〈1〉死の床より
彼の人は、死の床より手を伸ばした。
最上級の天鵝絨の天蓋。高貴な真紅の色が、今は目に痛いばかりだった。
細く痩せた指先が、宙をさまよう。その瞳は、何を探しているのか。
窓辺から城下を見下ろしていたフォード将軍は、すぐさま窓を閉めてベッドに駆け寄った。
「我が君、苦しいのですか? 今、典医を呼びにやります。しばし、ご辛抱を――」
けれど、そこに横たわる主君は、やつれた面持ちで不意に微笑んだ。
「いや、気分はいい。むしろ、今日は調子がいい方だ」
病に倒れてどれだけ経ったか。苦しくないはずはない。尋ねる方が愚かだった。
そんな自分を恥じたけれど、王は少しかすれた、それでも穏やかな声でつぶやく。
「夢を見ていた」
「夢、ですか?」
どのような、と尋ねることはしなかった。ただ、その声に耳を傾ける。
「幸せな夢であったよ」
その穏やかさに、どうしようもなく心がざわめく。どこか達観した、彼岸へと向かいかける魂を感じずにはいられなかった。
「……なあ、フォード」
「はい」
「私は、王になど相応しくない、ただの凡人であったな」
「そのようなことは――っ」
強く否定する思いを込めた言葉を、王はクスクスと、笑い声ではっきりと遮った。
「次の王には誰がなるのであろうな? このまま曖昧に、継承者を決めずにおいたのなら、この国はどうなるのだろう。……誰が立とうと、そばにはお前がいてくれる。そのことだけが私の心を軽くしてくれるのだが」
お任せ下さい、とはどうしても言えない。心にもない嘘で、この心優しい主君を見送りたくない。それは、単なる自分の我がままであったのかも知れないけれど。
「……私は、十五の歳から父王様に仕え、代替わりされた後、陛下にお仕えしてまいりました。すでに二君に仕えた身、陛下は私にとって最後の主君。そう思っております」
望むのならば、あの世までも付き従う覚悟である。
半生を共に生き抜いた主従として、そうありたいと願う。
けれど、この国の行く末を憂う気持ちが、この主君にないはずがなかった。
「嬉しいことを言ってくれる。けれど、お前は私には過ぎた家臣。私が独り占めにはできぬよ」
どこまでも穏やかで、心優しいお方。だからこそ、王であることがどれほどの重責であったのか、それを誰よりも自分が間近で見て来た。己を捨て、その心が安らぐことを選ぶ――それが本当の忠義ではないだろうか。
「なあ、私は王として、この国の安寧を、そのための取り決めを、この命が尽きるまでにせねばならない。そうとわかっていても、心は――いつまでも、それを拒んでしまう。私はやはり、どうしようもない只人で、王の器などではない。だからこそ、天は私に病をお与えになったのではないだろうか?」
武人である自分は、何時も鍛錬ばかりを積み重ね、武力ばかりを磨いて来た。それが今になって悔やまれる。今、この瞬間に、主君を慰める言葉を持たないのだから。
「そんなことを仰らずに、どうか、お気を強くお持ち下さい」
言えた言葉がただそれだけとは、情けないものだ。勲章も武功も、馬鹿らしいほど役に立たない。
王の病は、治る見込みのない、不治の病であると、典医から知らされたのは、ほんの一握りの人間だけである。けれど、未だに信じ切れていないのは、この主君のいない世界が、自分には見えないからだ。
いつか、また起き上がって、あのバルコニーに立って、城下に優しく手を振られるのではないかと、どこかでまだ考えていた。
病は気からと言う。何か、この主君が希望を見出せる、明るい出来事があるといい。
それは、別れて久しい弟との再会か。けれどそれは、一歩間違えれば途方もなく悲しい再会となる。もしそうなった時のことを考えると、どうにも恐ろしくて実現できなかった。
そうなると、姉であるクランクバルド公爵の孫、ユミラ少年と引き合わせてみるべきか。利発な少年だという。まだ歳若い彼の中に、明るい未来を見出すかも知れない。
フォードに限らず、家臣たちは王の薬とするべく、王にとって喜ばしいものを探していた。
こんな時、御子がいたのなら、支えになってくれたであろう。子を成さなかった王妃は、病床で眠る王の手をそっと握るばかりだった。言葉がないのは、お互いが言葉などなくとも分かり合えるからなのか、それは二人にしかわからない。ただ、そんな時の王の寝顔は安らかであったように思う。
そんな日々が続いた。
けれど、ある日、王はやつれながらも瞳だけが少年の頃に戻ったかのように、希望を抱いていた。
家臣たちがそろいもそろって探せずにいた、王の希望は、思わぬところから顔を見せたのである。
それは――。




