〈31〉嬉しかったから
ゼゼフは、知り合った老婦人を安全な場所へ避難させようと奮闘していた。
思い当たるのは、三番街の一軒の民家だ。以前、レヴィシアたちが隠れ家に使っていた家である。そこで、アーリヒがけが人の治療をしている。けが人が出たらそこに連れて来るようにとのことだった。
老婦人にけがはないけれど、他に思い当たらないのだから、そこに行こうと思う。確か、エディアやフーディーもそこで手伝っている。
邪魔な自分たちを押しのけようとする人ごみから、ゼゼフはゼゼフなりに老婦人とクオルを守ろうとがんばった。足を踏まれ、背中に肘を叩き込まれ、散々だけれど、それでも必死だった。
ただ、弱者である自分たちにも、容赦のない人間が存在するのだ。
組織のみんなは優しくて、その暖かな場所に守られて来たから、そのことを忘れてしまっていた。
間抜けで愚図な自分を蔑む眼を、ゼゼフは久し振りに感じた。それは、四十歳前後の男だった。筋肉と脂肪の両方を蓄えたような体型に、太い眉。背も高いけれど、どこか粗野だ。
見るからに乱暴そうな荒くれだった。レジスタンスなのかどうなのかさえわからない。騒ぎに便乗して暴れているだけだろうか。そばには、仲間たちらしき人たちがいた。それも、同じように親切そうには見えなかった。
ぶつかったゼゼフをにらむだけでは飽き足らなかった。突然、その髪を強くつかんでガクガクと揺する。
「どこに目ぇ付けてんだよ! この愚図が!!」
頭皮がひり付き、その痛みに思わず両目を瞑った。けれど、男は容赦なかった。そのままゼゼフを道の脇に引っ張り、レンガの壁に叩き付ける。
「っく……!」
節々が痛み、ゼゼフはそのまま地面に倒れ込む。
「ゼゼフ!!」
クオルの甲高い声が聞こえた。それから、老婦人の悲鳴も聞こえる。
ゼゼフは、ぼんやりと思った。
自分がこんな目に遭うのは、活動を始めたからだろうか。
けれど、レヴィシアたちはもっとつらい目に遭っている。それに耐えて、必死で戦っている。
だから、つらいのはみんな同じだ。
何も、自分だけがつらく、苦しいわけではない。
それを知った今だから、ゼゼフはほんの少し、強くなれた。
「クオル、おばあさんをお願い……」
痛みにうめきながらも、そう言った。すると、男たちの下卑た笑い声がした。
「なんだこいつ、自分が役に立たねぇ愚図の癖に、人の心配か? 馬鹿じゃねぇの?」
「俺たち平民は、この荒れた国で自分の身を守ることだけを考えねぇと生きて行けねぇんだよ。そんなこともわからねぇのか?」
「ババァとガキなんて庇って、正義の味方か? 笑えるな、こいつ!」
誰に笑われたっていい。身の程なんて、知らない。
自分を認めてくれた仲間たちがいるから、もう『自分なんて』とは言わない。このままの自分でいい。やっと、そう思えるようになったから。
「――ふざけるなよ」
ぼそりと、そんな声がした。男たちは耳を疑ったようだ。その声は、男たちの背後から、小さな男の子から発せられたのだから。
クオルは歳に見合わない鋭い視線を男たちに向けた。
「そいつはな、お前たちみたいなクズに馬鹿にされるようなやつじゃない! お前らよりも必死に生きてるんだ!」
自分たちの腰くらいまでしか身長のない、小さな子供にクズ呼ばわりされ、男たちは顔を真っ赤に染め上げた。クオルの背後の老婦人があまりの恐ろしさに青ざめ、クオルの手を引いた。それでも、クオルは退かない。敵わない相手でも、ゼゼフのために憤ってくれた。
利口なことではない。
賢いクオルにしては、迂闊だ。それを承知で、彼は言い放った。
これだけは、絶対に譲れないことなのだと。
「このガキがっ!!」
殴られると思った。けれど、ゼゼフが思った以上に、この男たちはどうしようもなかった。懐からナイフを取り出したのだ。
キラリと光るその刃を見た途端、さすがのクオルも固まってしまった。この状況がいけなかった。
秩序も何もない、争いの只中で、正常な心を保てるのは、強い人間だけだ。この男たちにはその強さがなかった。戦いに紛れてしまえば、私闘も何も区別がない。なんだって許される状況なのだと勘違いする。
ゼゼフはこの時、自分はこんなにも素早く動けたのだと感心してしまった。その痛みは、遅れてじわりとやって来る。傷口が熱く、あふれる血が、服に染みて行く。ゼゼフは、蒼白になった顔で、クオルを見た。そうして、笑いかける。
「大、丈夫……?」
クオルは呆然と、ゼゼフを見上げた。いつもは勝気なその小さな体が震えていた。
「ゼ、ゼゼフ?」
血を見た老婦人は、絶叫していた。けれど、声が嗄れて、そう大きな声ではなかったように思う。それとも、ゼゼフが聞き取れなかっただけだろうか。ゼゼフは、そのまま滑り落ちた。それを、クオルが必死に受け止め、頭を抱えるようにして衝撃を和らげてくれた。
それでも、男たちは満足しなかった。
更なる攻撃を加えようと、ナイフを振りかぶる。けれど、そのナイフは何かによって弾き飛ばされた。ゼゼフは、痛みと恐怖によってにじんだ涙で、何が起こったのかよく見ることができなかった。
ただ、男たちがうめき声を上げながら崩れ落ちたことだけはわかった。誰かが助けに来てくれたのだ。それは刹那の出来事で、その強さに安堵した。フィベルだろうか。よく、見えない。
いよいよ、痛みが意識を塗り潰し始めた時、クオルが何かをつぶやいた。けれど、それを拾うことが出来なかった。
それなのに、何故かそのもう一人の声だけは聞き取ることができた。
「――どうして、僕が去った時に諦めてしまわなかったんだ? ゼゼフにはレジスタンスなんて向いてない。そんなこと、自分が一番よくわかっていたはずだ。辞めてしまわなかったから、こんな目に遭ったんだ」
それは、呆れたような言葉だった。けれど、どこか穏やかで、優しい響きがある。この声を、ずっと聞きたかった。ぼんやりと、黒いシュティマの姿が見えた。
「そう、だね……」
ゼゼフも、微かに笑った。そんな時、クオルが悲痛に叫んだ。
「なんだよ、それ! どういうことだよ! まさか、ゼゼフのことを利用したっていうの!?」
利用。
そう。
何かの思惑があって、シュティマは友達になってくれた。そういうことだ。
ようやく、理由がわかった。今になって。
「……いいんだ」
ぽつりと言葉が出た。
「どんな理由でも、いいんだ。僕は、嬉しかった。シュティマと友達になれて、嬉しかったよ。ありがとう――」
人の迷惑にならないことだけを考えて生き、常に怯えていたあの頃。
何気なく話を聞いて、何度も何度も励ましてくれた。あの時間に、どれだけ救われたか知れない。どんな理由や思惑があったとしても、シュティマが本当は自分のことなんて嫌いだったとしても、感謝する気持ちに変わりはない。
ゼゼフは、親友と呼んだ人物に向かって、微笑んで手を伸ばした。
「最後に、会えて、よかった――」
その手は、握り返されることはなく、地面に力なく落ちる。
クオルの叫び声が、虚しくその場に響き渡った。




