〈37〉目が覚めたら
そっと、労わるように優しく、ひやりと冷たいものが額に触れた。その途端に、レヴィシアは小動物のように体を強張らせる。そうして、両目を限界まで見開くようにして覚醒した。
鼓動が、撥ねるように強く打つ。そんな中、まず見えたのは、ほっそりとした白い指だった。その先を伝うと、安堵のため息をつくプレナの姿があった。遅れて見上げた天井に見覚えはなく――そう思ったけれど、記憶の片隅に残っているような気もした。けれど、それを正確に呼び覚ますことができなかった。
それ以前に、状況がまるでわからない。
わかるのは、今、自分がどこかのベッドに寝かされていて、その傍らにプレナがいるということだけだ。
そう考えて、段々と思い出して来ることもあった。
自分は、王弟に会うために塔の最上階を目指していた。その途中、具合が悪くなった状態で一人になり、危ないところをリッジに助けられたはずだ。それなのに、リッジの姿はなく、リレスティにいるはずのプレナがいる。ここはリレスティなのだろうかと思ったけれど、どうやら違うようだ。
熱はまだ下がり切っていないらしく、頭の芯が鈍く痛い。ぼんやりとしたままでいると、涙ぐんだプレナの声がした。
「無茶ばっかりして! 嫌な予感って、どうしてこう的中しちゃうの!?」
泣かれてしまったので、謝るしかなかった。
「ごめん……」
そうして、落ち着きを取り戻したプレナの口から、ここが作戦前に立ち寄った漁村の宿であることを知った。高熱のあるレヴィシアをリレスティまで運ぶのは憚られたので、もう少し熱が下がってから戻るつもりだった、と。
「……リッジは?」
そう、つぶやく。
すると、プレナはほんの少しだけ困惑したような表情を見せた。それは、仕方のないことだろう。
「レヴィシアのこと、リッジが助けてくれたんだって聞いたわ。託されたルテアが言うには、後のことはわからないって」
送ると言ってくれた。安全だと思えるところまで送ってくれたということだ。
当人が言うように、戻って来る意志はないのだろう。それは、仕方のないことなのかも知れない。
レヴィシアは、気だるくため息を吐き出した。そうして、普段以上に鈍くなってしまっている頭が、先ほどの会話の違和感を伝える。
ぼんやりと。
そうして、それは次第に鮮明に――。
「ルテア?」
そこでようやく、プレナは涙を拭いた。
「……本当に、覚えてないのね」
ベッドから上半身を起こしたレヴィシアを、プレナがとっさに支えてくれた。
その手を、レヴィシアはつかむ。プレナは、そんな彼女に、慈愛のこもった優しい目をしてささやいた。
「ルテア、帰って来たのよ。リレスティに向かう途中で組織の仲間に出会ったんだって。事情を知って駆け付けてくれたみたい。それで、レヴィシアのことを塔から運び出してくれたのはルテアだから」
その言葉で、レヴィシアは自分の不調などどこかに置き忘れてしまったような気がした。胸がドクドクと高鳴るのは、熱のせいではない。
帰って来てくれた。
やっと会える。
その想いが、何にも勝った。
ベッドから体を滑らせるように下りると、プレナのそばをすり抜ける。
「あ! レヴィシア!」
プレナは心配そうに声を上げたけれど、追いかけては来なかった。止めても無駄だと、気の済むようにさせてくれたのだろうか。
靴を履くのも忘れ、裸足のまま。そんなことに気付いたのは後になってからで、靴を履きに戻る時間さえ惜しかった。
客室を抜ける。簡素な板張りの廊下を見渡しても、そこには誰もいなかった。
レヴィシアは下に下りる階段を見遣り、そちらに急いだ。その先にきっといるはずだと。
会いたいと思う気持ちが、徐々に膨れ上がって、のどを締め付ける。
顔を見て、帰って来るのが遅いと、文句のひとつも言いたい。
そうしたら、その後で素直に言える言葉もあるから。
逸る気持ちとは裏腹に、思うようにならない体。
それでもなんとかして、折れ曲がった造りの階段を下りた。
そうすると、賑やかな笑い声がする。その声は、紛れもなく、ルテアの声だった。
それから――。
階段を下りた先のロビーにいたのは、どこか逞しくなったと感じられるルテアと、彼を囲むようにしている数人の見知らぬ人々だった。
正面の青年は、ルテアを見守るようにして笑みを浮かべていた。
傍らの少年は、明るい笑顔を振り撒き、ルテアの肩にのしかかるように腕を置いている。
彼らと共にいるルテアは、楽しげだった。活動を通し、思い詰めた表情が増え、あんな風に笑うルテアを見ることはほとんどなくなった。まるで、重荷から解放されたかのように思えた。
けれど、それよりも何よりも、レヴィシアがどうにもならない苦しさを覚えたのは、そんなルテアの傍らに寄り添うようにしていた少女の姿があったからだ。少女が腕を絡ませると、ルテアはそれをやんわりと解く。照れているような印象だった。
この時になってようやく、わかったことがあった。
ルテアを待つ間に、こんなにも気持ちが育っていたのだと。
けれど、今更そんなことに気付いても意味なんてない。
変わらないものなんて、あるわけがなかった。
自分の気持ちが変わったように、ルテアの気持ちが変わらずにいる保証なんてなかった。
あの日、別れる前に、ちゃんと想いを言葉にできなかった自分が悪いのだ。
わかっているけれど、悲しくて仕方がなかった。
こんな風に思うのは勝手だけれど、自分はいつだって、好きな人の一番にはなれないのかも知れない。
ただ、涙がこぼれそうで、虚しかった。
呆然としていると、ルテアが不意に顔をこちらに向けた。その目に見つめられることが、どうしても耐えられそうになかった。だから、目が合ったか合わなかったか、それさえはっきりとわからないうちにきびすを返した。ルテアの表情がどんな風に変わるのか、それを確かめる勇気が持てなかった。
ただ、それだけのこと。
つまりは、逃げ出した。




