〈43〉王の御心
「なあ、フォード」
病床の王が自分を呼び止める。何を置いてでも、真っ先にその声のもとへ急いだ。
「はい、陛下。こちらに」
臣下の祈りとは裏腹に、日に日に悪化する病状。
その目がどこまで見えているのか、すでにわからない。瞳は虚ろだった。
ただ、表情だけは楽しげに映る。その理由が、フォードには知れなかった。
「また、来たのだよ」
「は?」
「声の大きな、レジスタンスの彼だ」
「っ……!」
警備を強化しても、どこからか抜けて来る。
そのレジスタンス扇動者の名は、レブレム=カーマイン。
大きな声に大きな体をしたその男は、数多いレジスタンスの中でも異彩を放っていた。
目撃した者の話を聞く限りでは、何故だか不思議と引き込まれてしまうような何かがあるという。その何かがなんであるのか、それはわからない。
けれど、これだけ強固な守りを突破して来るのなら、最早考えられることはひとつ。内通者の存在だ。誰かが手引きしている。そう考えるべきだろう。
ただ、そのカーマインなる男は、城にやって来て大声を張り上げるのだが、城を荒らすようなことはしなかった。
何度かやって来たようだが、そういった報告は未だない。
それから、王は、彼のことをとても面白がっているように思えた。彼がやって来たと、笑顔で語るのだ。王を否定する、彼を――。
「なあ、フォード。彼はまた言ったよ、『王様のいない国』を作ろう、と」
その言葉を耳にすると、反吐が出る。
けれど、それは――その言葉の意味を、自分が理解できていないだけだった。
王は穏やかな笑顔でささやく。
「そうして、彼はこうも言った。この言葉は、他の誰でもない私に向けた言葉だ」
「なん、と……?」
「『これからは、独りにしない。この国のみんなで一緒に悩めばいいから』――そう、確かに」
独りにしない。
独り。
国を統べる、ただ一人。孤高の存在。
その孤独に、あの、ただの一市民である男が気付いたというのか。
王はその言葉に安らぎを感じたと。
その重責を、最も身近で知り、支えていたはずの自分よりも。
だとするのなら、自分は何を見ていたのか。
『我が君』は、王であることを望んでいなかった。王でありたくなかった。
けれど、周りがそれを許さなかった。当人を置き去りに、事態は勝手に進んだ。
その事実に辿り着いた途端、愕然とするしかなかった。
ようやく、色々な謎が氷解する。
自らが王でありたくなかったからこそ、この心優しいお方は次なる後継者を選べずにいるのだ。
この孤独と重責を知るからこそ、王位に付きまとう闇を押し付けたくはない、と。
それでも、民を思う心も真実だ。安定した治世を保つため、後継者は必ず必要である。
その思いの狭間で、どれくらい悩んだことだろう。
スルスルと解けて行く疑問を、フォードはぽつりと口にした。
「不敬を承知で伺います。お世継ぎになるお子は、おできにならなったのではなく……故意に設けられなかったのですね? 王位に就けたくないがために」
家臣が主君に発していい質問ではない。けれど、王は笑って悲しくうなずいた。
「そうだ。妃にはわかってもらった。けれど、あれにはひどいことをした……」
王妃でありながら石女と陰口を叩かれた。それに耐えたのは、王の心を知ったせいだろうか。彼女もまた、心優しい。だからこそ、悲しい顔ばかりだ。
「それでも、これだけは譲れないことなのだ」
そこで、王は急にむせ返った。その咳があまりに長引くので、フォードはその痩せて骨の浮いた背中をさする。痙攣するような動きに、胸が掻きむしられるようだった。
王は落ち着きを取り戻してから、浮いた涙をそっと拭った。ただ、その涙は咳の苦しさから浮かんだものだけではなかったのかも知れない。
「私に子ができれば、その子が王太子となる。そうした時、ジュピトがどうなるか、わかるだろう?」
「!」
フォードは思わず声を失った。
王弟ジュピト。
兄である王と王位継承の際に悶着し、今は幽閉の身の上である。
もし、正当な王太子が立ったのなら、彼の存在は不要である。むしろ、今後の禍根としかならない。
不確かな罪で不遇の歳月を過ごした彼は、すべてを恨んでいるかも知れない。できることならば、葬り去りたいと思う人間もいることだろう。
つまり、王が世継ぎを儲けず、立太子を曖昧にし続けたのは、ジュピトの命を守るためである。そうしておけば、王族の血を絶えさせることを恐れる連中は、彼を生かし続ける。
そのような理由、誰が察したであろうか。
呆然とするフォードの前で、王は落涙した。
「愚かなことだ。数多の民の未来よりも、たった一人の弟の命を選ぼうとしている。私はどこまでも、王になど相応しくない、ただの人間だ――」
同じ日、同じ時に、同じ腹から産まれた存在。
周囲の思惑によって、運命は分かたれ、会うことすらままならなくなった。
けれど、王は弟を想わなかった日はないのだろう。弟のその苦しみに想いを馳せ、自身も苦しみ続けていたのだ。
何を犠牲にしても、弟に生きてほしい。
それが、この王の、心からの願いなのである。
ふと、王の声音が軽くなる。
「もし、彼が語る『王様のいない国』、民主国家が実現できたなら、どんなにいいだろう。そうしたならば、私やジュピトのように、王座に翻弄されることもない。皆の未来を、皆で選び取ることができるのなら、それは私にも理想のように思われる。あの力強い声を聞くと、そんな日が来ると、私も夢見てしまいたくなる――」
一介のレジスタンス扇動者が、国王の希望であるなど、思いもよらない。
こんなことが他の者に知れたら、どうなることか。
だから、フォードはこの日のやり取りを、誰にももらさなかった。
けれど、彼の語る理想のお陰で、王の心が安らかであることだけは事実だった。その声は、今の王にとって、たったひとつの救いなのだ。
彼の改革を表立って推奨することはできないけれど、彼がここまでやって来て、退位を迫ってくれる瞬間を、王は待っていた。だから、後継者問題を先送りにして時間を稼いでいた。
それが本音なのだ。
確かに、国王として褒められたことではない。
はっきりと、間違っていると言える。
それでも、人としての心を持つこの王は、優しき主君だった。
だから、フォードはその心を守ると決めたのだ。その願いを誰が否定しようとも、自分は味方であり続けよう、と。
なのに、現実は何もかも上手く行かない。
王の希望は、あっさりと討たれた。
二度とあの声をこの室に届けることはなくなった。
そうして、消沈した王の容態は下降するばかりとなり、そうして、失意のままに逝った。王妃は実家に戻れるように計らってほしい、と王は言葉を遺したけれど、当の王妃はそれを拒み、尼となる道を選んだ。
これから、この灰色の世界を、国を、どうするべきなのだろうか。
まるで先が見えて来ない。
ただ、できることならば、ジュピトを王位に就けたくはない。王の苦悩を知るからこそ、違う道を歩んでほしい。
けれど、王にならねば、ジュピトは生きられない。そうすることでしか、価値を認められない。生きるためには、最早それしかないのだ。
もう、王の希望は潰えたのだから。




