〈28〉灰と原石
そうして、リッジはザルツと簡潔に情報を交換し合う。それがひと段落付くと、リッジはレヴィシアに向けて言った。
「じゃあ、そろそろロイズさんのところに行って来てくれるかな? 場所は……クオルに案内してもらって」
話に入り込めず、壁際で座り込んでぼうっとしていたクオルは、急に呼ばれて慌てて立ち上がる。
「……え? あ、うん。レヴィシアちゃん、行こっ」
クオルがとことこと駆け寄って来る間に、ザルツはリッジに含みのある視線を向けた。
「俺たちは遠慮するべきか?」
一瞬、リッジの顔から笑みが消えた。それから、ゆっくりと笑顔を作り直す。それが意味することを、ザルツは理解していたつもりだった。
「ええ。僕も遠慮しますよ」
レヴィシアはクオルに手を引かれ、そんな光景に背を向けた。
「えっと、じゃあ、行って来るね」
二人は地下室を抜け、奥の階段を上がった。
そこは、普段立ち入りを許されていない場所のはずだった。リッジがロイズのために特別に頼んだのだろう。
赤い絨毯を踏み締める。普段ならこんなに立派な館の中に入れば、興味津々で眺め倒したことだろうけれど、今はそんな気分ではない。
レヴィシアは、おしゃべりなクオルへの返答がおざなりになってしまうほど、その短い距離を歩きながら思う。まず、何を話そうかと。
監獄で出会った疲弊した姿しか知らないレヴィシアには、たったあれだけでは彼の人間性を窺い知ることができなかった。
レジスタンスのリーダーで、人望を集める人物。年齢的にも父のレブレムを重ねてしまう。
似たところもあるのかも知れない。そう思うと、少し緊張が解れたような気がする。
「ここだよ、ここ」
クオルの陽気な声で我に返る。
「ありがと。先に戻っててね」
「うん。じゃあ、後でね」
クオルが駆け去るのを尻目に、レヴィシアはその扉の前で深呼吸をした。
そして、その艶やかな木目の美しい扉を叩いた。
「レヴィシア=カーマインです。入っても構いませんか?」
「ああ、待っていたよ。どうぞ」
穏やかな声だ。レヴィシアはドアを開く。
広がった視界の先は、レヴィシアが送って来た生活とは無縁の空間だった。
壁、天井、窓、控えめながらも装飾が施され、テーブルや椅子、ベッド、調度品の数々はいくらくらいの代物なのか、見当も付かない。
丸いテーブルの上にある一輪挿しが、細やかな気遣いを感じさせた。
濃紺のカーテンが引かれた窓辺に位置するベッドで上半身を起こし、レヴィシアを迎え入れたロイズは、監獄で会った時とはまるで雰囲気が違っていた。
髪をすき、ひげを剃っただけで随分と違うものだ。まだ頬はやつれたままだけれど、人の上に立つだけの器量だと思わせる。
威圧感はなく、むしろ親しみやすい微笑を浮かべていた。改めて見ると、目もとがエディアとよく似ている。
「まずは礼を言いたい。私と仲間たちを救ってくれて、ありがとう。このような姿で申し訳ないが、気を悪くしないでほしい」
娘のような年齢のレヴィシアに対しても丁寧に接してくれる。レヴィシアの方が恐縮した。
「いえ、どうかお気になさらないで下さい」
精一杯背伸びして返答した。
後ろ手でドアを閉め、部屋の中央へ歩む。
「そこに椅子があるから、かけるといい。疲れているだろう?」
レヴィシアは礼を言い、ベッドの近くにあった椅子に腰かける。赤みを帯びた木の椅子は、腰を下ろすと思った以上に硬かった。
ロイズはそんなレヴィシアの姿をじっと見つめていた。その視線に気付き、レヴィシアもまっすぐな視線をロイズに向けた。
今、何故ここに来たのかを強く自覚する。自分は試されるのだと。
すると、ロイズは柔らかく微笑んだ。
「君のお父上は本当に残念だった。私もできることなら、彼と共に歩みたかったよ。今でもそう思う」
「ありがとう……ございます」
頭を下げた。それが心からの言葉に思えたからだ。
けれど、ロイズの目は未だ悲しげだった。
「私に妻と娘がいて、活動に身を投じることをためらっていた。そのうちに、レブレムさんは討たれ、改革は半ばで潰えた。それからしばらくは、誰もが無駄だと諦めて絶望するばかりだったね。……だからこそ、私は自ら立ち上がる決意をしたんだ。彼のような器ではないが、何もせずにいることが罪のように思えてしまって……」
憔悴の色は、表よりも中に見えた。元来の穏やかな性質が、今は弱気に映る。
監獄での日々が、彼をそうさせてしまったのだろうか。
ロイズは自嘲するように続けた。
「けれど、こうして助け出されはしたものの、活動の果てに投獄されて、結局私は人々に絶望を与えただけだ」
誰よりも絶望しているのは、彼自身だ。
レヴィシアはひどく居心地の悪さを感じ、身じろいだ。
「そんな風に仰らないで下さい……」
それでも、彼の言葉は止まらなかった。どんな慰めも、今の彼には届かない。
「私は本来、弱い人間だ。活動を働きかけるうちに、みんなが私をリーダーとして慕ってくれるようになったから、それに応えようと必死だった。己の限界を超えるつもりで挑んだけれど、それでも叶わなかった」
苦しそうにのどを鳴らす。
あまり無理をさせてはいけないと思う反面、凝り固まったものは吐き出してしまった方がいいという気もした。だから、レヴィシアは口を挟まなかった。
「今の私は灰燼だ。燃え尽きた残りかすでしかない。私は、あの格子の外に出て来てもよかったのだろうか? 私が外にいることで、また期待を抱かれた時、私はそれに応えられるのか。もう一度、この身を奮い立たせることができるのだろうか。たくさんの仲間を死なせておいて、私は……こんなことなら、何もせずにいた方が……」
最初は、こんなことを言うつもりではなかったのだろう。感情の昂りが、彼を饒舌にしている。
上に立つものとして、組織の中で弱音を吐いたことはなかったのだろう。今、それができるのは、レヴィシアが『ゼピュロス』の外の人間だからだ。
レヴィシアは、この疲れ果てた人の苦痛をどうしたら和らげられるのか、精一杯考えて言葉を選んだ。
つたないなりに、心を込める。
「悔いたりしないで下さい。ロイズさんが国の行く末を憂い、行動を起こした気持ちは何より尊いはずです。父なら、きっとそう言いました」
今、どう言えばいいのか、教えてくれる父もザルツもいない。そばに付いていてくれるユイもいない。一緒に考えてくれるみんなもいない。
けれど、答えは自分の中にあるはずだ。
レヴィシアは、流れのままに言葉を紡ぐ。
「父の願いは、ひとりひとりが、誰かに運命を預けたりしないで、自分で道を切り開くことでした。そして、手を携え合って、共に歩むこと。……ロイズさんが行動を起こしたように、みんなが自分から動いてくれたら、父は嬉しかったと思います。だから、悔いたりしないで下さい」
ロイズは不意に、より悲しげな目をした。
「みんな、それほど強くはないよ。誰かに導いてほしいと願っている。私もそうだ。誰かが代わってくれるのなら、喜んで代わってもらっただろう。到底、私は王に相応しい器ではない。……承知していたが、仲間たちを悲しませたくなくて言えなかった。自分の狡さが、自分を追い詰めてしまった」
安寧以外のものをすべて拒んでいるような姿だった。
もう一度戦うだけの力を振り絞れない。それを強いることが酷だと思えるほどに消沈している。
それでも、レヴィシアはあえて言った。
「リッジは、あなたが王になるのを楽しみにしています。……けど、独りで背負った重みはどうでした? それを肩代わりできる人がいると思いますか?」
「いたとするなら、それは君のお父上だろうな」
ためらいなく答えたロイズに、レヴィシアはぴしゃりと言った。
「父は豪胆で、計画性の欠片もない人でした。王様なんかになれたはずがありません。正直、一番向いていない人です」
「え、いや、けれど……」
「死んでしまって、英雄視する人が多くなって、みんな父を買い被ってます。ロイズさんもです。父は王様の器なんかじゃありませんでした。人が好きで、人と人とを繋ぐことができただけで、後は普通です。仲間を作って輪を広げて、一緒に戦った。父は個人の限界を知っていましたから、一人で無理なんてしなかったし、人も頼れました」
そうして、ようやく緊張を解き、レヴィシアは笑顔を作った。
「あたしも仲間を頼ってばかりです。考えなしのあたしを叱ってくれたり、慰めてくれたり、守ってくれたり。あたしがここまで来れたのは、仲間たちのお陰です」
だから、と一度目を閉じた。そうして、今度はしっかりとロイズを見据える。彼の灰色の瞳が、一瞬揺れた。
「王様は、誰よりも孤独な人……。そんな、孤独な人を生むだけの仕組みはいりません。あたしたちは、みんなが話し合って国を動かせる『王様のいない国』、民主国家を目指します」
その言葉を、ロイズがどのように受け止めたのかはわからない。ロイズは相変わらず悲しげに見えた。
そうして、ぽつりと言葉を漏らす。
「人を頼る……か。私も一人だけ頼ったよ。レジスタンス活動をしたいと切り出した時、妻は笑って見送ってくれた」
それが最大の弱気と苦痛の種だと気付いたのは、そのすぐ後だった。
「けれど、その妻は病気で倒れ、娘はその看病に明け暮れていたらしい。それを知りもせず、妻を寂しく逝かせてしまった。私は……」
語尾を濁し、ロイズはレヴィシアから顔を背けた。そうして、再び顔を上げた時、表面上には微かな笑顔が張り付いていた。
「すまないね、私事ばかりで。……少し、考える時間をくれないだろうか」
「こちらこそ、お疲れのところにまくし立てて、ごめんなさい」
レヴィシアが立ち上がると、ロイズはかぶりを振った。
「いや、君と話せてよかったよ」
「ロイズさん……」
そうして、レヴィシアはお辞儀をすると部屋を後にした。
ロイズが心から笑える日が、一日でも早く来るといいと願って。




