〈35〉生きて
ヤールの操る二本の剣は、彼自身の雄雄しい外観とは違い、柔軟で伸びやかだった。ユイトルが力強く踏み込めば、その一撃を交差させた剣で相殺する。その剣に、まるで蛇のようなうねりを感じさせた。
けれど、ユイトルはその剣を巧みに弾く。双剣に追い付くだけの速さと、間合いの読み。少年であった頃でさえ、将軍である父をも凌ぐようになると噂された力量は、このような立場になって更に研ぎ澄まされたのだろう。
シーゼは、自らでは数合と持たなかったであろう相手であるヤールに対し、ユイトルがまったく引けを取らないことを確信した。
けれど。
戦いは常に、何が起こるとも知れない。
今、ユイトルが僅かに優勢に見えるけれど、少しも安堵できなかった。
加勢しようにも、かえって邪魔にしかなれない。だから、ただ祈るように、両手を組む。
そんな時、ヤールの左側の剣が、ユイトルのわき腹をかすめた。
「っ!」
シーゼは声もなく、口もとを押さえる。のどの奥から、うめき声がもれるけれど、そんな小さな声は、ひと際甲高く鳴った剣戟の音に掻き消された。
ヤールの右の剣が、ユイトルの一撃により、弾き飛ぶ。回転して宙を舞った剣は、ガラン、と無機質な音を立てて床に落ちた。そのまま床をすべり、シーゼの前方で止まる。シーゼはとっさにそれを奪うように拾い上げた。
この一撃のために、あえてユイトルは傷を受け入れたのだろう。
それでも、ヤールの手もとにはもう一本の、赤い房の付いた剣がある。まだ、戦えるだろう。けれど、これで有利な状況に持ち込めたと思いたい。
ヤールは、自分の剣を拾い上げたシーゼの方を見遣ると、僅かに苦笑した。そんなヤールに、ユイトルは冷え冷えとした声で問う。
「まだ、続けるか?」
その途端、ヤールはまるで手負いの獣のような、身も凍る眼をした。ユイトルに向けられたそれを垣間見たシーゼの方がぞくりとする。
「当然だ」
低くつぶやく声が塔の中に響いた。
ヤールの持つ空気が、がらりと変わる。これが、武人としての彼の本来の姿なのかも知れない。
もう、後には引けない。どちらかが死ぬまで、この戦いは終わらない。
それを感じてしまった。
シーゼ自身も剣士であり、常に死も覚悟した上で剣を振るっているつもりだった。けれど、こうして直面してみれば、そんな覚悟は傲慢だ。自分はいい。死ぬのなら、それまでだから。
けれど、残された人々は――。
今のユイトルには、レヴィシアを守り、改革を成し遂げるという使命がある。
それが、彼の命を繋ぎ止める未練であることを祈らずにはいられなかった。
つまりが、なんだっていい。
生きていてほしい。
願うのはそれだけだ。
二人の戦いは熾烈で、シーゼはその他のことにまるで気付かなかった。戦う二人も同様だったのだろう。
シーゼの背後から、凛とした涼やかな声が、戦いの音も何もかもを凌駕してその場に響き渡る。
「ヤン、そこまでだ」
たったその一言だった。
なのに、ユイトルと競り合いながら、あれだけの殺気を放っていたヤールが、まるで我に返ったかのように表情を変えて行く。シーゼは螺旋階段を上がって来た人物を振り返った。
そこにいたのは、明らかに高貴な青年だった。麗しく整った容姿に、隙のない空気をまとっている。大げさな物言いをするのなら、どこか神々しくさえある。大多数の人間が、直視することをためらって、ひれ伏してしまうような、そんな特別な人間。
そうして、その背後に付き従うもう一人の青年を見て、その正体に気付いた。
レイヤーナ王子、ネストリュートとハルトビュート。その兄王子だ。
つまり、この青年は、ヤールの主なのだ。主の言葉は、絶対なのだろう。
手負いの虎さえも、手懐けられたかのように変貌する。
「ネスト様……何故……」
驚きを隠せずにいるヤールに、ネストリュート王子は、その場の血腥さを感じさせず、薫風のようにそっと微笑んだ。
「この場は退く。来い」
「っ……」
体中の血が沸き立つような戦いを、先ほどまで続けていたのだ。それを、あっさりと鎮めろと言う。
けれど、ヤールは主に忠実だった。一度、牙をむくように顔をしかめたけれど、次の瞬間には短く嘆息した。
ネストリュート王子は、ヤールと対峙していたユイトルにも静かに視線を向けた。ユイトルは、表情を浮かべずに彼を見据える。王子の器を量るようにして。
そんなユイトルにも、ネストリュート王子は悠然とした笑みを崩さなかった。
「この戦いは預けさせてもらう。納得は行かないかも知れないが、すでに下の戦いも沈静化した。ここは君も退いてほしい」
ユイトルは、まだ肩で息をしながらも、静かに返す。
「仲間たちに手を出さないのであれば」
洗練された動作で、ネストリュート王子はうなずいてみせた。
「ああ、あの少女も無事だ」
その一言に、ユイトルが安堵したことが、シーゼにも伝わる。
ヤールはまだ厳しさを残した面持ちでシーゼから剣を受け取る。そうして、彼らは先に塔を下りた。ハルトだけがこちらを振り返って、最後まで気にしていた。
下の状況やレヴィシアの状態も気になる。早く向かいたいのは山々だけれど、彼らに並んで下りることはできそうもない。だから、しばらく待つしかなかった。
沈黙が、その場に残された。
ユイトルは何も言わない。だから、歩み寄ったシーゼが先に口を開いた。
「傷は大丈夫なの?」
わき腹の傷から流れた血が、破れた服を染めている。そこに視線を落とすと、そっけない声が返った。
「かすり傷だ」
あまりに予測通りの言葉だ。
「そう……」
けれど、小さくつぶやいた途端に、自分ではどうしようもないくらいに涙があふれた。嗚咽も堪え切れず、肩が大きく上下する。目の奥、それからのど、頭も、感情に締め付けられて疼く。
あまりに唐突で、さすがのユイトルも驚いたようだった。
それもそのはずで、こんなにも号泣したところを、ユイトルに見せたことなどなかった。
優しい言葉をかけてくれることもなく、それでも困惑した瞳が自分に向けられる。涙でぼやけた視界で、おぼろげにそれを感じた。
今はもう、自分からは離れて行った人だと思うのに、抑え切れないような気持ちがあふれる。
昔とは違う。彼は、他に守るものを見付けたのだから、いつまでも追いすがってはいけない。
けれど、気持ちを切り離すこともできないまま、物分りのいい振りを続けても、こんな時には隠し切れない。
ほとんど衝動的に、シーゼはユイトルの首に腕を回し、力を込めていた。涙も嗚咽も止まらないまま、ユイトルの服の染みが汗と涙の区別が付かなくなるまでそうしていた。そっと、背中に触れた指先が、想いを返せないことへの、せめてもの慰めであったのかも知れない。




