、リッジの声は一段と冷ややかさを増して行く。
「あの人も馬鹿だよね。どんなに必死で君を守っても、過去は変えられないのに。君を守るって義務付けてることが、自分の犯した罪に囚われている証拠じゃないか?」
リッジの言葉はいつも、直視できずにいる現実を突き付ける。耳を塞ぐこともできず、レヴィシアは顔を歪めた。
「だらだらと罰せられることに先なんてない。罰のために生きるなんて、愚かで……むしろ哀れだよ。だったら――」
と、切られた言葉の続きが、まるで刃物のようにレヴィシアに向かう。
「いっそ、死だけが彼にとって、唯一の救いかも知れないよ」
ユイが許してほしいと言ったことは一度もない。恨み言が痛いとも。
責め苦を罰と受け止めながら、その先を――自分の未来を見ていただろうか。
きっと、いなかっただろう。
それを自分に許さない人だ。
だからこそ、死では救えない。それだけは確かだ。
「違うよ。ユイを救えるのは死なんかじゃない。あたしだけだよ」
いつかはきっと、許しを与えられる。
もういいよと言えた日に、それは終わる。それが救いとなる。
「それが君の考え? けどね、これから、彼にはつらいことが続くんだよ。君のそばにいれば、いずれ父親とも戦わなくちゃいけない。それでもそう言える?」
「それでも。死が救いだと思うような人なら、とっくに死んでるよ。ユイは苦しくても償おうとしてくれる。その意志があるから、生き抜いて来たんだよ」
まっすぐな視線を自分に向けるレヴィシアに、リッジは嘆息し、哀れむように見つめ返した。
「君にとって彼は、憎いと同時に大切な人でもあるんだね。そういう気持ち、今となってはわからなくもないよ。僕にとってロイズさんも……」
ロイズの疲れ果てた顔が悲痛に歪むさまを思い出し、レヴィシアはこれ以上の心労を与えたくないと思った。
もう、休ませてあげたい。これまでの苦悩の分だけ、笑って過ごしてほしいのに。
「どうしてそんな風に言うの? ロイズさんは裏切ったんじゃない。ちゃんとこの国の未来を想ってる。なんでわかってくれないのっ?」
すると、リッジは薄く笑った。冷笑という言葉が当てはまるような笑みだった。再び、ゆっくりとレヴィシアの方に歩み寄る。
「僕はね、ロイズさんを信じて、これまでの生き様を捨てたんだ。ロイズさんから見れば、手癖の悪い子供を一人拾っただけのことだったんだろうけど、実際は――」
語られるはずだったその先をかき消し、無風だった室内に荒々しい音と風が押し寄せた。
扉が開け放たれる音に、レヴィシアは思わず身をすくめる。閉じてしまった目を開けると、そこにいたユイは、今までに見たどんな表情とも違っていた。
まとっている空気は重く、暗色の怒りが見えるようだった。
けれど、リッジはその威圧感をまるで感じていないかのように振舞っている。
「随分と怒ってるみたいだ」
「ふざけるな」
と、ユイは低く吐き捨てた。リッジは笑う。
「どうして? この方があなたには都合がいいんじゃない?」
そうして、レヴィシアに向き直る。
「君の言うことは的外れでもないね。彼を救えるのは、確かに君だけだ。そう、君の死だけ……」
レヴィシアはぎくりとして固まる。背中を冷たい汗が伝った。
ユイは剣をひと思いに抜き放つ。その背後に、ルテアがようやく追い付いた。
けれど、リッジはまだゆとりを持って笑っている。
「彼女が死ねば、あなたは解放される。本当は、父親と敵対なんてしたくないでしょう? 家族のもとに帰りたいんじゃないの?」
黒く、魔性を思わせるような立ち姿。
その口から繰り出される言葉に、心が揺らぐのではないだろうか。
ユイは静かに剣を旋回させ、構え直した。
「俺は自分の犯した罪から逃げない」
はっきりとしたその口調にも、リッジは冷ややかなものだった。
「罪を贖うつもりが、新たに罪を重ねているだけかも知れないのにね」
リッジはふわりと跳躍し、ユイとの間合いを広げる。そのまま、テーブルの上に下り立った。
その高みから、ユイを見下ろす。
「あなたがそういう生き方を望むのなら、それも勝手だけどね。僕も僕なりの生き方を選ぶから」
音もなく、リッジは窓際に下りた。
そして、リッジは少しだけ本当の顔をレヴィシアに向け、微笑んだ。
「僕は君たちの理想の実現を阻む。今の僕にはそれがすべてだ」
その悲哀の入り混じった笑みは、レヴィシアの身を真剣に案じてくれている。そう感じたのは間違いかも知れない。気のせいであった方がよかったのだろうか。
もし、そうなのだとしたら、より悲しいだけだから。
「じゃあね。もう仲間ではないけれど、君がごく普通の幸せをつかんで慎ましく生きて行けることを願っているよ。……さよなら、レヴィシア」
リッジは両開きの窓を開け放ち、そのまま倒れ込むように身を投げた。レヴィシアはとっさにその名を叫ぶ。
「リッジ!!」
黒い外套のすそさえも見えなくなると、ユイが窓に駆け寄った。
ルテアはレヴィシアに駆け寄り、手首を拘束する紐を解く。ただ、その手はひどく震え、思うようには進まない。
そうして、ようやくその紐が解けた頃、ユイは窓から身を乗り出して言った。
「……下の階か」
レヴィシアは自由が利く喜びと同時に、恐怖と悲しみに襲われた。手首をさすりながら呆然と状況を飲み込むと、ユイの抑えた声がする。
「レヴィシアを連れ去って、あいつは俺たちを本当の目的から遠ざけたんだ」
「え?」
それは、ザルツのことだろうかと、脳が麻痺するように言葉を拒絶する。
けれど、続いた言葉は意外なものだった。
「あいつの狙いは、この館の主だ。領主が死ねば、経済面での支援が激減する。そうすれば、活動も制限できると考えたんだろう」
「そんな……」
「今更気付いているようでは、手遅れなんだ」
冷静さを欠いた自分を責めるような口調だった。そして、ぽつりとつぶやく。
「手強いよ、彼は」
「うん。そうだね……」
そう言葉にした途端、レヴィシアの目から涙がこぼれた。ユイとルテアはただ困惑する。
「やっぱり、怖かった、よな」
ルテアの言葉に、レヴィシアはかぶりを振る。
「怖いより、悲しい。大事な仲間がまた一人欠けちゃったんだって。……この先、リッジと戦わなきゃいけなくなるのかな」
そんなのは嫌だ。
なのに、それを拒否することは許されない。
「それでも、戦わないと改革は実現しない。レヴィシアが止めたいのなら、俺は従うけれど」
レヴィシアは目を擦りながら、何度も何度もかぶりを振った。
「止めたりできない。わかってるよ。平気じゃないけど、続けなきゃ駄目だから」
「結論は出ても悲しい、か」
「当たり前……でしょ……」
ひく、としゃくり上げる。
そんなレヴィシアに、ユイはそっと慈しむような目を向け、優しくささやく。
「迷いがないのなら、泣けばいい。それを知る限り、俺は支え続けるから」
声が嗄れるくらいに泣いて、叫んだ。
その先に見えるものは何もなく、暗い闇夜に取り残されたような気分だった。
これから、幾度となくこんな日が続くのかも知れない。
けれど、いつか。
努力の果てに理想が実現した時、彼に理解してもらえる可能性を夢見てもいいだろうか。
都合のいい希望かも知れない。
それでも、そう願いたい。
光り輝く場所に、彼の笑顔も含まれていてほしい。
レヴィシアは泣き腫らした目をして、それでもまっすぐに顔を上げた――。
ここで第一章終了です。
リッジ暴走です。
『眼差しの奥』は、サブタイトルを死亡フラグと書いてしまいたくなる内容でした(汗)。勘のよい方は気付かれたでしょう。
ラナンはルテアに頼られて、素直に嬉しかったようです。ルテアの母親は、守ってあげたくなるようなかわいらしい女性で、憧れの人だったりもしたので、その辺が少しやましかったのかと。基本、いい人です(涙)
保護者的な存在がいなくなったことで、今後ルテアは成長を余儀なくされます。がんばれ、ということで(笑)
ちなみに、監獄にいたゲブラーは、ユイの父親の不良部下です。
ユイも家では浮いていたので、気が合ったようです。




