〈52〉どちらが先であったのか
リッジは、芝の上に寝転がり、青く眩しい空を見上げていた。勇壮な翼を持った鳥が旋回し、その羽根が舞い落ちる光景が目に焼き付く。
意識はかろうじてある。
けれど、動ける気がしなかった。鞭に締め上げられ、そのまま叩き付けられた時、右足首の骨が折れたようだ。投擲の刃を何本受けたかわからない。血もそれなりに流れた。
それは、戦闘相手であった暗器使いの師、ルオも同じである。少し離れた場所で塀にもたれかかるようにして動かない。
彼を相手に、健闘したものだと思う。
昔は一方的にいたぶられるばかりだった。それが、対等に戦えた。
そのことが、こんな状態だというのに嬉しかった。どこか、晴れ晴れとした気持ちになる。
自分は、ほんの少しでも前に進み、成長していたのだと。
それでも、得たものは少なく、気付けばただ一人。いつか差し伸べられた手は、取ることができなかったのだから。
そうして地べたに転がっている時に、上空からレヴィシアの声を聞いた。高らかなその宣言に、はっきりとした敗北を知る。
けれど、もう、この未来は来るべくして来たものなのだと、疑うことなく思った。
どれだけ自分が否定し、邪魔をしたところで、この国は大きなうねりを迎えていた。レヴィシアが走り出した瞬間に、その流れは行き着く場所を決めたのだと。
『偶然』と『必然』が絡み合い、運命は彼女に味方した。それだけの可能性と力がレヴィシアにはあり、自分は何も持たなかった。
太刀打ちできる存在ではなかったのだ。
レヴィシアの心配をする前に、我が身を省みるべきだった。
大切だったものが奪われた。
あの時、そんな風に感じて、まるで復讐のように躍起になって、妨害工作に励んだ。この暗い感情をレヴィシアに向けたくないからこそ、代わりにザルツに被せた。彼のせいだと思いたかった。
認めたくはないけれど、これが事実だ。
――王様がいない国。
どんな国になるのか、まるで想像が付かない。
平穏を望むなら、傑物の王の導きが不可欠だと信じた。
なのに、民衆のこの歓声は何故なのだろう。
どうして、見もしない不安定な未来に希望を抱けるのだろう。
思い付く理由は、やはりあれがレヴィシアであったからだ。
もしこの宣言が、クランクバルド公爵によって行われていたとするなら、人々はその存在を恐れ、ひれ伏す形でこの宣言を受け入れただろう。
けれど、それは希望ではない。押さえ付けられることに慣れてしまった諦観だ。
それでは、王制となんら変わりない。だからこそ、公爵はレヴィシアに宣言させたのだろう。
ただのか弱い少女でしかなかったレヴィシアが、誰もが不可能と思われた理想を実現した。だからこそ、民衆は不可能などないのだと、強い意志さえあれば、どんな困難も乗り越えられると信じることができるのだ。
――もう、二度と彼女と顔を合わせることはないだろう。
けれど、その幸せは祈りたい。
リッジはそう思った。
そんな時、ザクリと芝を踏み締める足音に気付いた。寝転んでいるからこそ、それがよく響く。
複数ある足音の中のひとつ。この無駄のない足運びは――。
首を向けることも苦痛で、リッジは静かに待った。どんな言葉も仕打ちも、最早ぼろ切れのような自分に相応しいものだろう。
自分を覗き込むその高貴な顔は、逆行となって表情が読み取れなかった。
「――随分とやられたな」
穏やかな声だった。リッジは引きつる口元で笑った。
「やり返しましたけれど」
「ああ、確かにそのようだ」
飼い主の手をかんで逃走した犬が、忠犬に手傷を負わせたのだ。捨て置かれた身ではあるけれど、今度ばかりは処断されるのだろう。リッジはすでに覚悟を決めていた。
けれど、ふと気付けば、ネストリュートの存在をすぐ間近に感じた。そのことに気付いた時には、背中に腕が差し込まれ、体を起こされていた。
「!」
「立てるか?」
そんな一言と共に、リッジの顔を覗き込む。リッジは傷だらけで腫れた顔を背けた。
「何を――」
身じろぎをすると、足首に激痛が走った。思わず顔をしかめると、ネストリュートは小さく嘆息する。
「無理をするな。手当てをするから、大人しくしていろ」
ネストリュートは、あろうことかリッジの体を担ぎ上げる。その時、そばにいたティエンとハルトビュートが唖然とした。リッジも呆然としてしまったが、それからすぐにこの状況の異常さに混乱する。
そうして、堰を切った思いを吐き出してしまった。
「要らないと捨てたくせに、どうしてまた拾うような真似をするのですか! けがをしているから、哀れんで助けて下さるということですか!?」
すると、ネストリュートはすぐに間近で、見たこともないような寂しげな面持ちになった。いつも自信に満ちた彼が何故、と。
「間違えるな。私がお前を捨てたのではない。お前が私を見限ったのだ」
「……っ」
一族からの解放を願い、一族が選んだ『真の王』であるネストリュートに反発した。彼ではない、自分が選んだ王を見付けた。その瞬間に、自分は一方的にネストリュートを裏切ったのだ。一族に反発する気持ちが、ネストリュートに向かい、彼を否定することで自分を正当化した。
けれど。
「お前に見限られたのは、私の不徳だ。だからこそ、好きにするようにと言った。お前はそれを捨てられたと言うのか?」
「それは……」
言葉が出なかった。
「お前が一族にとって、ひとつの道具でしかないと思い悩んでいたことは知っていた。だから、一族が選んだ私に反発することも」
あたたかな声。
すべてを知りながらも、そのちっぽけな自分を否定しない。
その声は、優しくささやく。
「一族の総意が不満であるのなら、お前はお前の意思で、自らの王として私を選べ」
「ネスト……様……」
「お前は、私の民だ。そうではないのか――レン?」
過去と一緒に捨てたその名を呼ぶ。大切に呼んでくれる。
存在を肯定してくれる。
たったそれだけのことに、涙が止まらなかった。
「――ありがとうございます、我が君」
影の道の先に差した光。
この眩い存在を、主と呼ばずにいることはできない。
どんなに足掻いたところで、自分は一族から解放されることはできなかった。けれど、それでもいい。
この方を『真の王』だと崇めたくなる気持ちは、誰しも同じなのだと思えたから。
リンは手当て中です。




