〈10〉感じるままに
夕食を終え、部屋で本を片手にくつろいでいたユミラは、低い位置からのかわいらしいノックの音に顔を上げた。自然と笑みがこぼれる。本を机に置くと、扉を開きに向かった。
「リュリュ、今日の稽古は終わったのか?」
リュリュは大きくうなずいた。リュリュをこの部屋まで送って来た使用人頭のグレースは、飲み物でもお持ちしますと言って去った。
ユミラは淑女に対するように椅子を引き、そこにリュリュが座るのを手伝った。リュリュは嬉しそうに笑っている。
「にいちゃま、今日はいかがおすごしでしたか?」
舌っ足らずな口調で、精一杯背伸びした会話を試みる。その微笑ましさに、胸があたたかくなった。
「今日はね、たくさんのことを考えて過ごしたよ。これからの、この国のこと。そして、これからの僕のこと」
すると、リュリュは首をかしげた。少し、難しかったのかも知れない。ユミラはそっと微笑む。
「僕がしたいことが、明確にわかったんだ」
「はい?」
「うん、でも、今は語るのを止そう。全部終わって、落ち着いたら、真っ先にリュリュに話すよ」
ザルツが言うように、心残りは多い方がいい。リュリュを一人には出来ないから、どうしたって戻るつもりではあるけれど。
リュリュはうなずく。無言でうなずくこの仕草がかわいらしくてとても好きだ。いつも癒される。
「リュリュにおてつだいできることはありますか?」
そう、リュリュは真剣な面持ちで尋ねて来た。ユミラは微笑んで返す。
「もちろんだ。いつも、リュリュは僕の一番の支えだよ」
その一言に、リュリュは顔を輝かせる。
そうして、グレースがあたたかいミルクを運んで来てくれた頃には、稽古事で疲れ果てていたリュリュは眠ってしまっていた。ユミラはグレースと顔を見合わせて笑う。
そのあどけない寝顔に癒されながら、ユミラはリュリュの頭をそっと撫でた。
※※※ ※※※ ※※※
薄暗くなった高台の上で一人、レーデは風に吹かれていた。カンテラの灯りがぼんやりと、彼女の顔を照らしている。
日が落ちると少し肌寒く、レーデははおっていたショールを掻き合わせた。
それとも、肌寒さを感じたのはこの場所のせいだろうか。
この崖から、アランは転落した。最後の瞬間の表情、崖を滑り落ちる音、今も生々しく残っている。
今、何故一人、ここにいるのだろう。
自らの罪を再認識するためだろうか。
それとも、この崖の底から、アランが自分を呼んでいるのだろうか。
這って出た青白い腕が、こちらに向けて伸ばされる――。
「っ……」
一瞬、息が詰まり、震える唇で慌てて呼吸を再開する。冷や汗がにじみ、体が震えた。
自らの肩を抱くようにして立ち尽くしていると、唐突に声がかかった。
「こんなところで何をしてる?」
まったく気が付かなかった。だから、びくりと体を強張らせ、反射的に振り返った。その声には、あまり聞き覚えがなかった。
そこにいたのは、『クラウズ』のジビエという青年だった。レーデは、ルテアの不在中に組織に参加したため、ルテアともほとんど接点がない。この青年も、同様だ。まともに口を利くのは初めてのことかも知れない。
派手な顔立ちではないのに、何か人目を惹く。伸びやかに、自然で、気負ったところがないせいだろうか。間近で見たことはないけれど、ユイと優劣付けがたいほどの腕前をしていると聞く。その強さから、自信に満ちているためだろう。
レーデは、独りになりたいからここに来たのだ。思わぬ邪魔者に、内心ではわずらわしさを感じた。
けれど、それを面に出すほどに子供ではない。顔には愛想笑いを貼り付けた。
ジビエは山育ちだ。薄暗さに慣れているのか、灯りを持っていなかった。レーデの持つ灯りで十分なのか、まっすぐにこちらに向けて歩いて来る。
そうして、レーデの正面に来ると、ふと笑顔を見せた。
「あの屋敷は立派なのかも知れないが、気詰まりだ。何せ、俺たちはほとんど外で育ったようなものだからな。こうして、木々が見える場所が落ち着く」
ああ、そういうことか、とレーデは納得した。それならば、場所を譲ろう。
この場所で何があったのかを知らないジビエにとっては、ここは見晴らしのよい穴場だろう。
「そう、じゃあ、私は失礼するわ」
と、レーデは笑顔を見せた。けれど、その作り笑いに、ジビエは小さく息をつく。
「随分、思い詰めた顔ばかりするんだな」
「え?」
そんなことはない、とレーデは平静を装う。けれど、ジビエの瞳は、虚偽をすべて見透かしてしまうような力を持っていた。思わず、ぞくりと背筋が寒くなる。ルテアや仲間たちに向けるような、慈愛に満ちた瞳とは違う色をしている。表向きの顔を剥ぎ取られたら、自分には何もない。
「……もう、戻るわ」
逃げ出すようにきびすを返した途端、灯りを持つ手が強くつかまれた。思わず、カンテラを落としてしまったけれど、それすら気にしている暇がなかった。無骨な指が、痕が残るくらいに強く頬に食い込む。押し付けられた唇の熱に、ただ驚いてもがいたけれど、その腕は力強い。
わけもわからず、ただ頭は混乱するばかりだった。
暗闇の中、ようやくレーデを解放したジビエは、息がかかるような距離で不敵に笑っていた。
「お前は考えすぎだな。少し、頭を空っぽにして、感じるままに生きてみろ」
屈託なく、強く日々を生きる彼らだからこそ、レーデの在りようはもどかしかったのかも知れない。けれど、だからと言って、荒療治が過ぎるのではないか。
レーデは乱れた髪のままで歯を食いしばり、ジビエをにらみ付けたけれど、彼はそれを受け流すほどの度量がある。敵わないから、その言葉が的を得ているから、それ以上怒れなかった。
頭の中から色々なものが抜け落ちたのも、残念ながら事実だ。




