〈9〉居場所
クランクバルド邸の使用人の部屋で、アーリヒは医療器具や薬の点検を入念にしていた。決戦が近い今となっては、不備はあってはならない。何度も何度も見直し、足りないものを紙の上に書き足して行く。
そうしていると、夫のシェインが部屋にやって来た。
出会った頃よりもいくらか落ち着いたけれど、まだどこか少年のような人だ。アーリヒが一向に顔を上げないので、退屈そうに正面に座り込む。しばらく放っておいたけれど、動く気配はなかった。
かといって、特に用事があるわけではない。それがわかるから、放ってある。
こうして、共有する時間がほしいだけだ。言葉を交わさず、目も合わさず、触れ合うことがなくとも、そこにいる。それだけで満足できるものもある。長年というにはおこがましい歳月しか、未だに経てはいないけれど、それだけは分かり合えた。
これからもっと、長い時間を共に生きて行く。その覚悟をしたから、夫婦になった。そのつもりだ。
ようやく顔を上げると、シェインは微笑んだ。
「ちょっと、買出しに行って来るよ」
アーリヒがそう言って立ち上がると、シェインも続いて立ち上がる。
「オレも行くよ。荷物持ちも必要だろ?」
「いや、そんなに重たいものは買わないけど」
そう言ってみるものの、じゃあいいかと見送るタイプではない。わかっている。
やはり、シェインは笑った。
「ま、そう言うなよ。クオルはゼゼフと一緒だし、たまには夫婦水入らずで買い物もいいだろ?」
のん気なものだ。アーリヒも笑った。
「まあ、来たいなら止めないよ」
聞いているこっちが恥ずかしくなるほどの言葉を、出会って間もない頃から聞かされた。随分、軽い男だと思った。けれど、言葉のすべてが本当だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
実際に、祖国を捨て、こんな異国の地まで付いて来てくれた。
感謝していないわけがない。
言葉にするのは苦手だけれど、それすらもわかってくれているのか、シェインは聞かせるばかりで、求めることはなかった。隣が心地よい、そう感じてしまった瞬間に、勝敗は決したのだ。
ざわめく人ごみの中を歩く。薬屋は、この通りを抜けた先だ。
多くの人々とすれ違う。中にはレジスタンスの面々も紛れているのではないかと思う。皆、自分たちのことで頭がいっぱいだろうけれど。
並んで歩くと、不意に手に何かが触れた。その次の瞬間には、強く握られる。
アーリヒは唖然とした。けれど、シェインは相変わらず笑っている。
「たまには、こういうのもいいんじゃないか?」
今更、手を繋いで歩くことに、強い抵抗があった。クオルには絶対に見せられないし、レジスタンスの仲間たちにも見られたくない。なのに、振り払えなかった。
それどころか、不覚にも赤面してしまった。そんな珍しい様子を、シェインは嬉しそうに覗き込む。
「アーリヒ、かわいい」
「バカ」
顔を背けたけれど、手のぬくもりは続いていた。
※※※ ※※※ ※※※
気付けば、以前よりもずっと陰鬱になっていた。
常に、ではなく、時折。
ふとした瞬間に、どうしようもなく虚しい目をする。そのことに気付いてから、クオルはその理由を考えた。けれど、まるでわからなかった。
だから、正直に尋ねることにした。誰にだって、触れられたくないこともあるだろう、と大人ならそっとしておいてあげたのかも知れない。けれど、生憎と自分は子供だ。
だから、遠慮なんかしなかった。
「おい、ゼゼフ!!」
クオルの剣幕に、ゼゼフはビクッと丸い肩を震わせた。
「え? ええ??」
腰に手を当て、クオルは座っているゼゼフを見下ろす。
「なんかあったんだろ?」
「え……」
「なんかあったから、そんな風に落ち込んでるんだろ?」
「そ、それは……」
口ごもり、うつむく。じめじめとした空気が、ゼゼフの周りに色濃くあった。だから、クオルはそれを振り払うようにして大声を出した。
「ああ! いいから、早く話せよ! ボクが聞いてやるつもりのうちに!! 早くしないと、女の子のところに行っちゃうんだからな!」
すると、ゼゼフはつぶらな瞳に涙をいっぱいに浮かべた。残念ながら、クオルに男の涙は通用しない。
まるで動じず、
「で?」
とだけ言った。
ゼゼフは、涙声でうじうじともらす。
「友達が……」
「ん?」
「友達だと思ってたのに、もう、僕には会いたくないんだってわかったから……」
そういえば、以前、友達がどうのこうの言っていた。それと同じ人物だろう。どうやら、その友人とやらはゼゼフのことなどどうでもよかったのだ。そういうことだろう。
こればかりはどうしようもない。
クオルはため息をついた。
「なあ、ゼゼフ」
「うぇっ」
すでに泣いて、しゃくり上げながら、ゼゼフはクオルに顔を向けた。男の泣き顔なんて見たくないけれど。
「お前、ボクらじゃ不満なのか?」
「うぅ?」
すでに言葉になっていない。
「だから、友達一人、失くしたかもしれないけど、ここに来てみんなと知り合って、いっぱい手に入れたものだってあるんじゃないか。失くしたものばっかり嘆いてないで、笑ってろよ。だって、悔しいだろ。そいつに、今までのゼゼフじゃないって見せてやれよ。嫌なことがあっても、笑っていられるようになった。自分は変わったんだって!」
十歳以上年下の子供に諭されるなんて、すでに情けないけれど、この際、深いことなんて何も考えなくていい。ただ、笑えればいい。
「ほら、これから忙しいんだって! ボクたちにだって、やることはたくさんあるんだからな!!」
パシン、と肉付きのよい背中を叩くと、ゼゼフはぐちゃぐちゃの顔で、よくわからない表情を作った。多分、笑ったんだろう。そう思ってクオルは納得して笑い返すのだった。




