〈33〉柔らかな心
ガラガラと音と振動を立てて走る馬車の中、ユミラは祈るようにして手を組んでいた。
決意は、固まっていた。
喪うくらいなら、なんだって耐えられる。
自分が大切な人々を守るためにできることがある。それを幸いだと思うしかなかった。
不安。
孤独。
彼女たちと出会ってから、忘れていたものが再び自分を飲み込む。
そんな弱い自らを信じきれないからこそ、迫り来る未来に震えが止まらない。
自分は、ネストリュート王子のような強さも、才覚もない。まっすぐに、間違うことなく正しいものを選ぶことなどできないだろう。
けれど、それではいけない。
一度だって間違えてはいけないのだ。
王とは、そうしたものだから。
馬車の中で、ネストリュートは何を語るでもなく、ただ静かにユミラのそんな姿を眺めていた。
その瞳は、期待でも落胆でもない、言葉にできないような色をたたえていた。
馬車が海沿いの塔に近付いて行く。カモメの声がユミラにそれを知らせた。
戦いの音が、耳に届く。一台の馬車が停止したくらいでは、それは変わらなかった。
けれど、地に降り立った時、ユミラが目の当たりにしたのは、傷付きうめく仲間たちの姿ばかりではなかった。もちろん、けがをしている者たちもいる。それでも、皆は懸命に戦い続けていた。諦めはそこになかった。
むしろ、押されているのは兵士の方だった。多くのレイヤーナ兵と、一握りのシェーブル兵。彼らも懸命に戦うが、不利だと見て取れた。ユミラには見覚えのない男たちが、レジスタンスに味方している。
その中でもひと際目を引いたのは、一人の青年だった。
黒く長い棒を、まるで体の一部のように操り、流れるような動きで次々と兵士をなぎ倒している。それは雄偉な姿だった。ユイやフィベルのように、天賦の才を与えられた者――。
敵ではないことだけはわかるけれど、何者なのか、まるでわからない。
ユミラの隣に降りたハルトも、その戦場の流れに唖然としていた。かと思うと、その中に何かを見付けたようで、急に駆け出した。丸腰のハルトが戦地へ足を踏み入れてしまったことに、馬車の中のティエンはひどく衝撃を受けたようで、声もなく青ざめていた。馬車から降りようとした彼女を、ネストリュート王子は押し留める。
「お前はそこにいろ」
途端に泣き出しそうな表情になった彼女に代わり、ネストリュートがユミラの隣に降りた。
「これはまた、随分と番狂わせなことだ」
そうは言うけれど、堪えた様子はない。どこかにゆとりを残している。そう見えるだけなのか、そこは判別できなかったけれど。
すると、横から鋭く声がかかった。喧騒の中、かき消されても不思議ではなかったけれど、拾うことができたのは、聞き慣れた声だったからだ。
「ユミラ様!」
周囲に護衛もなく、ザルツは一人でこちらに駆け寄って来た。計画では、近くで待機しているはずだったのに、戦地の只中にいる。何か、不測の事態があったのだろう、とユミラは心臓を締め付けられる思いだった。
「ザルツさん……」
ユミラの隣に立つ人物を見ても、彼は平然としていた。もちろん、その存在に畏れはあるものの、驚きはしていないと言った方がいいのかも知れない。
「ご無事で何よりです。……やはり、ユミラ様を連れ出されたのは、ネストリュート王子でしたか」
「気付かれていたのですか?」
ユミラがそう尋ねると、ザルツは苦笑した。
「気付いたのは今し方ですが。ですから、この戦いを止めなければと……」
すると、無言で二人を眺めていたネストリュート王子はおもむろに口を開いた。
「君は、どうやら気付いたようだな」
ザルツは途端に厳しい面持ちになり、視線の先を王子に向けた。
「……この塔に王弟殿下はおられない。そうですね?」
「え?」
思わず、ユミラは声をもらしていた。耳を疑ってしまう。
あの歳月を幽閉されて過ごしたジュピトが、この塔にいないとは、どういうことなのか。
「レジスタンスに狙われる恐れがある。安全のために場所をお移り頂くのは当然だ。しかし――」
と、王子は言葉を切る。そうして、その視線の先には、一人のぐったりとした男性に肩を貸して戦地を抜けようとするハルトの姿があった。
「見誤ったのはこちらの方だな。この場は退くとしよう」
そうして、ユミラを見据えると、ネストリュートはそっと微笑んだ。
「君は、自分一人のことならば強く在れる。けれど、他人が絡んだ途端に脆さが見えた。その柔らかな心は、王として時に必要な、非情であるべき決断を避けてしまうだろう」
けれど、と辛辣にも聞こえた言葉には先があった。
「その優しさは、人としてすばらしいものだ。君自身のことを、私は好ましく思う。それは確かだ」
ユミラは呆然と、返事も忘れてその声に聞き入っていた。
この王子のようにはなれない。だから、王に相応しくないのは当たり前だった。
ネストリュート王子は、なんの恐れもなく、前へ踏み出す。それに気付いたレイヤーナ兵たちが、戦いを放り出してその周囲を守るようにして壁を作った。
ザルツはとっさに、近くにいた仲間たちに戦いを中断するように声をかけた。
戦いの場は、血腥い匂いだけを残し、波紋のように静けさを広げて行く。
そんな中、ハルトが兄王子のそばを通りかかる。ネストリュート王子は、ぐったりとした男の顔を見遣り、それからハルトに言った。
「息はあるな?」
「はい。けれど、タオが打ち負かされるなんて、信じられません」
「けれど、事実だ。ヤールも危ういところかも知れないな」
「まさか」
そう答えながらも、ハルトは少し不安げだった。その場にいた兵士たちに、そのタオという男を託すと、ハルトもネストリュート王子と共に塔へと向かう。
レジスタンスの誰も、その動きを妨げることはなかった。ただ、目で追うことだけがやっとであったのだから。




