〈23〉漆黒の鳥
レヴィシアたち救出班は全員監獄の内部へと潜入することができた。
陽動班の働きにより、下の階が割れるように騒がしかったけれど、現在地の廊下に人影はない。
ざらつく床の上で、彼女たちはその空気を感じ取る。
ここからが正念場だ。
ここで、ユイとラナンとシェインの三人は別れることとなる。
七人はうなずき合った。再会を約束するように。
レヴィシアたちが先に廊下を駆け去り、ユイたち三人はそれを見送る。
シェインは腕をいっぱいに伸ばして首を回す。
「さて、向こうに注意が行かないようにひと暴れするか」
「まず、ティーベットたちを開放しないと」
潜伏させたのは、ティーベットを含めて八人。貴重な戦力だ。
ユイは無言でレヴィシアが去った階段を眺めていた。そんなユイを見て、シェインは苦笑する。
「別行動は心配か。けど、それならレヴィシア嬢ちゃんと一緒に行ってやればよかったのに」
すると、ユイはかぶりを振る。
「俺は頼まれたことを実行するだけだ。それに……俺が戦うところはあまり見せたくない」
人を斬り、血にまみれる姿を見られたくない。
そんな気持ちが、シェインにはわからなくもなかった。
自分も、息子には見せられないと思う。
甘い考えだけれど、否定できるものではない。シェインは、せめてこの青年を安心させてやろうと思った。
「まあ、リッジが付いてるから、大丈夫だろ」
「リッジは冷静だから、無茶はしないし、させないか」
そのラナンの言葉に、シェインは苦笑した。
「それもあるけど、それだけじゃない」
彼らとは違う場所で、レヴィシアたちはその力を目の当たりにすることとなる。
※※※ ※※※ ※※※
「――サマル、遅い!」
灯燭が照らす螺旋階段を登りながら、レヴィシアは下段のサマルを見下ろした。
実際にサマルが遅いのかというと、そうではない。他の三人が抜きん出て俊足であるため、ひどい扱いを受けている。本来は功労者であるはずが、そんな功績はすでに忘れられていた。
「あのなぁ……」
そもそも、後方支援の第二班に属するサマルに、無茶を言う。
階段を駆け上がりながら、ぜぇぜぇとわき腹を押さえるサマルに、ルテアも短く声を飛ばす。
「喋ると消耗するだろ。喋んな。走れ」
レヴィシアとルテアは、一応サマルを気にしながら走っている。けれど、リッジはさっさと上って行ってしまった。
単独行動は危険だ。彼は気が逸りすぎている。
早く追い付かなければと思うけれど、螺旋階段は終わりを見ない。
さすがのレヴィシアも疲れを覚え、くらくらする頭と張り裂けそうな心臓でなんとかがんばる。
三人が徐々に上に近付いて行くと、無骨な階段の上から、赤い色が筋になって流れ落ちて来た。血なまぐさい匂いと、粘り付くような嫌な空気が立ち込める。
ぎょっとしてレヴィシアとルテアは顔を見合わせると、サマルを放置して足を速めた。先行しているリッジのことが頭をかすめる。
滴る血の跡を避けながら、二人は階段を跳ねるように進んで行く。
そして、そこで見たものは、信じがたいまでの非日常的な惨状だった。
狭い螺旋階段の上で、何体もの屍はうつ伏せに折り重なり、大量の血を外にまき散らかして事切れたようだった。そんな光景が何段にも渡り、続いている。
彼らは皆、監獄兵だ。肩や胸、関節などの要所に皮革の防具をして武装している。けれど、彼らが切り裂かれたのは、覆われていない柔らかな首筋だった。壁にまで飛沫した夥しい出血の跡に、レヴィシアは思わず口を押さえて小さくうめいた。
思わず涙が浮かんで、のどの奥からたくさんのものが込み上げて来る。
覚悟が足りなかったというのだろうか。
自分たちがしていることを正当化するためは、目にするべきではないものだった。
足もとがふら付く。すると、後ろから両肩をルテアが支えてくれた。そのルテアの顔も、驚くほどに蒼白だったけれど。
「レヴィシアはサマルと一緒に下で待ってろ」
これ以上、先へ進めば、何が待っているのかわからない。もっと悲惨な光景に出くわすかも知れない。ルテアなりに心配してくれているのだろう。
けれど、レヴィシアはかぶりを振った。
理想を語るだけでは実現できない願い。
だとするのなら、絶対にここで立ち止まってはいけない。
奪う命の分だけ、しっかりと前に進まなければ、その命は無駄になる。
どんな光景も目に焼き付けて、忘れてはならない。最初にそう誓ったはずだ。
勝手な言い分だけれど、レヴィシアにはそれしか思い付けなかった。
心の中で何度もごめんなさいと謝りながら、レヴィシアは先を急ぐ。
ルテアさえも通り越し、レヴィシアは迫り来る恐怖を必死で振り払った。ルテアは歯を食いしばり、顔をしかめて、レヴィシアを気遣うように見やりながら横に並ぶ。
そして、階段が途切れた。ここが最上階なのだろうか。
奥にひとつだけ扉があり、その手前の通路の入り口で、二人は立ち尽くす。
ただ、灯りに照らされても尚、踊るように揺れる闇色に目を奪われた。
それは風に舞う木の葉のような軽やかさで、彼が動きを止めると、彼の漆黒の衣もふわりと落ち着いた。そんな姿は、翼を休めた漆黒の鳥のようだった。
その優雅でさえある動きのそばで、赤色の噴射が壁を染め、幾人かの体が崩れ落ちる。
それでも、彼がその色に染まることはない。飛沫を浴びるような鈍さはないが、もし仮に浴びたとしても、血潮の色さえも凌駕する闇色が彼を守っている。
普段はにこやかな彼からは想像もできないような姿だった。
声をかけることも忘れ、二人はただ呆然としてしまう。
あの一瞬を見て、他に何ができただろうか。
リッジは剣を振り回したわけではない。監獄兵の首筋を撫でるように、手を動かしただけだ。その指先に固定されていた刃物が、その首筋の血管をかき切るのに要した時間は、それこそ瞬くほどしかなかった。これほどまでに短い時間で人を殺めることができるなんてと、ただ戦慄を覚える。
当のリッジは、二人の姿を認めると、小さく微笑んだ。
それは、いつもと同じものだったのかも知れない。けれど、二人にとってそれは異質なものであるように思えた。
リッジは、ロイズを助けたい。ただそれだけを願っている。
より確実に先へ進むために、障害は排除する。そのためなら、今だけは情など投げ打ってしまってもいい。そう判断したのだろうか。
この切迫した状況下で、彼は選んだ。そのひた向きさを責めることが、レヴィシアにはできなかった。
ただ、何も言えないくせに、ほんの少しのわだかまりは残る。
リッジに向けたものではなく、もっと大きな何かに向けた、やるせない気持ちだった。
この時、サマルは三人に追い付こうと必死だった。
ただ、今まで体験したことのない地獄絵図に、足が震えてしまう。歯を食いしばり、そんな自分に鞭打って、サマルは急いだ。
けれど、ここで倒れている兵士ひとりひとりに家族がいたはずだ。こんな死に方が相応しかった人間なんていない。それでも、兵士となった以上、危険は覚悟していたと思うよりないのか。そんなものは、危害を加えた側の勝手な言い分に過ぎないのだとしても、そう考えないと、今は立っていられない。
胃の中のものを全部吐き出して、大声で叫びたい気持ちを抑え、足を進める。
その時、サマルは折り重なった骸のうちの一体に目を留め、愕然とした。
屈強な兵士たちとは明らかに違う矮躯。冷たい階段に爪を立てたままのしなびた手。
流す血が、どろりと粘着を持つ。その亡骸は――。
「嘘……だろ……?」
それでも、その震えるつぶやきに答えは返らない。
すでに果てた魂には、どんな声も届かなかった。




