〈26〉ありがとう
箱型のこの監獄は、四隅に階段が設けられている。
レヴィシアたちが下りて来たのは北西の階段だった。一階に着けば、まっすぐに伸びた廊下に兵士の姿がある。けれど、彼らは、とっさに隠れたレヴィシアたちには気付かないまま、慌てて駆けずり回っていた。
ユイたちが向こうで暴れているのだろう。剣戟の音と叫びが届く。
レヴィシアとルテアは、うなずき合うと足音を潜めて廊下を進み、張り詰めた空気の中で角からその先をうかがった。
そこはやはり、混戦模様だ。
かろうじてわかるのは、レヴィシアたちから見てラナンが手前にいることだけだった。ラナンは幅のある剣を巧みにさばき、防戦している。その背に、助け出したと思われる囚人服の青年を庇っていた。
「加勢して来る!」
ルテアは短槍を握り直し、飛び出した。
「あたしも!」
レヴィシアもそれに続く。ラナンが弾き飛ばした一人を、ルテアが槍を旋回させて打ち、すかさずその背を蹴り込む。レヴィシアも向かって来る剣を滑らせるように受け流すと、ひらりと体をひるがえして肘を叩き込んだ。その兵士の頚椎を、ルテアが槍の柄で強打する。
ルテアとは不思議と、打ち合わせがなくても連携が取れる。組むと動きやすかった。
その間に、ラナンも兵士二人をのしていた。
「無事だったみたいだな。さすがにしぶとい」
ほっとしたくせに、憎まれ口を叩いて笑うルテアに、ラナンが軽口を返すことはなかった。息遣いが荒く、激戦だったことを物語っている。
ふき出した汗を素早く拭い、ラナンはレヴィシアを一瞥した。
すると、その背後からロイズを連れたリッジとサマルが追い付いて来る。やつれ、くたびれているものの、その姿を目にした『ゼピュロス』のメンバーは、ようやく晴れやかな表情を見せた。ロイズ自身、彼らとの再会に、心底安堵したようだった。
けれど、再会を喜ぶのは後だ。
ようやく息をつけたラナンが、一角を指さす。
「ルテア、シェインの辺りの助太刀を頼む。ただし、邪魔になるなよ」
「なるか! ……ったく」
ルテアはしぶしぶ動き出す。向こうはまだ、敵味方の判別も難しいような混み具合だった。
レヴィシアもその後に続こうとしたが、ふと思う。何かが変だ。
そこで、ようやく気付いた。
「ねえ、ユイは?」
そうだ。彼がいれば、こんなにてこずるはずがない。
ラナンは騒音の中、隠すことなく事実を口にした。
「上の階で戦ってる」
「え……」
「一人、手強いやつがいて、そいつの足止めをしてくれてる。……けど、ユイなら勝てる。そうだろ?」
大丈夫。
そう言われてうなずけない。
あの時、父が討たれた時、思い知ってしまったから。
どんなに強い相手にも、上がいるということを。
それまでは、父より強い人なんていないと思っていた。
父だけは特別で、どんな殺意も退けられると信じていた。
それが、現実にはひどく呆気なく――。
「駄目!!」
ユイが殺される。死んでしまう。
目の前が暗くなった。
自分がいない場所で勝手に死ぬなんて、許せない。
思わずきびすを返しかけたレヴィシアの腕を、ラナンがとっさにつかんだ。
「放して!」
振り払おうともがく。それでも、ラナンは腕を緩めるどころか、いっそう力を込めた。びくともしない腕に、気持ちは焦り、泣きたくなる。
「やだ……」
かぶりを振り、涙を浮かべたレヴィシアに、ラナンは普段は見せないような厳しい面持ちを向け、低い声で叱責する。
「行こうなんて考えるな。聞き分けのない子供みたいな真似は止すんだ。ユイで勝てないなら、誰が行っても同じだ」
「でも!」
「ユイは戻るって約束した。あいつを一番よく知ってるのは、レヴィシアだろ? だったら、信じてやれよ」
ラナンの言葉は正しい。頭の端では理解している。
けれど、心が受け入れることを拒んでいた。
口に出せずとも、それが伝わったのだろう。押し黙って返事をしないレヴィシアに、ラナンは嘆息する。
「どうしても行くのか? リーダーが、ここにいる仲間を見捨てて?」
ひやりとする声。その冷たさに、レヴィシアは思わず顔を上げた。
「それは……」
見上げた顔は、普段の温和なものではなく、本気で怒っているのだと知れる表情だった。
「そんなことをしたら、俺は一生許さないよ。どうしてもと言うなら、殴ってでも止めるからな」
痛い言葉だった。
言われたことよりも、言わせてしまったことが痛い。
言いたくもない言葉で叱ってくれる人なんて、そうそういない。甘やかすだけの優しさとは違う奥深さを感じて、心が痛んだ。
ルテアが全幅の信頼を置くこの人は、厳しく諭してくれる、優しい人だ。
「わかった。ごめんね、ラナン」
レヴィシアはようやく体の力を抜いた。それを知り、ラナンも手を放す。
「謝らなきゃいけないのは、俺にじゃないよ」
「じゃあ、ありがと」
素直なその言葉に、ラナンは状況も忘れて苦笑した。
「うん。……さて、俺たちも加勢しないとな。サボってると怒られるぞ」
不安がなくなったわけではないけれど、それでも約束は守ってくれる人だ。
戻ると言ったのなら、戻る。必ずと言ったら、必ずだ。融通も何もない。
きっと、大丈夫。今はそれしか考えない。
「そうだね。ラナン、疲れてない?」
「シェインとティーベットよりは、今休んだから」
すると、ロイズを支えたまま、ずっと静観していたリッジが動いた。
「僕とティーベットが交代するよ。ティーベットならロイズさんを負ぶえるし、その方がいい」
するりと横を抜けるリッジを、レヴィシアは止められなかった。
ある程度の抵抗は覚えているのに、それを飲み込んだ。
人が死ぬのは嫌だと思いながらも、追い込まれると容認してしまう。近しい人が死ぬのはもっと嫌だというエゴだ。止めてと口にすることさえできない。
ごめんなさいと心で謝る。免罪を求めるには安易な行為だと思いつつも、それを繰り返す。
ティーベットは、ほぼ素手で暴れていた。武術の心得のない彼は、昔からめちゃくちゃな戦い方をしていたけれど、怪力なのでそれはそれで強い。ただ、近寄ると味方でも危ないけれど。
なんとかして、ティーベットを呼び寄せる。
「ねえ、ロイズさん、一人で負ぶえるよね? 頼める?」
「え? あ、ああ」
「お願い」
そうして、その場に留まったまま、レヴィシアも短剣を引き抜く。
けれど、レヴィシアに向かって来た兵士の顎を、細い棒が突き上げた。ルテアの槍の柄だった。
さすがに疲れて来たらしく、ルテアは引きつった顔をして、すぐにまた槍を構え直した。
そうこうしているうちに、外套を翼のように広げたリッジが、混戦の只中に立つ。微笑すら浮かべ、撫でるように人を屠るさまに、一部のメンバーたちは狂喜した。
仲間を拷問によっていたぶられ、亡くしてしまったのだ。渦巻いていた暗い感情が、あふれ出す。
彼らにとって、リッジは殺戮者ではなく、まぎれもなく戦神で、救いなのだ。
複雑な思いを抱えながらも、レヴィシアは戦局が収束して行くのを感じていた。
リッジの容赦のない手から逃れようと逃げ出す者も多かった。彼も深追いはしない。
「そろそろ抜けられる。……行こう」
息も乱さずに、リッジが言った。
大扉は、開かれたままだ。外には夜の闇が待っている。後は、紛れて逃げるだけだ。
レヴィシアは、死屍累々のその場を抜けた。靴底に血がこべり付き、ぬめるような感覚がある。それを感じて震えたけれど、表に出さないように努めた。
そして、何度か振り返る。
「レヴィシア、急いで」
リッジの声に、うなずく。
「う……ん」
けれど、心はここにない。うわの空だ。
早く戻って。ここに、早く、と。
「早く……!」
祈るようにつぶやいた。
今まで、願って叶わなかったことの方が多いのに、まだ祈らずにはいられなかった。
そうして――。
「レヴィシア」
涼しい顔をして駆け戻って来たユイに、どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか、まるでわからなかった。
ただ、感情の赴くままに、レヴィシアはユイの胸に飛び込んでいた。間違いなくにここにいるのだと、確かめるように。
あふれる感情に整理は付かなかったけれど、一番言いたいことは、結局ひとつだった。
「生きていてくれて、ありがとう」
こんな言葉が、自分の口からこぼれるなんて、思わなかった。
それでも、これが素直な気持ちだった。嘘はない。
「うん……」
短い返事。
ユイは今、何を思っているのだろうか。
目を開いた時、レヴィシアの眼前には、破れたシャツを染め上げる血と、すでに慣れてしまった鉄臭さがあった。シャツが黒かったため、近付くまで二の腕の傷に気付けなかった。
「けがしてる!」
「ああ、少しかすっただけだから」
まるで人事のように言う。レヴィシアの方がよっぽど痛い顔をした。
深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、レヴィシアはユイのけがのない方の手をそっと引いた。
「帰ろう」
その一言に、うなずく姿が見たかった。
ようやく、願いが叶った。




