〈24〉殺伐とした世に
あれだけの戦闘の後だというのに、リッジは息ひとつ切らしていなかった。彼の信じがたいような強さが『ゼピュロス』の活動を支えたのだと、今になって理解した。
リッジは恐ろしい形相で逝った兵士たちのそばをすり抜けながら、奥の扉の小さな格子窓を覗き込んだ。その中は薄暗く、明かりはない。それでも、リッジは呼びかけた。
「ロイズさん、僕です! 返事をして下さい!!」
ガシャン、と扉に両手を付き、リッジは哀切に声を絞る。
「迎えに来たんです。……ここにいるんでしょう?」
すると、扉の奥から小さくこすれる音がして、かすれた声が返る。それは、本当に微かなものだった。
「リッジ……なのか?」
レヴィシアたちに背を向けているリッジが、今どのような表情でいるのか、見なくても察しが付いた。声にすべて現れている。
「そうです。遅くなって申し訳ありません。……さあ、行きましょう。あなたはこんなところにいるべき人ではないのですから」
やっとの思いで再会できたのだから、水を差したくはない。けれど、大事なことを忘れているのではないだろうか。
「リッジ、鍵を探さないと!」
そう指摘すると、リッジはようやくレヴィシアたちの存在を思い出したようだった。
「ああ、そんなもの、必要ないよ」
鉄の扉にある鍵穴を凝視すると、リッジは外套の中へ腕を戻した。そして、再び腕を出した時には、手に小さな道具を握っていた。その金属片で錠前破りをするつもりだろうか。
その段階になってようやくサマルが追い付いたけれど、サマルは疲れ果てた顔をして虚ろにレヴィシアたちのそばに立った。
リッジはそれを一瞥すると、落ち着いた口調で言った。
「僕の作業中にもし敵が来たら、防戦してもらえるかな? 集中を切らせないでほしいんだ」
「え……ああ……」
ルテアは戸惑いながらもうなずいた。そうして、両脚に取り付けてあったベルトから、折りたたみ式の槍のパーツを取り出す。ひとつひとつの部品は短いけれど、両端を回して繋げて行く。柄が筒状になっていて、先端の刃の部分はその中に納まるような細身のものになっている。軽量で、それなりに便利なのだ。
組み立てるにも慣れたもので、数秒を要しただけだった。
けれど、それを振るう間もなく、リッジは解錠した。この暗がりの中での細かい作業をものともしない集中力は並ではないが、もう今更驚いたりしなかった。
すぐさま扉を開け放ち、リッジは中へ飛び込む。
「さあ、行きましょう!」
開かれた扉の奥に、両足を投げ出すように座り込み、うな垂れている男性の姿が、レヴィシアたちにもようやく見えた。ロイズは手を伸ばすリッジにかぶりを振る。
「……すまない。足の指を潰されてしまって、逃げ切れる自信がない。今の私では足手まといだ。私はいいから、他の仲間を……」
拷問に遭ったのだろう。あまりの恐ろしさに、レヴィシアは木の靴をはくロイズの足もとを直視できなかった。
「僕が支えます。他の仲間たちも救出に向かっていますから、ロイズさんはご自分のことだけを考えて下さい」
リッジはすかさずロイズの脇から腕を回し、その体を支えた。一見冷静に見える彼だが、ロイズ本人よりも激しい怒りで身を焦がしている。それでも、その感情を押し留めたのは、脱出が先だと考えたからだろう。
「レヴィシア、ルテア、先行してくれないか。サマルさんは僕と、ロイズさんを支えるのを手伝って下さい」
レヴィシアとルテアはうなずいたものの、サマルは何故かすぐに動かなかった。目を伏せ、一拍間を置くと、ようやく牢の中のロイズに肩を貸した。いつも賑やかな彼にしては珍しく、終始無言だったけれど、あの惨状を通り抜けた後では仕方のないことだろう。
リッジも反対側に寄り添う。二人に支えられる形で、ロイズはようやくその場から歩き出す。けれど、たったそれだけのことが、彼には途轍もなく苦痛だったのかも知れない。落ち窪んだ眼とひそめた眉に、苦痛の色がある。
レヴィシアとルテアは先に階段を下りて行く。後者の三人は、慎重に進んでいた。
リッジはしきりにロイズを励まし続け、サマルは沈痛な面持ちで一言も発さなかった。
けれど、ある位置を通り抜ける時、
「きっと見ようって言ったのに、ごめんな」
と、声を伴わず、震える口もとだけでそうつぶやいた。
※※※ ※※※ ※※※
そうして、階段を軽快に下って行くレヴィシアとルテアの姿を、廊下を走っていた三人の監獄兵が発見した。隠れる間もなかった。
「あそこにもいるぞ!」
そう叫ばれる。けれど、援軍はなかった。
きっと、ユイたちがうまくやっていて、そちらに戦力を割いているせいだろう。
それでも、相手は三人。レヴィシアとルテアでなんとかしなければならない。
ここは協力し合ってと思うのに、ルテアはレヴィシアを後ろに庇う。
「下がってろ」
「駄目だよ。二人で協力しなきゃ」
レヴィシアはルテアを押しのけるようにして横に並んだ。そして、短剣を引き抜いて構える。
ルテアはそんなレヴィシアよりも前に出た。
薄暗い廊下で、兵士の手にした抜き身の剣が鈍く光り、上から振り下ろされる。その剣を、ルテアは余裕を持ってかわした。そして、息つく暇を与えず、ルテアは手首を柔軟に使い、槍の柄で一人の首筋をしたたかに打ち、昏倒させた。その勢いと流れのまま、槍の柄頭でもう一人の鳩尾を突く。
けれど、入り方が思いのほか浅かった。うめいて前のめりになったその兵士が体勢を立て直す前に、ルテアは槍を旋回させ、その後頭部を殴打する。その隙に、ルテアに斬りかかろうとした兵士の一撃を、レヴィシアの短剣が受け止めた。
競り合うと、力の差は歴然だ。震えるレヴィシアの腕を見やると、ルテアはすぐに背後ががら空きの兵士に一撃を繰り出す。
最後の一人が地面に倒れこんだ時、二人はふぅ、と同時に息をついた。
「ルテア、大丈夫?」
振り返ったレヴィシアに、ルテアは乱暴な口調で答える。
「当たり前だ」
手を出させないつもりが、結果としてうまく行かなかった。なんとなく、それが悔しい。
きっと、ユイならもっと鮮やかにこなしたのだろうと思うと、腹立たしささえある。
そんな二人に、後方からリッジたちが追い付いた。リッジは、そこに伸びている三人の兵士に視線を落とすと、小さく嘆息した。
「君らは手加減ができるほどに強いわけじゃない。敵を傷付けることを恐れていたら、死ぬよ?」
さらりと口にする。
彼は、本当に正直だ。きれいごとは言わない。
でき得ることを、現実だけを見据えている。
二人は、彼の言うことがもっともだとわからなくはないけれど、素直にうなずくこともできなかった。
そんな複雑な空気を察したのか、サマルがようやく口を開く。
「……ほら、急ぐぞ」
「そうだね」
最優先事項は、ロイズを無事に避難させることだ。リッジはすでに昏倒している兵士たちから興味を失い、その横を通り抜ける。レヴィシアとルテアは、なんとかその先になって進んだ。
けれど、心のうちでは叫んでいた。
敵だとみなして殺してしまえば、もう襲われる心配はない。そうしなければならない状況も確かにある。
けれど、個人的に恨みがあるわけではないのに、殺意など、そうそう芽生えるはずもない。
できれば避けたい。生きていてほしいと願うのは、いけないことなのだろうか。
みんなに手を汚させておいて、ずるいことを考えているのかも知れない。
だとしても、世の中にはそんな甘さが必要だと言う人たちもいる。
邪魔だから殺していいなんていう、殺伐とした世に、人は住めないから。




