〈37〉レヴィシアとネスト
はあはあ、と弾む息がうるさい。まだまだ先は長いのだ。こんなところで息切れをしている場合ではない。
レヴィシアは、そう自分を叱責する。
ユイとジビエはさすがに強靭で、疲れた様子はなかった。走り慣れていないユミラは、レヴィシア同様に息を切らして頬を紅潮させている。それでも、彼も必死だった。
「この階段を上がったら、まずは右の回廊へ!」
そう、先を指さす。
「了解!」
けれど、向かって来る兵士はいなかった。追って来る気配もない。
そのことが、逆に恐ろしかった。
急いでも急いでも、すべてが無駄なことで、これは何かの罠なのではないかと。
それでも、足を止めるわけには行かない。この広い城の中、たった四人。
戴冠式を阻止し、民主国家としての宣言をすることができるのだろうか――。
階段を上り切った先を、ユミラの指示に従って曲がる。その回廊の手前は、少し開けたホールになっていた。丸みを帯びたその部屋は、美しい蔦模様の磨き抜かれた床と、絵画に彩られている。その煌びやかな背景の中、まるで部屋の一部のように佇む存在がいた。
彫刻のように整った、美しい青年。高貴な装いには隙がない。
そうして、その陰のように付き従う少女。その儚い麗しさは、艶やかな闇夜のようだった。
二人に目を奪われがちだが、そのそばにはもう一人の青年がいた。
「ハルト……様」
ユミラが、呼吸を整えながらつぶやく。レイヤーナ王子であるハルトは、悲しそうにユミラを見た。言葉はない。
ユイとジビエが前に立ち、背後に二人を庇う。そんな様子を、ネストリュートは微笑ましく眺めていた。
「君がリーダーのはずだ。それが、仲間の背に隠れてしまうのか?」
彼は、空気を振動させるような、無性に不安になる雰囲気をまとう。これが、王族――。
レヴィシアは、その存在に少なからず驚いた。この王子なら、その素性を語らずとも、たとえ平民のように粗末な服を着ていたとしても、思わずひれ伏したくなる。それだけの特別な何かを持ち合わせていた。
その言葉には、無視できない重みがある。
レヴィシアは、呼吸を一度止め、ユイとジビエの腕に手を置いて、二人を下げた。その間を抜け、前に出る。そうして、まぶたを伏せ、再び深く息をすると、その目を開けた。
対峙するネストリュートの淡い色をした瞳は、吸い込まれそうに深く、すべてを飲み込んでしまうような力がある。けれど、自分には引きずり込まれる前に引き戻してくれる仲間たちの存在がある。だから、レヴィシアは自分を保つことができた。
「あなたがネストリュート王子ですね? 初めまして、レヴィシア=カーマインです。できることなら、そこを通して頂けると助かります」
そう、笑顔を向ける。
自分たちは侵入者なのだから、この王子はそれを排除しに来たのだろう。けれど、この人は乱暴で話のわからない人ではない。初対面だけれど、そう思った。
根拠は、優しいハルトの敬愛する兄であること。その瞳の中に濁りがないと思えたこと。それだけだ。
むやみやたらと怯えてしまうなんて、愚かなこと。そう気付く。
すると、ネストリュート王子は声を立てて笑った。その仕草さえも優雅だった。ハルトは困惑し、もう一人の少女は無表情のままだった。
「面白い娘だ。けれど、頼むだけで願いが叶うなどと思うのなら、それは子供の証だな」
あれがほしい。あれを取って。泣いて大人にねだる子供のようだと。
馬鹿にされたとは思わない。レヴィシアも事実そうだと思う。子供っぽい発言だ。
ただ、戦いが避けられるなら、それに越したことはない。
「やっぱり、駄目か」
ふぅ、と小さくため息をつく。
「あなたは戦いを好まれる方ではないように思います。あたしたちだって、できることなら戦いたくないです。でも、仕方がないなら戦います。ここはあたしたちの国。あなたは、ただの一国民であるあたしたち以上に、部外者なんです。だから、退けます!」
はっきりと、意志を示す。
不敬だろうと、それは譲ることのできない思いなのだから。
ネストリュートは、ただの小娘に堂々と意見されたことがなかったのだろう。少し驚いたようだったけれど、その表情はどこか楽しげだった。
「退ける、と? 君が、私をか?」
どう聞いたとしても、寝言にしか聞こえないのだろう。レヴィシアは、う、と小さくうなり、それからこぶしを握った。
「がんばります!」
余計におかしくなったのか、ネストリュートはまた笑い出した。そんな兄の様子に、ハルトの戸惑っている表情が見えた。ネストリュートは笑いを抑えると、表情も浮かべずに虚ろな目をしていた少女に声をかけた。
「ティエン」
「はい」
ティエンと呼ばれた少女は、最小限の動きで返事をした。
「私に少女をいたぶる趣味はないのでな、お前が相手をしろ」
指名されたティエン以上に、ハルトが驚いた声を上げた。
「兄上!」
そのハルトの様子から、たおやかにしか見えないこの美少女が、レヴィシアに敵う相手ではないのだと気付かされる。
それでも、望みを貫きたいのであれば、勝てないと思える相手にも勝たなければならないのだ。
「ハルト、手出しは無用だ」
兄にそう釘を刺されてしまえば、ハルトはもう何も言えないようだった。口ごもり、苦しそうに表情を歪めてうつむいた。ハルトもやはり、争いは好まない穏やかな人なのだ。
ティエンはそんなハルトを一度振り返ると、今度はまっすぐにレヴィシアを見据えて前に出た。
「主の命により、お相手いたします」
不安げな表情を見せたのは、ハルトだけではなかった。ユイとユミラも、レヴィシアを心配そうに声をかける。
「レヴィシア……」
「大丈夫だ。レヴィシアが出なくても、俺とジビエで突破する」
そう、ユイが剣の柄に力を込める。それを、レヴィシアは止めた。
「駄目。ここはあたしの、あたしだけの戦いだから。ちゃんとそこで見てて」
振り返って三人に言うと、ジビエだけがにやりと笑った。
「了解。がんばれよ、リーダー」
レヴィシアは、笑ってうなずく。下ろしている髪がさらりと揺れた。それがうっとうしい。
手首に巻いていた、ゼゼフから受け取ったハンカチを解く。それを使って、いつものように髪を高く束ね、ポニーテールにした。やはりこうすると、気が引き締まる。
そうして、レヴィシアもダガーを手にすると、前に出た。スレディの作であるこのダガーに、たくさんの祈りを込めた。どうか、力を貸して、と――。




